主の祈り 神を父と呼ぶ 

今日から主の祈りを少しづつ聞いていきます。既に、今日お読みした一節だけで、今週と来週の二回の日曜日に分けて聞きます。予定では、3月いっぱい腰を落ち着けて、この主の祈りに耳を傾ける計画でいます。

 

以前にもお話ししましたが、私たち教会には三要文と呼ばれる三つの大切な文章があります。三つの要の文と書いて、三要文と読みます。その三つとは、「使徒信条」、「十戒」、そして「主の祈り」です。これらが、教会の要の文章です。要というのは人間の体で言えば、腰に当たる部分です。そこが軸となって、立ったり座ったり、歩いたり、体を動かすことができます。

 

先々週、背中と腰を痛めまして、二日間寝込みましたが、本当に痛めた当日は、身の置き所がなく寝ているだけでも痛かったですね。そこで要というのはやはり大事なものだと身をもって経験したので言うわけではないですが、教会にとっても三要文は本当に大切な文章です。私たち教会の堅固な芯、骨格を作るものだと言ってよいと思います。

 

三要文を学ぶことによって、足腰の強い信仰者、ちょっとやそっとはびくともしない、突然のギックリ腰を起こさない教会の群れとなることができるのです。

 

ハイデルベルク信仰問答とか、ルターの小教理問答とか、教会には信仰問答と呼ばれる文章があることをお聞きになった方がいると思いますが、おおよそ、信仰問答とか、カテキズム呼ばれる文章は例外なく、この三要文を説く言葉だと言えます。

 

信仰問答とかカテキズムというのは、聖書から離れた小難しい教理を語る言葉ではありません。それは、聖書を語るものでしかありません。しかし、数千ページに及ぶ聖書を全部説くわけにはなかなかいきません。それを説こうとすれば、今日たった一節の言葉を二回の日曜日に分けて聞こうとしているように、聖書よりももっと長い言葉になってしまうでしょう。そこで、分厚い聖書66巻の過不足のない心を知るためには、主イエスのご生涯を要約した使徒信条、そして、御言葉そのものである十戒と、主の祈りを説くところに、聖書の心、神の心、信仰の急所があると信じ、カテキズムは三要文を説くのです。

 

私たち人間は案外、わがままな所がありまして、信仰というとすぐに心の問題、内面の問題と捉えて、自分なりの信仰理解に執着するようなところがあります。

 

道理のわかったような人であっても、こと信仰の問題になると、頑ななまでに自分の理解にこだわるということがあります。私の親戚で、仏教の心とキリスト教の心を融和させようと本まで書いて自費出版した者がいますが、私が読むと、かなり基本的な面で誤解した教会理解、聖書理解をしています。しばしば文章を送ってきた時期がありまして、信仰は個人の自由と思い、余り信仰的理解のところは触れませんで、単純な歴史的な誤認や、教会の信仰の誤解だけに限って、こことここが違いますよ、誤解していますよと言うのですが、それにも全く耳を傾けてくれない。たとえば、モーセ五書はモーセが書いたわけではないですよ、そんなことは聖書に書いてありませんよと言っても、受け入れてもらえない。何でもかんでも、お前は若いから、真理がわかっていないと一蹴されてしまう。

 

けれども、考えてみれば、自分も、教会に来る前は、ずいぶん、憶測だけで、聖書や教会を誤解していたなと思いますし、それを金科玉条のようにして、信仰者である母を攻撃する材料にしていたなと恥ずかしく思い起こします。私は、18歳まで自分は理性的な人間だから無宗教だと自認していまして、宗教に頼るのは弱い人だとうそぶていましたが、それは全く、幼稚な無神論者であったと思います。

 

自分の気持ちとか感覚とか、深く掘り下げてはいない常識とか、そういうものにばかり心を囚われていて、自称無神論者でありましたが、今よりもずっと、自分の枠だけに留まる非理性的な人間であったと思います。

 

私の祖父は、祖母が亡くなってからは、毎朝、仏壇に向かって般若信仰を唱え続けていましたが、これは、誰の教えを聞いてやってるわけじゃない自分なりの自分教だと誇らしげに言っていたのとほとんど変わらないことです。

 

身内の話ばかりをして、それでは、大澤家の人間が、自分勝手な思い込みの信仰に特別、陥りやすいということかと言えば、そうではないと思います。誰もがそういう傾向を持っているのではないかと思います。

 

ルターは、小教理問答を書くに至った理由を、カトリック教会の支配というヴェールが取り除かれた民衆が、かえって、タガが外れた自分勝手な信仰に陥り、それこそ、飼い主のない家畜のような状況にあることを憂いて、書いたものです。牧師すらも主の祈りを唱えられなかったと言います。

 

洗礼を受けても、キリスト者と呼ばれても、主の祈りを唱えることができなければ、なぜ、キリストの者と言えるか?聖餐を受けることを強制されないからと言って、それを軽んじるようでは、果たしてキリスト者と言えるか?それはまるで、音の外れた楽器のようです。カトリック教会の縛りが外れて、今度は、皆が自分勝手な音を鳴らし始める。ルターは、「だれも人を信仰に強制することはできないし、するべきでもない」けれども、キリストの者と呼ばれ、仲間と共に教会共同体を作るためには、たとえばひとつの町に住もうと思う者が、町の法律、ルールを知り、これを守るべきことが当然であるように、三要文を知る必要があると言いました。だから、これだけは知ってほしい、弁えてほしいと願い、三要文を説く信仰問答を書きました。

 

私たちプロテスタント教会の信仰の基礎、あるいは、聖書の信仰の基本がここにあると思います。私たちは、ローマ教皇の代わりに、私たちの内的な宗教性というものに、信仰の基礎を置くのではありません。私たちを生かす言葉は、私たちの内側にあるのではなく、私たちが聴き、学ばなければならない言葉は、外側から、命の言葉は神の側から来ると信じるから、聖書、御言葉を重んじるのです。

 

だから、三要文に聞くのです。誰も信仰を強制されません。けれども、聖書の神に寄稿とするならば、その方の作る教会共同体として生きるためには、信仰のわがままを自ら放棄しなければ、ハーモニーが奏でられない。だから、教会のマエストロである神が指し示してくださる音に耳を澄まさなければならない。かつてのように、自分は信仰の絶対音感を持っているかのようにふるまうのではなく、相対音感しかないことを弁えるのです。 

 

前置きのような話が長くなりましたが、それゆえ、主の祈りを丁寧に学んでいきます。自分のわがままで頑なな思い込みを、御言葉によって耕して頂くのです。そこで耕されるのは、もちろん、自分勝手な信仰ばかりではありません。私たちの神は、私たちの心と体と、世界の主ですから、私たちの心ばかりでなく、生活を耕し整えてくださいます。血と肉を備えた私たちの命全体が耕され、整えられると言うべきだと思います。

 

神の言葉を聴き、私たちの命のチューニング、音の調子があってくると言っても良いでしょう。

 

そこで私たちの命の全体を整えようと聞こえてくる基本の音、神からの音は、福音です。祝福の音です。呪いの音ではないのです。わがままを捨て、私たちが従うべきは、人を奴隷とする音ではなく、神の子とする音です。この神の祝福の音に耳を傾ける時、私たちの命の音が正しく合ってくるのです。これは喜ばしいことです。

 

しかも、今日から学びます三要文の一つである主の祈りを、古代教父テルトリアヌスは福音の要約、祝福の調べの要約と呼びました。私たちがこの主の祈りを理解することができたら、福音の全てがわかったことになるということです。ある人は、このテルトリアヌスの言葉にさらに言葉を足して言いました。今日私たちが読んだ主の祈りの最初の言葉「天におられる私たちの父よ」という言葉は、福音の要約の要約であると。「天におられる私たちの父よ」と神に向かって呼び掛ける。そこに福音の神髄がある。私たちの信仰の神髄がある。神の祝福が叩き込まれている。

 

聖書は何を語るか?これがわかれば教会の信仰がわかったと言えることとは何なのか?ぎりぎりまで切り詰めて言えば、「神は私たちのお父さんである」ということです。

 

しかも、ここで主イエスが、教えてくださった「父」という言葉は、初代のキリスト者であったパウロの言葉に遡れば、「アバ」という言葉で呼びかけられる父です。

 

このアバというのは、赤ちゃんが最初に親を呼ぼうとする言葉、最初に口にする言葉です。生後9か月になるうちの三女が今まさに、そういう状態ですけれども、本当に、アバアバ言いますね。日本語では、アブアブという表現の方が馴染みがよいかもしれない。言葉のようなまだ言葉にはならない音のような、しかし、親の顔を見ると、親の声を聴くと、アバアバ、アブアブ言い出す。

 

だからこのアバという言葉のニュアンスを大切に訳すならば、パパという言葉がぴったりくると言われますが、もしかしたら、もっと幼い言葉なのかもしれないとも思います。

 

これは、パウロではなくして、主イエスがはじめて神さまに対して使いだした言葉遣いだと言われます。確かに、どこの国にも、神さまに向かって、神は父だという表現はあるかもしれない。数少ないけれども、旧約聖書の中にも、印象深い言葉で神さまを父と呼ぶ言葉があります。

 

けれども、ある聖書学者は、神さまのことを父は父でも、アバ父、アバである神さま、パパである神さまという表現で、呼びかけたのは、全く主イエスにおける特別なことだと言います。主イエス以前に誰も神さまのことをアバと呼ぼうとは思わなかっただろうと言います。

 

そして、こういう風に言います。これは決して神とご自身の関係が甘ったれたものだと表現しているのではない。そうではなくて、これは、主イエスと天の神の他と比べようのない近さ、まさに、神の全権を受けた者である主イエスならではの、ただ主イエスにこそふさわしい神への呼びかけの言葉遣いだというのです。

 

誰もが使える呼びかけの言葉ではない。「私と父は一つである」と仰ることのできた主イエスならではのユニークな呼びかけです。

 

ところが、初代のキリスト者であるパウロの言葉を見ると、初代のキリスト者たちは、主イエスと同じ言葉を用いて、「アバ、父よ」と神さまに呼びかけました。

 

そしてこれはパウロだけでなくて、皆が誰でもそのように神に呼びかけました。この祈りにおいて、主イエスがご自分の祈りを私たちに与え、こう祈れとお命じになったからです。それがどんなに当り前のことではなかったか。ある人は、祈りの歴史を調べながら、古代のクリスチャンが本当に恐れながらこの祈りの言葉を口にしていることに気付きました。古代のキリスト者たちはこういう風に祈りました。「主よ、天の神であるあなたを父とお呼びし、語りかけることを喜びをもって、無遠慮に敢えてなしうる者としてください。」、あるいは、「救いをもたらす神さまの定めにより、神さまのみ教えに従い、私どもは敢えて祈ります。天にいます我らの父よ。」

 

それは、「敢えて」と前置きをしなければはばかられる呼びかけ、「神さまのみ教えに従い、敢えて」そう祈ると戸惑いながら口にされる呼びかけであります。

 

以前、ある信徒の方がこういう風に私に仰ったことがありました。

 

「先生、私は、主の祈りを祈るとき、どうも、最後の国と力と栄とは限りなく汝のものなればなりという言葉に抵抗を覚える。神さまに向かって汝なんて言い方私にはできない。」

 

全く、鈍感なもので、私は何を仰っているのかよくわかりませんでしたが、よくよく聞いてみると、「汝」という言葉は、目上の者が、目下の者に向かって語り掛ける言葉で、神さまに対して使うのは失礼に当たらないかということでした。

 

なるほど、辞書を調べてみますと、「汝」という言葉は、単なる「あなた」という言葉の古語ではなく、「おまえ」というようなニュアンスがある言葉です。確かに神さまに対して使うような言葉ではないなと教えられました。だからその方は、「汝のものなればなり」という部分に差し掛かると、いつも「あなたさまのものなればなり」と言い換えるそうです。確かに納得です。

 

けれども、興味を持って調べてみますと「汝」とあえて訳したのは、おそらく、英語やドイツ語の主の祈りを参考にしたことなのだと推測されます。そこでは、「汝」というのは、英語では、「thou,ドイツ語では「Du」という言葉が用いられています。

 

英語でも、thouという言葉は日常使いからなくなった古語ですが、ドイツ語にはまだ、Duという言葉遣いが残っています。

 

このthouとかDuとかいう言葉は、ふつう、現代語で言えば「あなた」と訳されるような言葉ですが、これは、親称という文法用語に分類される言葉です。親称というのは、親しい人称代名詞という意味ですけれども、これは、大人が子供に向かって、あるいは本当に親しい間柄だけで使われる呼びかけの言葉遣いです。

 

ドイツでは、あなた、英語のyouに当たる言葉が、今でも敬称、親称の二つあります。けれども、その片方のDuと言うのは、大人が子供に向かって使う他は、家族同士、本当に限られた親友の関係だけだと言います。

 

ところが、神さまに対しては、このDuを使います。馴れ馴れしいほどの言葉、大の大人に突然、この呼びかけをしたら、侮辱となってしまう言葉遣いを神さまに対してするのです。

 

しかし、敢えてそうするのです。主イエスにだけふさわしいような呼びかけを、敢えて、神に対して私たちもさせて頂くのです。主イエスが、お命じになるからです。

 

信仰の言葉は外から来る言葉です。これがとても大事なことだと思います。

 

古代のキリスト者が神を父と呼ぶとき、そういわざるを得なかった「敢えて」という言葉の中にも、「み教えに従い」という言葉の中にも、既に、明らかなことと思いますが、このような呼びかけは、私たちの内側から湧いてくるものでは決してないということです。外から与えられて初めて、敢えて、口にすることのできる言葉です。あなたがたは、こう祈りなさい。「天におられる私たちの父よ。」、「アバ、父よ」、「私のパパ、お父さん」、主イエスがこう祈れと命じてくださる。そう祈っていいと励ましてくださる。だから、主イエスに支えられて、神を父と呼ぶのです。

 

だからこそ、この言葉で呼びかけさせて頂くとき、それは私たちの内側から湧き出る言葉でなければならないと言うのではありません。自分の心根を見て、自分の心の奥底には正しいものがある、美しいものがある、善なるものがある。だから、確かに自分は神の子であり、神は私たちの天の父なんだ、そのことに誇りを持てる。自信を持てると言うのではありません。

 

神さまの存在をそんな近さで感じることはない。そういう近さを感じられたらどんなにいいかと思うけれども、感じられないと思っていたって少しも構わないのです。

 

自分の内側にはなんのいいものはないかもしれない、神さまとの近さを微塵も感じていないけれども、外から言葉が飛び込んでくる。主イエスの言葉が飛び込んでくる。あなたがたはこうやって祈りなさい。「天におられる私たちの父よ」。今まで自分がどういう風に生きてきたか。今、自分の心の底がどんなものであるか。そういうことことは全然関係ない。

 

しかも、関係ないというのは、人の心根は誰にも分らないから問題にしないということではありません。主イエスという方は、私たちの心の奥底にある思いを私たち以上にご存知です。それがどんなに暗いものであるか、どんなに恥ずかしいものであるかそのことをよくご存知でいて下さる。そのことをよく御承知の上で、しかし、私たちに御自身の言葉を与えてくださる。あなたたちはこう祈りなさい。「天におられる私たちの父よ。」 

 

ルターは言います。教会という一つの町に住もうと思う者は、「信じているかどうか、心の内では自分で悪党だと思っているかどうかにかかわりなく、受けるべきものに従って、町の法律、ルールを知り、これを守るべきだ」、つまり、どんな者も、ここでは、神に向かって、「アバ、父よ」と、呼びかけなければならない、呼びかけて良いのです。自分の現実に反する時も、自分の思いに反する時も、神は私たちの父でいて下さる。自分の主観ではなく、この神の言葉の客観に私たちの信仰の土台があります。

 

だから、私はこう思うのです。罪からの救いとか、死からの救いとか、色々な言葉で聖書と教会が言い表してきた私たち人間の救いは、また、「自分からの救い」と言い表すこともできるのではないか?と。

 

自分の思い、自分の悩み、自分の行い、自分の信仰、自分の祈りの誠実さ、自分、自分、自分。

 

けれども、そこに主イエスが割って入って来られる。変な表現かもしれませんけれども、私と私の間に割って入って来られる。そして、自分の中でぐるぐると、とぐろを巻いているような私たちをグイっと立たせて、天を仰がせてくださる。

 

そして仰います。さあ、私と一緒に祈ろう。「天におられる私たちの父よ…」。

 

まだまだ、この最初の一文すら十分に語りきることはできていないという思いですけれども、もう、時間が来てしまったので、最後にこのことだけに触れておきたいと思います。

 

この祈りは密室の祈り、誰に聞かせるでもなく、独りで祈る祈りとして主イエスが教えてくださった祈りです。しかし、そうでありながら、それはいつも「私たち」と、複数形で語られています。このことの意味と意義は色々な豊かな側面があるでしょう。たとえば、私たちの信仰は個人の信仰ではなくて、教会という共同体の信仰であるという言い方ができます。また、教会は、自分たちのためだけではなくて、世界のために、世界の代理としてこの祈りを祈っているのだという言い方もできます。けれども、この祈りが「私たち」と祈られるその根本には、この祈りが、いつでも、主イエスキリスト御自身が私たちのために今も祈ってくださっている。だから、祈りだからではないかと私は常々思っています。

 

つまり、私たちがこの祈りを祈れなくても、それどころか私たちがこの祈りを知らなくても、主イエスが、「私たち」と言って、御自身の祈りの中に、私たちを数え入れてしまっているから、既に完全に私たちの祈りの言葉となってしまっている。

 

その意味で、私たちはまさに主イエスご自身の祈りを、なぞらせていただくに過ぎない。そして、この祈りをなぞらせていただくとき、私たちは、主イエスに数えられ、主イエスと共なる「私たち」になってしまっている新しい自分を発見させていただく。

 

今の時代を支配する精神である自己実現という言葉が、なりたい自分になるという意味であるならば、それは全く私たち教会の信仰とは相いれない言葉です。それは、各々が別の方を向いて主張するわがままの肯定にすぎませんし、それは主イエスが腸を揺さぶられながら飼う者のない羊のようだと仰った悲惨な人間の姿です。けれども、それが、本当の自分を発見するという意味であるならば、教会が信じ、語らんとすることそのものであると思います。私たちは、自分の思いの内ではなく、主の祈り、福音の内にこそ、本当の自分を発見することができるからです。

 

そしてそれはどんなに素晴らしい自分であるか?どんなに自由であるか?神は、いかなる時も変わらずに私の父でいて下さり、私は神の子として生きる。それが自分に逆らって、神の言葉、福音に聴く喜びなのです。

 

 

 

 

 

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