10月30日(日) ヨハネによる福音書7章25節~36節
私たちの教会堂には、二階礼拝堂の入り口に祈るキリストの姿を描いた絵が飾ってあります。
一階受付の絵も含めて、どれも、私たちの教会の初代牧師長尾巻の三男で洋画家であった長尾己の描いたものですが、二階の礼拝堂入り口のものは、ゲツセマネで祈る主イエスの姿を描いたものです。
と言っても、これは長尾のオリジナル作品ではなく、19世紀のドイツの画家ハインリッヒ・ホフマンという人の書いた有名な絵の模写です。
礼拝終了後、ぜひ、御覧になって頂ければと思います。
十字架に至る最後の受難の道を歩み始める前に、ゲツセマネの園で血の滴りのような汗を流して祈られたという場面を描いたものです。
まるで主イエスを闇の中に飲み込もうとするかのような薄暗い背景の中に、天から細い一筋の光が射しこみ祈る主イエスを照らしています。
主イエスはその光の来たる天を真っ直ぐに仰ぎ、祈っておられます。
薄暗がりの中にある画面の右手側には、よく見ると、遠くの方で三人の人がもたれ合うようにして後ろ向きに座っている姿がうっすらと見えます。
聖書の記述通り、主イエスが苦しみの祈りをしている間、訳も分からず寝入ってしまった弟子たちの姿が描かれているのです。
先週ふと手にした本の中に、このホフマンの絵について語っている文章に出会いました。
20世紀の主要な日本の神学者の一人であると言って良いと思います大木英夫先生の、『キリスト入門』という副題の付いた主の祈りを説いていく著作の中の文章です。
この大木先生、先月召されました。東京神学大学の学長も務めましたし、埼玉の聖学院大学の理事長を長く務めた方です。
ラインホールド・ニーバーの「神よ/変えることのできるものについて、/それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。/変えることのできないものについては、/それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。/そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」という有名な祈りを日本に紹介した人です。名前だけでも、覚えておくと良い方です。
この大木先生が、『キリスト入門』の第1章の中で、やはり留学中に通っていた教会の入り口に飾られていたこのホフマンの絵のことを思い起こしながら、次のように言います。
「ルカ福音書によると、どういうわけか、全くどういうわけか、主イエスが祈っておられるとき、弟子たちは眠っていたという、しかも熟睡していたと書いています。…それでは主イエスにおいて何が起こっていたのか全くわからない、熟睡しておれば全くの別世界であります。いや同じ世界にいながら別世界となるのであります。それは、主イエスの祈りの世界と、わたしたちの世界との間にある断絶、さらに隔絶をあらわしているのではないでしょうか。」
大木先生はこの本のはしがきでも、あとがきでも、この本は主の祈りを通して、キリストとの出会いに至るための入門書であることを意図していると言います。
信仰というのは、結局、祈れるようになることである。祈れるようになるとは、世界は虚無ではない、無意味ではない、自分は孤独ではない。私と対話してくださる、交わりを持ってくださる人格的な神がいらっしゃる。その生ける神と出会う喜びだと言います。
私も目の覚める思いでその言葉を読みました。
どんなにキリスト教についての知識が増えたとしても、それでは入門にならないのです。祈れるようにならなければならない。と言うよりも、思わず祈りたくなるような、思わず額づいてしまうような生ける神との生きた出会いが与えられなければ、信仰の世界に入ったことにはならないのです。
主イエス・キリストいうお方は、まさにこのような神との生き生きとした関係に生きられたお方です。
この世界と歴史を支配しているのは、虚無でも、無意味でも、孤独でもなく、それらに絶望し、開き直った人間の悪意でもない。この私をお遣わしになった憐み深い天の父であられるという生ける神様との一体の内に生きられたお方です。
私たちが読み続けていますヨハネによる福音書の中には、主が祈られ、また弟子たちにも教えられた主の祈りの言葉は記録されていませんが、他の福音書以上に、祈りの内に生きた主イエスの御姿を描き出されています。
たとえば、5:30には、「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。…わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとする…」というお言葉は、主イエスの深い祈りの生活を示したものだと言うことができると思います。
しかも、やがて、この福音書の第17章には、決して私たちが忘れることができない「大祭司イエスの祈り」と呼ばれる主イエス自身の祈りが記録されているのです。
信仰を持って生きる、信仰者として生きるというのは、自分が孤独ではなく、祈ることができる、祈って良いお方がいらっしゃることに目を開かれ、主イエスのように、天の神様に向かって親しく祈れるようになることです。
ところが大木先生は、ゲツセマネの園で祈る主イエスの絵を思い起こしながら、その場面を描くルカ福音書の記述を思い起こしながら、どういうわけか、全くどういうわけか、主イエスが祈っておられるとき、弟子たちは眠っていた、しかも熟睡していたということを困惑しながら、指摘します。
全く主イエスの祈りの世界、だから、天の父なる神さまのとの出会いの内に、交わりの内に入っていけない、断絶されてしまっている弟子たちの姿を指摘いたします。
同じ世界にありながら、全くの別世界にいる。どうしても、外から中へと入っていけない。主イエスと人間である弟子たちの間には、目覚めている者と熟睡している者ほどの隔絶がある。
結局、このような記述によって、聖書が私たちにまず語りかけているのは、我々は祈れないんだ。祈ることを知らないんだ。我々の問題は祈らないことじゃなくて、祈れないことなんだ。
「祈ることの不可能ということ」、弟子たちは祈る主イエスの姿に圧倒されてはじめて祈れない自分を発見したのではないかと言います。
共観福音書の語るゲツセマネの園の祈り、また、祈りを教えて下さいと主イエスに願う弟子たちの姿から、このような祈れない私たち人間の姿を紐解いていく大木先生ですが、実は、今日、私たちが読んでいるヨハネによる福音書7:25以下も、同じような私たち人間の姿を語っているように思います。
28節以下にこうあります。
「イエスは、大声で言われた。『あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。』」
ユダヤ人の最大の祭りであるとも言われる秋の収穫祭、仮庵の祭りが賑やかに祝われるエルサレムの神殿の境内で主イエスが大声で語られた言葉、「叫んだ」とも訳して良いような大声で語られた言葉です。
ユダヤ人の指導者層から秩序を乱す邪魔者として疎んじられ、暗殺計画を立てられていた主イエスです。
その主イエスがこの賑やかなお祭りの時に、人目を気にせず、神殿の境内で教えているのに、誰も捕まえようとしない。
これはもう、指導者たちもさすがに、このイエスという方が、聖書に約束され、先祖たちが待ち望んでいたメシア、救い主であることを認めたということではないだろうか?
祭りに集まっていた群衆たちが、噂し合っているのです。
けれども、その噂を自分自身で打ち消していきます。
しかし、わたしたちは、この人の出身地を知っている。メシア、救い主が現れるときには、どこからともなく現れ、その出所は誰も知らないというのが、我々の言い伝えではないか?
それなのに、このイエスは、ガリラヤの出身だ。あのナザレの村の大工のせがれだ。母の名はマリア、その兄弟も、姉妹も、我々は知っている。
にわかに期待し、にわかに冷める群衆のひそひそ話を聞いて、主イエスは、叫ばれたのです。
「確かにあなたがたの言う通りだ。あなたがたは、わたしの出身地を知っている。この中には、私の幼馴染さえいるだろう。けれども、あなたがたは、私が遣わされた者であることを知らない。そもそもあなたがたは、わたしを遣わされた方を知らないのだから。」
主イエスは群衆の言葉を肯定し、また、否定されました。
あなたたちはわたしの出身を知っている。けれども、わたしをお遣わしになった方のことをまるで知らない。
つまり、こういうことです。
あなたたちは救い主が来たときには、自分たちは、見極めることができると思い込んでいる。
自分たちは神の民であり、救い主を見分けるための、知識や、判断能力を蓄えていると思い込んでいる。
しかし、救い主が来られるときは、どこから来られるのか誰も知らないとは、不真実なあなたがたは、真実な神を知らないので、わたしがその遣わされた者であるあることが分からないのだ。
主イエスが大声で仰ったこととは、こういうことです。
だから、30節、人々は主イエスを捕らえようとしました。
自分たちが何を言われたか、よくわかったのです。厳しく裁かれたのです。
そして、事実、主イエスを捕らえようとすることによって、このことによって、彼ら自らが、神の民を自認しながら、神のことを少しも知らない不真実、不信仰な者であることを暴露しているのです。
32以下の後半の記述もまた、神の民、指導者を自認する者たちの徹底的な誤解、無理解を語る出来事です。
主イエスを捕らえ、殺すために執拗に手下を送り込み続ける信仰と生活の指導者グループの人々に対し、主が、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」という言葉を、「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでも言うのか」と、徹底的に誤解し続けるのです。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」という言葉に籠められた、主イエスの十字架と復活、昇天のご計画、その天の父なる神の御心が全く分からず、誤解し続けるのです。
まさに、そのような無理解な者であるからこそ、「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」のです。
しかし、これは、何も主イエスの命を付け狙った民の指導者や、熱しやすく冷めやすい群衆だけに語られた言葉ではありませんでした。
ヨハネによる福音書13:36以下では、主の一番弟子シモン・ペトロに向かってもまた、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と断言されているのです。
誰よりも信仰を知っているはずの神の民、祈りを知っているはずの神の民、生ける神を知っているはずの神の民もまた、主イエスとは、別の世界に生きているのです。
主イエスが父なる神との間に持っている互いを相知る、人格的な交わり、出会いの中に入っていくことができないのです。
大声で叫ばれた、絶叫された主イエスの言葉、「わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない」という叫びは、主イエスの怒りが込められた言葉だとカルヴァンという改革者は言いました。
しかしまた、主イエスのもどかしい思い、悲しみが籠った言葉であるようにも思います。
どうしてわかってくれないんだ。
だからまた、ある人は、これは、祈りの言葉であると言います。祈りつつ、ここで神の真実を映し出すように叫ぶ言葉だと言います。
「あなたがたには、わたしの正体がわからない。なぜかといえば、あなたがたは神を知らないからだ。」
怒り、悲しみ、そしてまた、神の覚悟を宣言する言葉であると私は思います。
神の覚悟です。主イエスをこの世に遣わされた神の覚悟です。
その福音書の初めから、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」というこの世に御子をお遣わしになった神の覚悟、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という死ななきゃ治らない人間のもとに御子を遣わされた神の覚悟、人にはできないが、神にはできる決定的な一つのことを行う覚悟の言葉です。
すなわち、十字架の光が射しこんでいる言葉です。
そうです。十字架の影ではなく、十字架の光です。
十字架は、私たち人間が神を憎み、神を殺す人間の黒歴史でありますが、それ以上に、神の愛の出来事であります。
30節にありました。
「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。」
なぜ、怒り狂った人々がこの時、主を捕まえることができなかったのか?
福音書は、「イエスの時はまだ来ていなかったから」と、単純に言います。
イエスの時、それは明らかに十字架の時です。それはイエスの時なのです。人間の罪が勝利を収めるときではなく、主イエスのために備えられた特別な「主イエスの時」なのです。
そのことがまた、33節で、より丁寧に言い表されているのです。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」
怒り狂った人々に捕えられ、十字架へと追いやられていく主イエスの十字架の出来事において、主イエスというお方は、憐れで無力な被害者ではなく、神の御心の内に、神との生き生きとした祈りの内に、天より射しこんでくる神の光の内に、自ら分け入っていく天の父のもとに帰る歩みでもあるのです。
そしてそのようにして、主イエスは何をなさったのか?
私たちが神を知るようにしてくださった、祈れるようにしてくださったのです。
今日私たちに与えられた、あなたたちは神を知らない。わたしのもとに来ることはできないとの厳しい裁きの言葉とよく似た、ペトロに対する「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」という言葉には、続きがありました。
それは、「後でついて来ることになる」という主の言葉です。
信仰を知らない者、祈りを知らない者、神を知らない者、主イエスのおられるところに行くことのできない別世界に生きる者が、主イエスの後に続くのです。
神を知るようになる、祈れるようになる、主イエスのおられるところに行かれるようになるのです。
第13章を先取りして言うならば、主イエスが私たちの道となり、私たちの真実となり、私たちの命となることによってです。
ホフマンの絵には、天よりの光が射しこんでいます。弟子たちが眠り込んでいる時に、光が射しこんでいます。
それは眠り込んでいる者のために、どうしても、神を知ることができない者のために、神の独り子が私たちに代わって見ていてくださる光、いいえ、そのホフマンの絵の光の光源は、実は、天からだけじゃありません。
むしろ、主イエス御自身の顔がより強い光を放っているのです。
この地上で。薄暗がりのこの地上において。
眠り込む私たちに代わって、私たちのために、私たちを光の中に連れ戻すために、この光なるお方が、暗闇に生きる私たちの中に分け入って来られ、時を満たされたのです。
改革者ジャン・カルヴァンという人は、聖書を語るとき、いつも毛皮の帽子を被っていたそうですが、重要なところに差し掛かると、一息ついて、その帽子を目深に被り直して、右手の人差し指を天に向けたそうです。
まぶしそうに、太陽よりもまぶしいものを見るように。
今日の聖書箇所は、今日のところでは終わらないのです。
「あなたたちはその方を知らない。」「わたしのいる所に、あなたたちは来ることはできない。」では終わらないのです。
これは、不信仰な私たちだけの物語ではなく、また、天におられるキリストの物語ではなく、私たちのために世に来られた神の子の物語だからです。
義の太陽は私たちの上に昇り、光は闇の中に輝いており、闇はこれに打ち勝たなかったのです。
私たちは、このお方のお陰で、神を父と呼べる朝の光の中に生きて行けるのです。
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