7月23日主日礼拝説教 ヨハネによる福音書15章9節~17節 大澤正芳牧師
東アジア各国のキリスト教会の特徴について次のように言われることがあります。
台湾の教会は歌う教会、韓国の教会は祈る教会、それでは日本の教会はと言えば、神学する教会である。
そういう言い方があります。
日本のクリスチャンは、人口の1%という少数派ですが、それにしては、聖書研究、神学研究は進んでいるというのは確かです。
けれども、先週読んでいましたある本の中で、日本のキリスト教、日本の過去の説教者たちの、特徴として、もう一つ際立ったものがあることを語る言葉に出会いました。
それは、この国の初期のキリスト者たち、説教者たちの信仰の共通した特徴は、それが、「実験的信仰」であったという示唆です。
明治大正時代の幾人もの代表的クリスチャン、説教者たちが、「信仰の実験」ということを、繰り返し語りました。
この「実験」というのは、文字は、科学実験と同じ言葉の「実験」です。
けれども、その意味は、読んで字のごとく、「実際に経験する」という意味です。
今の私たちの言葉で置き換えれば、体験とか経験とすれば良いと思います。
体験される信仰、経験される信仰、これが大切にされました。
日本の教会が、台湾の「歌う教会」、韓国の「祈る教会」と比べて、「神学する教会」と呼ばれる時、それは、小さな小さな教会にも関わらず、世界的に有名な神学者を排出したり、世界水準の神学研究がなされていると自負する一方で、頭でっかちな信仰という揶揄や自嘲が含まれているかもしれません。
これは、神学に限らず、欧米の学問を受け入れる際の、日本のアカデミズムの自嘲に似ているかもしれません。
英語やドイツ語を訳して右から左に持ってくるだけの、単なる翻訳に過ぎない、独自のものではないし、身に付いたものではないという自嘲です。
ところが、私たちの信仰の先達を振り返るならば、教会で語られ、多くのキリスト者たちを生み出してきた説教者たちの説教の言葉を吟味するならば、それは、実験的信仰、つまり、信仰の経験に根ざすもの、信仰の体験を重んじるものであったことが、明らかになるというのです。
教派、教会は違えど、皆、共通して、信仰の経験、信仰の体験を重んじるという共通点があるのです。
体験に根差した信仰、実際の経験に基づく信仰とは具体的にはどういうことを言うのでしょうか?
簡単なことです。
「わたしは生ける神様にお会いした」という体験のことです。
「わたしはイエスさまに出会った」という経験に根ざした信仰のことです。
出会いの経験と言っても、主イエスをこの肉眼で見たということではありません。幻の中でお会いしたという神秘的な経験である必要もありません。
聖書の言葉を読んだとき、あるいは説教の言葉を聴いたとき、またあるいは、一人のキリスト者に出会った時、「わたしは神にお会いした。わたしはイエス様と出会った」と言わざるを得ないような、自分の存在を根底から揺り動かす経験のことです。
聖書の言葉が響いたのです。説教の言葉が通じたのです。
それ以来、肉眼で「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉には言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれて」(Ⅰペトロ1:8)しまう信仰の経験のことです。これが生ける神との出会いの経験です。
この出会いの経験、瞬間的、劇的である必要もありません。
静かに、静かに、長い長い時間をかけて、育てられて行くものでもあります。
けれども、聖書の神様のことを思うと胸が暖かくなる、イエスさまの十字架を思うと、込み上げてくるものがある。
聖書のあの物語、この物語、聖書のあの言葉、この言葉、自分を生かしてきたな、今も生かしているな。
自分の罪を思い、イエスさまの十字架を思い、その愛をしみじみ思う。
そういう静かなことでちっとも構いません。
しかし、教会に集い、洗礼を受けている者ならば、誰でも必ず、持っている、誰でも必ず与えられている信仰の体験のこと、主イエスへの愛のことです。
日本の初期のキリスト者たち、説教者たちは、このことを大切にしていました。
ああ、これこそわたしを生かしている言葉だ。この方こそ私を生かしているお方だ。この方が好きだ。
神はこのような出会いを与えてくださるのです。
神が与えてくださったこの「初めの愛」をどこまでも持つこと、こだわり続けることを大切にしたのです。
もちろん、そこに止まり続けるだけではありません。その愛、その思いは、立ち止まったままではなく、日を追うごとに深められていくのです。純化され、研ぎ澄まされていくのです。
その出会い、その体験を大切にし、深めて行けば良いのです。
そこに地に足の着いた信仰、地に足の着いた教会が形を取って行くのです。
もう一度、繰り返しますが、このような出会いは特別なものではありません。
いいえ、確かに特別な、宝物のような出会いですが、選ばれた少数の人しか経験できないようなことではありません。
私は北陸学院の小学校から大学まで、年に数回、呼ばれて、短い説教をしてきます。
ある時、卒業間近の高校三年生が集まった朝の礼拝で、今日の箇所、ヨハネによる福音書15:16の言葉を説きました。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
礼拝が終わると、数名の生徒が、私のもとに来てくれました。
今日のお話よくわかりました。この学校に入学して、このイエスさまの言葉を最初に聴いたときの驚きを思い出しました。
これから自分たちが進む進路、願った通りにならなかった所もあるけれど、思い出しました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」んですね。
もうちょっと砕けた口調でしたが、だいたいこんなことを言いに来てくれました。
北陸学院に入学して生徒たちは、入学式の最初にこの言葉を必ず聞くそうです。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
多くの生徒が驚きを感じるそうです。
自分で選んだ学校、あるいは、本命の学校に入れなくて、不本意ながら来た学校。
けれども、自分の思惑や、計画を越えて、あなたがたがこの場に今いるのは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と仰る神の御意志によるものですと宣言されるのです。
そんなこと考えてもみなかったと、ちょっとした衝撃を受けます。もしかしたら、驚きだけでなく、小さな反発を感じるのかも知れません。
しかし、いづれにせよ、それが出会いです。今まで思いもしなかった言葉に新しく出会ったのです。それは聖書の言葉です。聖書を通して、また学校の牧師を通して語りかけてくる神の言葉です。
それと気付かなくても、生ける神との出会いの始まりです。
それから3年間、全く忘れてしまうかもしれません。学校生活、日常生活の中で、重要な位置を占めないかもしれません。
けれども、たとえば、3年後、市内の牧師の説教を聴いて、その言葉の衝撃が甦ってくるのです。
心に刺さる言葉になって戻ってくるのです。もしかしたら、ただただ違和感や、ちょっとした反発を感じただけであったかもしれない言葉が、慰めの言葉として、立ち上がってくるのです。
これが繰り返され、深められていく、神の言葉との出会い、実験される信仰、体験される信仰、生ける神との出会いです。
稀なことではありません。必ず起こること、いいえ、もう静かに始まっていることです。
先週は、高3生の会というのを、ここで開きました。
特に北陸学院生に限っているわけではありません。今、高校3年生で、キリスト教大学に進学を目指している人がいるならば、誰でも参加してもらって構いません。
教会として、面接や、志願書を書く時の相談を受けたり、そもそも、キリスト教大学のキリスト教ってどんなもの?ということを、教会の立場から、ガイダンスする会です。
学院のチャプレンの髙田先生も参加くださいましたが、講師は私です。
髙田先生は、私たちの教会の中高生の集会の担当者として、同席頂いただけです。
しかも、校内推薦を判断する立場でもあるので、なるべく発言しないように。
けれども、私の話を聞き終え、歓談している中で、熱い思いが迸り出るように、こう仰いました。
私が、3年間、生徒たちに語り続けていることは、まさに、あなたたちは、神さまに愛されているんだということだけです。
感動いたしました。
伝わらないはずはないと思いました。
一人の学校付きの牧師が、3年間ひたすら語り続ける神の言葉が、本当に、心を捕らえ、自分の存在全体を満たす言葉になるには、神さまが用意しているそれぞれのタイミングがあると思います。
しかし、その教師の言葉と共に、もう既に、一人一人の心に、キリストが訪れてくださっている。出会ってくださっています。
ここにいる誰一人として、このような神の出会いと、無縁ではありません。
なぜならば、皆さんは、今ここにいて、同じ神の声、キリストの声が語られているからです。
イエス・キリストは、今日ここに座るお一人お一人に向かって、わたしが選んだから、あなたは、ここにいると仰います。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
目を開き、御自分との出会いの現実に、気付かせようとしてくださるのです。それゆえ、主は言葉を重ねて仰います。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
「あなたがたはわたしの友である。」
「友であるあなたがたのために、命を捨てる愛にわたしは生き切る。」
「あなたがたは出かけて行って実を結ぶ。その実はいつまでも残る。」
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように、わたしがあなたがたを任命したのだ。」
「あなたは愛されている者だ。」
キリストが十字架で死なれたのは、あなたのためです。
キリストの意図を汲むならば、どうしても、そう言わなければなりません。
「あなた」がキリストの命を込められた当の人間です。「あなた」がキリストの友です。
どうしても、そう言わなければなりません。
キリストはこの聖書の言葉が語られる時、あなたの傍らに座り、その目をのぞき込まれ、ほら、わたしの語ったこの言葉、「友のために自分の命を捨てる」とわたしが語ったこの言葉、これは、あなたのことだと仰るのです。
こういう出会いの経験を与えられます。そして、このようにイエス・キリストの神に出会って頂くとき、私たちは輪郭のはっきりとした人間になります。
哲学者の森有正という人は、内村鑑三という明治時代の初代のキリスト者を指して、この内村こそ、日本人で初めて、本当の人格となった人であると言います。
人格というのは、自分は自分、他の誰でもない、この自分として生きる意識のことだと言って良いでしょう。
森は、内村こそ、日本人として初めてこういう意味での人格となったと言います。
自分は自分、他の誰とも違う。
人の顔色を窺って、自分のスタンスを決めようとするとき、私たちは人格として立っていません。
あの人がこう言うなら、自分もこうしよう。本当はこう思うけれど、空気を読んでこう言っておこう。こうしておこう。
これは、自分が自分であることを止めてしまっているのです。
同調圧力が強い国です。その意味では、人格を見失いやすいのです。
けれども、内村はそのような国にあって人格になった。
どのようにしてなったのか?
神の御前に立つことによってです。いいえ、神の御前に立たされることによってです。
神の御前に立ちえない貧しい人間、罪人である自分であることを厳しく知らされた上で、しかし、その自分が御子イエス・キリストの十字架によって贖われ、神の御前に、神の友、神の子として立つことを許されているという信仰の体験において、人格になっていったのです。
神の前に立たされ、裁かれ、しかし、赦され、愛されている人間、その当の人間、それはこの私である。
これが本当の人格であります。自分を持った粒立った人間がここに生まれます。
ただ神によって自分を規定する人間です。しかも、キリストの十字架における贖罪の愛によってのみ自分を誰で何者であるかを知る人間です。
それは、曲がらない人間です。倒れても倒れ切ることのない人間です。信仰者は、ある頑固さを持つようになります。
しかし、また、頑固ではありますが、意固地でも頑迷ではありえません。
その頑固さは、人を排除する頑固さではありえません。
主イエス御自身が仰います。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
そのために、あなたを選んだ。あなたを任命した。あなたは愛の実を結ぶ。
もうこれ以上長い話はいたしません。
神の御前に立たされ、裁かれ、しかし、赦された者は、隣人を愛します。
イエス・キリストの父なる神は、こんな私をとことん赦されるのです。こんな私をとことん愛されるのです。そこにこだわるのです。
そして、この方が、私と共にいて、私に期待し、命がけの友情に生き続けてくださることをその喜びとされていることにこだわるのです。
つまり、この自分に注がれたキリストの愛にこだわるのです。
その時、イエスはイエス、ノーはノーと、神の御前に立つ良心において、はっきりと隣人の前にも立ち、自分の信じるところを告げつつも、そのまなざしは、いつでもキリストの十字架に贖われた者、主がその傍らにいるキリストの友としてのみ隣人を見続けるのです。
一人神の御前に立ちながら、その垂直の愛の関係にこだわりながら、隣人との関係において、互いに、その隣人もまた、自分と同じように、垂直に、神に愛され罪覆われ、神の憐みのゆえに粒立っている一人の人間として見ます。
その粒だった人間が、お互いをそのような愛されている者として見、その事実を告げ合います。そこに教会が生まれます。
一人一人、神の御前に立たされた粒立った人間として、この神の愛の内にお互いを見る教会を神は建てられたのです。
そして、また、神は、当然、この集められた教会を遣わし、人をこの神のまなざしの内にある者として、見、祝福を告げて行きます。
ここに、今日、神が皆さんを招き、送り出す新しい使命があります。
神に喜ばれている者、愛されている者、キリストの友として、神の喜ばれている者、愛されている者、キリストの友を見つけ出す者として、世に遣わされてまいります。
神は私たちの祈りにこたえ、伝道の実を、愛の実を、必ず結んでくださいます。
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