世の終わりまで共にいる

7月26日 マタイによる福音書28章1節から20節

マタイ福音書の最後の部分を読みました。ご復活の主イエスのお姿を語る箇所です。実に、マタイによる福音書らしい結びであると思います。ご復活の主は、弟子たちに、全ての民を弟子とするために伝道の使命を与えました。その指針は、二つの言葉からなります。

 一つは、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということ、そしてもう一つは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」ということ。

 今日の個所には、この二つの言葉を中心に、マタイによる福音書が今まで語ってきた色々な要素がぎっしり詰まっているように感じます。

 個人的な話をするようで恐縮ですが、私は教会の教職になって、11年目ですが、ほぼ毎週、日曜日の礼拝で説教をするようになったのは、この教会に来た4年前からです。

 聖書66巻の中の一つの書物を選んで、コツコツと語って行き、丸々一巻読み終えるのは、今日のマタイによる福音書が、実は初めてのことです。

 2017年の7/2から第1章を読み始めて、丸々3年と3週間かかって、ようやく読み終わります。ずっと同じ書物の次の段落、次の段落と、続けて読んできましたが、心掛けていたことは、一つ一つの説教は、一話完結にすることです。初めて教会に来た人も、前の話を聞いていなければわからないということがないように、今日聞いた説教が、人生最後の説教であったということがあってもいいように、物語の流れを作っている一つの書物を説き続けますが、一話完結ということを心掛けてきたつもりでした。

 けれども、3年と3週間の間にしたマタイによる福音書を読み続ける生活を振り返って、自分は何を聴き、何を語ろうとしていたのかと考えてみると、一話完結を志しながら、やっぱり、ずっと続いているいくつかのテーマがあったと思います。今日の主の大宣教命令の御言葉に見られる要素で言えば、イエス・キリストの良き知らせは、少数精鋭のものか?すべての人を巻き込むものか?また、福音と律法の関係はどうなっているか?このテーマは、どちらも何度も何度も語って来たなと思い出します。

 またそれらとも緊密に結び合いながら、今日の個所でも大きな主題である「インマヌエル」ということもマタイによる福音書から聴き続け、語り続けて来たなと思います。

 インマヌエルとは、「神、我らと共に」という意味のヘブライ語で、マタイ1:23のマリアへの天使のお告げによれば、イエス・キリストのもう一つのお名前です。

 天の神よりこの地上に遣わされたイエスというお方は、どういうお方かというと、「インマヌエル」、神さまが私たちと共におられるということを、実現してくださるお方です。

 こんなにも分厚い聖書が、結局、一体何を語っているか?代々のキリスト教会は、この大きな書物が語らんとしている心はこれだと、使徒信条などのような短い信条の言葉を生み出したり、ハイデルベルク信仰問答のような信仰告白の言葉を生み出してきました。

 けれども、それよりももっと短く、聖書全体を一言で表せば、こういう言い方もできると、考えた人の一人は、それは、「インマヌエル・アーメン」であると言った方があります。アーメンとは、「これは真実です」、「本当のことです」という意味のヘブライ語です。

 だから、インマヌエル・アーメンとは、「神さまが私たちと共にいて下さること、これは本当のことです」ということ、これが、聖書がこの分厚い66巻の書物を通して言いたいことを最も簡潔に言い表した言葉だと言うのです。橋本鑑という牧師が言い表した言い方です。

 心打たれる言葉だと私は思います。よく注意して頂きたのですが、聖書がこれは本当のことですと、一所懸命に語っているのは、ただ単に神さまがいるっていうことではありません。

 「この世界には、神さまがいる」って我々を説得しようとするのが、聖書ではありません。そうではなくて、神さまは「この世に生きる私たちと共に」いると、一所懸命に語っている。

 しかも、さらに是非、注意深く受け取って頂きたいのは、この場合の、「私たちと共に」というのは、この地上には、人間の他にも、植物があり動物があり、山があり川があり、そういう意味で、神も共にあると言う訳ではありません。

 この「私たちと共に」というのは、たいへん畏れ多いことですが、単純に、「私たちのために」と言い換えることが許される、「私たちと共に」です。神さまが私たちの味方となってくださるという意味での「私たちと共に」です。

 最近教えられたところでは、多くの人に愛される10:29の、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」という心に染みる御言葉、この「あなたがたの父のお許しがなければ」という翻訳の言葉は、原語では、単純に、「あなたがたの父なしでは」となっています。

 つまり、天の高みに座っている神さまが、天からこの地上を一所懸命にじっと覗き込みながら、たった一羽の雀の寿命をも判断されているというのではありません。

 それどころではないのです。一羽の雀が地に落ちる時、神の御手と配慮の内にあるままに、神共にある雀として地に落ちるのです。これがインマヌエルです。

 この雀にまで行き渡っているというインマヌエルは、実に、この私たち人間一人一人にとって、神の独り子が、飼い葉桶の中に生まれ、私たちと同じように、死んで葬られるという仕方で、私たちと共におられることにおいて、激しい真実となりました。

 雀が神なしで地に落ちることはない。なおさら、私たちが神なしで死ぬことはないということは、主イエスが私たちと一つとなり、私たちが陰府に降るとき、一緒に降ってくださり、私たちの葬られる墓に先に葬られることによって、リアル中のリアルになったのです。

 これが、マタイによる福音書も告げている、私たちにとっての原事実、私たちがそれに気付こうが気付くまいが確実のものとなっている根源的事実です。

 聖書全体のメッセージは、インマヌエルという言葉に要約できると言う人は、橋本牧師だけではありません。

 また別の人は、このインマヌエル、神が私たちと共におられるということは、そのことに私たちが気付こうが気付くまいが関係なく、私達人間を支え、生かしている「原事実」、神の御前での人間のリアルだと言って、これが聖書の告げるメッセージと重んじました。

 そして、私たちが、今日まで聞き続けてきたマタイによる福音書です。新約聖書の始めに置かれ、その内容においても、場所においても、旧約聖書と新約聖書のつなぎ目であるこの福音書には、実際、インマヌエルの約束がちりばめられています。いやむしろ、その構造上の骨組みとして、インマヌエルが、約束されているとさえ言えます。

 旧約と新約のつなぎ目らしく、妥協のない神の戒め、「あなたがたの正しさが律法学者や、神の戒めに忠実に生きようとする宗教熱心な人たちの正しさに勝っていなければ、天の国に入ることはできない」という主イエスの断崖絶壁のような孤高の御言葉を記録しつつ、その戒めの前に、私たちを一人ぼっちにはしておかない。

 消えない通奏低音として、インマヌエル、神は私たちと共におられる。私たちのために、私たちの味方として、神はあなたがたと共にいらっしゃるんだと、語り続けています。

 マタイによる福音書1:23の主イエスのもう一つのお名前と、福音書の半ば18:20に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあり、そして、福音書の最後の最後の言葉として、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、宣言してくださっています。

 その大宣教命令において「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになる方は、私の為すべきことはし終えたから、次はあなたがたの番だと私たちを一人きりで、孤高の戒めの前に放り出すのではなく、「いつも一緒にいる、あなたのために、あなたの味方として」と、約束してくださる。

 この約束が自分への言葉として聴こえてくるとき、このお方に、どこまでもお従いしたいという思いが生まれる。福音と戒め、恵みと、服従が別々のものではなくて、そのまま一つのものであることが、よくわかってくるのです。

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 旧讃美歌の356番に「わが君イエスよ」という曲があります。奥野昌綱という人の作詞した賛美歌です。

 やがて、共に洗礼を受け、共に日本人最初の牧師となることになった小川義綏という人の紹介で、宣教師ヘボンの日本語教師となった人です。バラ宣教師の語ったペトロの裏切りの説教を聴き、これはまさに自分のことだと悟り、ブラウン宣教師より洗礼を受けた人です。最初の聖書翻訳と、讃美歌の作成のために最も活躍した人です。

 その人が作詞した賛美歌356番に、こういう歌詞があります。「わが君イエスよ、君いまさずば、われはのぼらじ、あまつみくにに/いかにたのしき すまいありとも」

 もしも、イエス様がいらっしゃらないならば、天国にはいかない。私は、私の主君であられるイエス様にどこまでもお従いする。たとえ、それが天国でなくてもということでしょう。

 ある人は、この歌詞の中に、「明治時代のキリスト者のきびしい自己否定の精神」が見えると言います。

 けれども、それだけだろうか?私は、そうではないと思います。ペトロの裏切りの中に自分自身の弱さを見、ペトロを赦し、立ち上がらせた主イエスのまなざしの中に、自分の立ち上がりを見るようにされた奥野牧師にとって、極めて当然の、応答であったと思います。そしてそれは奥野牧師だけが踏み込むことのできた特別な応答ではありません。

 この私のために、天の王座を捨て、自分の裏切りを引き受け、十字架まで赴いてくださったキリストの愛に打たれた者にとっては、当然の答えです。だから私たちにとっての、当然の信仰の告白の言葉であると思うのです。

 だって、主イエスに出会った者にとっては、この主イエスがおられないならば、天国は天国ではないですから。逆に、このキリストがおられるならば、どこにあっても、そこは天国ですから。

 私はこの賛美は、救われているということはどういうことか?キリスト者が本当に喜んでいるのは何であるか?に、気付かせてくれる讃美歌だと思います。

 私たちにとって、救いとは、少々、危ない言い方をいたしますが、永遠の命が与えられているとか、天国が約束されることとかが中心的なことではなくて、私たちのことを、どこまでもどこまでも追いかけてきて、私たちと共にいることを選んでくださり、私たちの味方となってくださるイエス・キリストという生けるお方に出会うということ、その方と一緒に、生きるということではないかと思います。

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 マタイ福音書にも、数々記録される驚くべき奇跡があります。今日の聖書個所、主イエスのご復活において、頂点に達する神さまの奇跡があります。そしてまた、その奇跡に分かちがたく結びついている永遠の命の約束ということに代表される神さまの恵みがあります。

 けれども、よく考えるならば、これらの実りもさることながら、もっともっと驚かずにはいられないこと、もっともっと嬉しくてたまらないことは、それほどまでして私たちを捜し出してくださる神、イエス・キリストが私たちと共におられることです。

 私たちが驚かざるを得ないのは、このお方がお甦りになられたということには留まりません。死からお甦りになられるからやっぱり神の子だと驚いているのではありません。

 この死よりお甦りになられたお方が、先回りして、この私たちのことを待っていてくださることです。なお、甦りの御方が、私たちのことを探し求めておられるということです。

 主イエスの遺体を訪ねに、墓を訪れた二人の女弟子に、天使が言いました。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。急いで行って弟子たちに告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』そう告げなさい。」

 これは、主イエスが十字架にお架かりになる前に、弟子たちに告げていたガリラヤでの再会の約束の御言葉の再現です。お甦りの主は、ガリラヤで弟子たちを待っていてくださる。

 ところが、十字架前の御自分の御言葉とも、天使に託された御言葉とも、辻褄が合わないことに、9節、墓から走り出た女性たちの行く手に主イエスが立っていて、「おはよう」と行って出会われたんです。

 これは、物語としてはおかしい。美しくないです。ガリラヤで会うと言われたのだから、ガリラヤで初めて出会われたと言う方が、物語としては、ドラマチックです。

 けれども、主イエスは、墓から走り出た女弟子たちの行く手に立っておられた。

 ある人は、これは、原文のニュアンスで言えば、「迎えに来られた」としても良いくらいの言葉だと言います。実際に「迎えた」と訳している聖書もあります。

 お甦りになられた生ける主イエスは迎えに来られる。お甦りになられたお方が、弟子たちをおいて、天に昇らず、ガリラヤに先回りして待っているというだけでも、受け止めきれないほど、心打たれることなのに、主イエスは、まるで、ガリラヤで待っているのが、我慢できなくなり、墓のそばまで迎えに来られてしまっているのです。

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 私たちはよく誤解することがあると思います。主イエスの側では、救いに必要なことは全てなさってくださった。この地上に十字架が立ち、主イエスのお甦りがあり、それらのものが、もう動かない不動のこととして、用意されている。

 その主イエスの差し出す用意があり、あとは、受け取る私たちが、主の元に行って、受け取るだけ。主の順番は終わり、今は私たちの順番。主イエスの元に近づいて行くか、行かないか、恵みを受け取るか、受け取らないか、さあ、我々の順番だと。

 しかし、マタイによる福音書は、ご復活の主イエスは、人間が来るのをガリラヤで待っておられるだけではない。まるで我慢できないかのように、迎えに出て来られる。熱心に探しに来てくださる。そして、「おはよう」と迎えてくださる。

 この「おはよう」という言葉は、シャローム、平安あれというよく知られた挨拶とは違って、カイレテという言葉、「喜べ」という意味の言葉です。ここで主イエスが仰ったのは、単なる挨拶ではなく、言葉そのものの意味における呼びかけであったろうと思います。それでこそ、迎えに来てしまった主イエスのお心がよくわかります。

 「迎えに来たよ。喜べ」、「あなたを迎えに来たよ。喜んでほしい。喜んでいいんだ。迎えに来たんだ」。喜べと弟子たちに向かって呼び掛けていらっしゃいますが、本当は、主イエスの喜びが爆発している。弟子たちとの再会を今か今かと楽しみにしておられるご復活の主イエスのお姿です。

 このお甦りの主イエスの前で、私たちを迎えに来るということに、喜びを大爆発させている主イエスの前で、私たちの疑いとか、私たちの不信仰とか、それがどれほど、意味のあることか?この主イエスにとっては、人間の不信仰とか、疑いとか、ほとんど真面目に受け取れるようなものではないのではないか?

 19節以下に記される大宣教命令と呼ばれる教会に与えられた使命、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」というご命令は、事実、疑う者にも語られたのです。17節に「疑う者もいた」とあり、また18節に、「イエスは、近寄って来て言われた」とある通りです。

 近寄って来られるのです。疑い、構え、身を引こうとする私たちに、近寄って来られるのです。身を引いても、追いかけて来られるのです。弟子たちに、そしてすべての者に。

 これが、インマヌエルです。これが、神が私たちと共にいて下さるという意味です。

 このことに比べるならば、永遠の命も、キリストに似た者に変えられていくということも、少々危ない言い方ですが、このインマヌエルの事実に仕えるもの、その広がりを見せてくれるものに過ぎないのではないかとさえ思います。

 私たちの心が燃え立つのは、胸がいっぱいになるのは、神がキリストにおいて、この私たちのような者と共にいて下さること、主イエスを十字架におつけするような私たちのために存在してくださるということ、神の敵であった私たちの味方であろうと、今この時も生きていてくださるその事実です。身を引こうとする私たちにまた一歩近づき、私たちを迎え、味方として立っていてくださる、そうしてまで私たちと共にいるということに対して、情熱を傾け、喜びを大爆発させていてくださる主イエスこそ、そうしてインマヌエルの事実です。

 そのようなお方として、キリストの神は、この礼拝において、ここにいるお一人お一人の元に近づき、膝と膝とをつき合わせて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と、今、語りかけていてくださったのです.

 

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