主への純潔を整え直す

6月6日(日)  コリントⅡ11:1-6

私たちの読み進めている第Ⅱコリント書は、理路整然とした学術論文ではありません。伝道者と教会の間に交わされる手紙です。しかも、両者の関係は、こじれているのです。

 この第2の手紙は、パウロがコリント教会に送った複数の手紙の寄せ集めではないかと考えられているという話をしました。一応、その説に従って再構成していきますと、関係がいよいよこじれていく過程を辿り、また仲直りし、共に一つの奉仕に専念していく様子まで確認できる、興味深い手紙です。

 初代教会に起きた伝道者と、一教会の仲違いから仲直りまでの、道のりが朧気にでも確認できる手紙が残されていることは、とても、興味をそそることです。

 けれども、その一方で、初代教会のそんな内輪のごたごたが、何千年と聖書として読み継がれることになると、パウロとコリント教会は意識していたかどうか、きっと思いがけないことであったろうと思います。

 しかし、やはり、そこには必然性があったと思います。イエス・キリストに表された神の言葉、神の出来事というのは、この世界に受肉するもの、私たちの具体的な日常に、形を取り、また新しい形を与えていくものだからです。

 「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが」と、パウロは今日、切り取られた小さな区分で語り出します。

 こんな言葉、普通考えれば、2000年も神の言葉として読み継がれて行くような言葉ではありません。なぜって、「今から少し自慢話をするよ。でも、自慢話をするのは、愚かな奴だから、私は、これから愚か者になって話すから、少し我慢してほしい」と語っているからです。

 人と人との会話がこんな言葉のやり取りにまで至らなければならなくなってしまっている状態というのは、正常なことではありません。

 これから語ることは、どう聞いたって自慢にしか聞こえない。「オレ、すごい」と言ってるようにしか聞こえない。そんなことを自分で口にすることは、いかに恥知らずなことか、パウロは知っています。

 そもそも、コリント教会にパウロの後にやってきた「オレ、すごい」と、高ぶっている伝道者たちに騙されるなと、警告し続けてきたのです。

 そのパウロが、ここでは、いかに自分は有能な、真理を悟った伝道者であるかを、宣伝して教会を惑わしていた人たちと同じ土俵に上がってしまうのです。「こんなこと言いだしたら、本来であれば、恥知らずの愚か者になってしまうが、でも、言おう。私は少しも負けていない」という風に。

 この言葉だけでも、パウロは、後に自分のこの手紙が、聖書の一部として2000年も読まれていくことを知ったら、顔を赤らめるに違いないと思います。

 しかも、これは、弁が立ち、目端の利く人間として、説得のための一つの弁論術として、余裕で、計画的に話し出したような言葉には見えません。

 「いや、あなたがたは我慢してくれています」という続く言葉は、一方においては、こんな激しいやり取りになってしまっている現在も、パウロと絶交せずに、手紙のやり取りを続けていることへの感謝とも言えますが、きっとそれだけではありません。

 4節に「あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです」とあります。

 これは、非常に強烈な皮肉の言葉です。パウロにとってはどうにも我慢のならない、偽りの福音、現代の言葉で言えば、異なるキリスト理解、異端的な聖霊理解を、偽教師に導かれて喜んで受け入れてしまったコリント教会の姿を、「あなたたちは我慢強いですね」と、痛烈に皮肉っているのです。

 だから、私の自慢話にも、「我慢してほしい」という言葉も、丁寧なお願いというよりも、同じように強烈な皮肉であると言えると思います。これは、私たちが第三者として外から見るならば、少しやり過ぎているパウロの言葉かもしれません。ヒートアップし過ぎています。

 こういうところは、ここでパウロ自身が6節で、「話し振りは素人」と言い訳しなければならなかったような、決して雄弁家にはなれない、人たらしにはなれない、パウロの不器用さがあると思います。こういうところがうまい伝道者はいますけれども、パウロは、上手とは言えません。

 けれども、何でこんな不器用な言葉になって、それでも、一生懸命自己弁明しようとするかというと、2節です。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」という理由によります。

 この2節、とても印象的な言葉ですすが、口語訳では、さらにインパクトのある言葉でした。

 「わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。」とあります。

 神の熱情、御自分の民を、妬むほどに愛するという主なる神様の熱情です。その神の妬み、神の熱情、私たちに対する神の熱い思いが、パウロを駆り立てているのです。

 説得のための弁論術としては不合格です。円滑なコミュニケーションのための言葉選びという点においても、失敗です。

 けれども、神の熱情のほとばしり、パウロという一人の伝道者、キリスト者を通して、神の熱い思いが、破れ出ている言葉とは、こういうものだろうと言うより他ありません。

 2節後半、私たち教会に対するその神のほとばしり出る熱情的な愛は、私たち教会を花嫁と見るキリストの愛だとパウロは言います。

 パウロはそのコリント教会という花嫁の父親であるかのように、あるいは、仲人のように、美しく純潔な花嫁として、キリストに捧げたと言います。

 花婿であるキリストの愛に突き動かされて、ただその意を汲んで、コリント教会を純潔なおとめとして、キリストに差し出しました。

 信仰生活とは、キリストの花嫁として生きることです。キリストを離れず、ひたすらキリストを見つめて、キリストに対して、堅く節操を守って、他の者には目もくれず生きていくことです。

 花婿キリストは、私たちを愛し、私たちに救いを与え、誠実を尽くしてくださいます。

 このキリストに真心と純潔を捧げ続けるのが、私たち信仰者の愛の務めです。それをパウロは、婚約させ、キリストに捧げたと言います。

 けれども、3節です。今、そのキリストの花嫁であるコリント教会に、エヴァを誘惑して神様に背かせたような蛇の誘惑が、迫っているのではないかと心配していると、パウロは言います。

 パウロが心配するエヴァの失敗とは何であったのか?それは、蛇の悪だくみによって欺かれ、思いが汚されてしまったことです。

 具体的には、自分が善悪の判断の最終審判者となり、神なしでやっていける。神から自立できると思い込むようになってしまったということです。

 コリント教会がこの罠に落ちかけているとパウロは、落ち着きなく騒いでいるのです。

 冷静に考えると、コリント教会が陥っている誘惑が、エヴァが陥った誘惑に比べられているということは不思議なことであるかもしれません。

 なぜならば、コリント教会員は、自分は神なしでやっていけると宣言する無神論者になりそうだったというわけでは少しもないからです。

 相変わらず神を信じているのです。むしろ、10:7の記述に戻れば、パウロを押しのけて、「自分こそが本物のキリスト者だ」という強い自負を持っていたのです。

 ところが、その信じ方が、問題なのです。キリスト者であるつもりでいながら、いつの間にか、異なったイエスを信じ、違った聖霊を受け入れ、違った福音を信じ始めているのです。

 イエス・キリスト、聖霊、福音というパウロと共有する同じ言葉を用いながらも、別ものになってしまっているのです。

 信仰生活において、そのお方の花嫁としてキリストへの純潔を保って生きるというのは、生活と言われるわけですから、生き方が問題になると直ぐに私たちは考えるかもしれません。

 正しい教えを頭で知っていても、正しい生活ができないならば、それは、真心と純潔の籠ったキリストへの愛とは言えないと。

 けれども、ここで、パウロが何よりも問題としているのは、頭でっかちではなく、具体的に実を結ぶ信仰者としてキリストへの愛に生きたいという時に、私たちがしばしば軽んじ始めるキリストをどう信じるかに関わること、教会の言葉で言えば、教理の内容に関わることです。

 エヴァの失敗は、禁じられた行為をしたという実践ではなしに、既に、その前に、神様に対する正しい信仰を失ったことによります。

 だから、私たちにとって、キリストに対する真心と純潔を失わないために最も大切なことは、正しい信仰を持つことです。

 初代教会だけではありません。「自分たちこそが本物のキリスト者だ」という強い自負を持つコリント教会のように熱心な信仰者たちこそ、教理を軽んじる傾向があります。あるいは教師だけが、しっかりと教理を学んでくれていればいい、ややこしいことは任せるとなりがちです。

 けれども、私たち改革派の伝統に生きる教会は、教理を学ぶことは、信仰の足腰を強めることだと重んじてきました。牧師だけではありません。長老も、信徒も、教師の説教をきちんと福音の筋道に沿って批判できるほどの筋の通った骨太の信仰者になることを、神様はお望みだと信じています。パウロが、ここで言いたいこともそういうことでしょう。

 パウロは知識を軽んじないのです。しかも、イエスさまをどう信じるか?聖霊のお働きをどういうものと見るか?福音をどう理解するか?というやがて教理と名づけられるような根源的な知識を軽んじません。いかに、仲の良い交わりを作るか?いかに活発な教会を作るか?そういうノウハウ、具体的なハウトゥーにおいては素人でも、「知識はそうではない」と言い切るのです。

 それも単なる知識ではありません。6節後半ですが、「あらゆる点あらゆる面」で、この福音の知識を示してきたと言います。つまり、パウロの言葉と行動、存在の全体によって、隠そうとしても隠しようもなく、破れで、ほとばしり出ずにはおれない知識です。クリスマスに人となられたイエス・キリストのように受肉する知識、出来事となる知識です。

 それは、これから、次週の7節以下で、パウロが試みる愚かな行為、恥知らずな自慢の言葉を通しても、ほとばしり出ずにはおれないのです。

 それは誤った信仰に陥っているコリント教会の信仰者たちに対しても、1秒も止むことなく注がれ続けている燃えるような熱い神の愛が、パウロを駆り立てて語らせる言葉です。

 どんなに厳しくても、届かずにはおれない神の言葉がパウロの言葉を用いて、パウロの全存在から破れ出て響きます。

 妬む神は、パウロを用い、私たちの内に打ち立てられた異なったイエス、違った霊、違った福音を燃やし尽くし、本物のイエス、本物の聖霊、本物の福音の知識を与え、私たちを純潔な花嫁といたします。

 この神の狂おしいほどの愛を信じ、神がパウロを通して私たちに求められる我慢、信仰の知識を正常なものに戻すための痛みを伴う我慢、すなわち花婿キリストのお姿を見るまなざしを曇りのないものにするための外れた道から引き返す忍耐を、いつでも牧師も教会員も教会を挙げて喜んで引き受けようと思います。

 

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、あなたが御子において私たちに示してくださった誠実に胡坐をかかず、私たちも誠実を尽くせますように、私たちの心と体を清めてください。何よりも、信仰のまなこを曇らせることなく、真っ直ぐに主イエスを見つめ続けることができますように、聖霊を送り、代々のキリスト者たちが重んじた福音の知識を、私たちも重んじることができますように。洗礼を受ける前も、受けた後も、何物にもとって代わることなく私たちの唯一の救い主でいてくださるイエスさまのお名前によって祈ります。

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