世のための教会

今日共に聞きました聖書個所において、主イエス・キリストはご自分の言葉に耳を傾けている人々、だから、それは今の時代においては、私たちに対して「あなたがたは地の塩である。」また、「あなたがたは世の光である。」と語られます。 

 この言葉は、特別な一人、あるいは特別な数人に語り掛けられているものではなく、この言葉を聞く者すべてを、その言葉の中に置いてしまうような仕方で語られていると思います。つまり、「あなたがた」と呼びかけながら、今この言葉を聞いている「あなたがたが地の塩であり、世の光である」と語られているのです。 

 主イエスが山上の説教を語られたとき、51を見ればわかりますように、主イエスの周りには、そのお方の膝を囲むように弟子たちがいました。けれども、山の上にある主イエスのまなざしには、そのふもとにある群衆が映り、また、群衆には主イエスの姿が見えました。山上の説教の言葉のどれ一つとして、この群衆を無視した言葉ではありえません。山の上から語られる主イエスのお言葉の宛先は、一番近くにいる12人には限定されません。遠くても近くても、そこに集まり、主イエスにまなざしを注ぐ全ての人に語られています。それは、ちょうど、ここに洗礼を受けた者もいれば、準備中の者もいて、また、まだ教会に数回来たばかりだという者もいる、主イエスと私たちのそれぞれの距離感と似ているように思います。だから、そのような私たちにも主は、「あなたがたは地の塩、世の光」と仰います。

 

 地の塩、世の光。この言葉は、聖書の中でもかなり有名なものであると思います。多くの日本人が一度は耳にしたことがあると思います。なぜ、そうなのかと考えてみますと、おそらく、日本にもたくさんあるミッションスクールの多くが、この言葉を大切にしているからではないかと思います。そのまま学校名に採用しているものもあります。また建学の精神を表す言葉としてこの言葉を大切にしているところも多いのです。この学校に学んだ者は、この日本において、世界において、地の塩、世の光として生きて欲しいんだ。そのための学び舎だ。そのようなスクールモットーを持ったミッションスクールは案外多いのです。それゆえ、そこで学んだ人々とその周囲にある人々にとって、馴染みのある聖書の言葉の一つであるだろうと思います。私は、ミッションスクールを立てた宣教師たち、キリスト者たちが、自分たちの生徒、学生に向かって地の塩、世の光として生きなさいと呼びかけたし、今もそう呼び掛けているのは、とても面白いことだと思います。洗礼を受けた者にだけではなく、ほとんどがまだその手前にある者達に、主イエスの見定める人間の本来の姿を、自分のものとするようにと語り掛けるのは、なかなか大胆不敵であり、けれども、主イエス御自身の語り方に一致していると思います。 

 あらかじめ皆さんにお伝えしている今日の説教題を「世のための教会」と致しましたが、これを変えたい気持ちもあります。この言葉は、私たちが普通考える教会の領域に向かって語られている言葉ではない。はるかにその範囲を超えている。だから、これから明らかになっていくはずですが、教会に向けて語られた言葉であるというよりも、むしろ、教会を生み出す言葉であると思います。しかし、何よりも、特別な試練、経験を主イエスと共に重ねて来た者たちに改めて語られた言葉ではなく、主イエスのそば近くにいた弟子たちと、そして彼らと共に、主イエスの評判を聞き集まってきたばかりのまだ主イエスのことがよくわからないでいる群衆にも、同様に語られた言葉だということを大切にしたいと思います。だから、この中の誰も、主イエスのお言葉を自分に語られた言葉ではないということはできません。ここにいる誰もが、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」と聞かなければなりません。

 

 ところが、これは、もしかすると、物怖じしてしまう言葉であるかもしれません。この私が、ここで呼びかけられているような地の塩であり、世の光であるとはなかなか思い難いからです。私が神学生のころに、ある本の校正のアルバイトを請け負ったことがありました。その本は、ミッションスクールのキリスト教学の教科書として書かれたものでした。なかなか工夫された本で、時代ごとに26人のキリスト者を取り上げ、その人たちの生涯を一人づつ概観することによって、キリスト教信仰の内容をはじめてキリスト教に触れる学生たちに紹介しようというアプローチで書かれた教科書です。アブラハムからはじまり、モーセ、イザヤ、パウロ、ヨハネ、それからルター、カルヴァン、バルト、ボンヘッファー、CSルイス、そして、キング牧師、マザー・テレサ、日本からは、内村鑑三、新渡戸稲造、三浦綾子などが挙げられ、聖書時代から現代に至る代表的なキリスト者が選ばれています。 

 

 こういう人たちの生涯と、言葉を通して、聖書の信仰を浮き彫りにすることが意図されています。その本のタイトルが、まさに『地の塩、世の光』でありました。聖書の語るあるべき人間の姿、それは地の塩であり、世の光である人間だと。そしてそのモデルとして今挙げたような人々が紹介されます。  

 これらの人々は、伝記が著されるような偉人と言うべき人々です。なるほど、これらの人々は、地を腐敗から守った塩であり、暗いこの世の一隅を照らした光だと誰もが言えます。 

 しかし、これらの人々こそが、「地の塩、世の光」であると言うならば、どうでしょうか?たとえ、この主イエスのお言葉が、そのお言葉を耳にする私たち全ての者に語られているものだとしても、多くの者にとっては、気後れや、挫折を感じさせるばかりの言葉として響いてしまうだろうと思います。 

 16節には、いよいよそう思わせる主イエスのお言葉があります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 

 私たちが地の塩、世の光であるとは、立派な行いと結びつくことのなのです。しかも、その立派な行いとは、ちょっと良いことをした程度のものではありません。その行いを見て、人間は素晴らしい、人間は捨てたものじゃないと思わせるどころの行いではないのです。人々が、天の父なる神様をあがめるほどになるほどの行いです。それが、地の塩、世の光である者の生き方です。すると、やはり、気後れしてしまうのではないでしょうか?自分はこの言葉から締め出された気持ちになってしまうのではないでしょうか?「私は毎週教会に通うほど熱心ではないし、洗礼を受けるほど、ピュアでもないので、これは私のことではない。」と、ここにいる洗礼をまだ受けていない者だけが、挫折を感じる言葉ではありません。むしろ、ここにいる洗礼を受けた者も、いや、そういう者こそ、この言葉に思うところがあります。私を含めたキリスト者は、多分、私たちのことを見るのではなく、聖書を読んでほしいと言いたくなる者です。私たち人間ではなく、神さまを見上げてほしいと言いたくなる者です。キリスト者が皆、伝記になるような人間であれば、確かに、人々は聖書の神さまをあがめるようになるに違いない、けれども、私は立派な人間ではありません。私を見て、人々が神さまをあがめるようになる行いができるなどとは到底思えない。むしろ、私を見ると、躓いてしまうのではないか?だから、私ではなく、神さまを見上げてください。そう言いたくなるのです。そう言いたくなる時、私たちは、主イエスの膝を囲んでいるはずの洗礼を受けたキリスト者であっても、自分が地の塩であり、世の光であるとは、やはり、なかなか言いにくい、認めにくい者なのです。 

 けれども、15節ははっきりと、「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と言います。「私ではなく、神さまを見上げてください」と自分を隠すことは勧められていません。だから、自分は洗礼を受けるほどに立派な者ではないと考える者だけでなく、キリスト者こそ鋭く問われ動揺を感じます。なぜなら、キリスト者として、自分の存在をもって神を証しする地の塩、世の光であるか、自分の存在をもって神を証しできないゆえに地の塩、世の光でもなく、だから、神の者でもキリストの者でもないかのいづれかでしかないようだからです。そして、もしも、私たちが地の塩、世の光として生きることがなければ、主イエスは、13節で、「塩に塩気がなくなれば、もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけだ」と仰います。 

 さて、しかし、私は、これらの言葉を、律法としてのみ響くことのないように、まるで、私たちの前に完全に閉ざされてしまった鉄の扉として見ることが決してないようにと、語っているつもりです。そして、そこでもっとも注意深く語っているつもりであることは、目がくらむような光であることを語りつつも、この主イエスの言葉を、決して絶対に「あなたがたは地の塩にならなければならない。」、「世の光とならなければならない。」とは、語ることはできないということです。

 

 この主イエスのお語りになる私たち人間の本来あるべき姿が、現在の私とはすごく隔たったものに見えたとしても、主イエスは、そのお言葉により、そうなりなさいと私たちを促し、スタートラインに立たせようとされているのではなくて、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」と、既に、扉の内側にいる者として私たちのことを見ていらっしゃるのです。 

 マザー・テレサや、キング牧師だけではなく、この主イエスのお言葉を耳にした私たちが既に、地の塩であり、世の光なのだと、主イエスはご自分の目に映り、ご自分の言葉を聞く人間を既に、そう数え入れているということなのです。特別な弟子ばかりでなく、12弟子と共に、主イエスが山の上から見渡される、その声の及ぶ範囲の人、だから、それは、私たちが最初に見ましたように、事実、教会の範囲をも超えて、ミッションスクールで、この生ける主イエスのお言葉を耳にしたという者が、既にそこで、地の塩であり、世の光であると数えられ、語り聞かされているのです。 

 13節の威嚇の言葉、警告の言葉、その地の塩が塩味を失えば、役に立たずに外に捨てられるという言葉は、確かに私たちが地の塩、世の光であることから、自分の歩みを決して踏み外すことがないようにという厳しい警告の言葉であります。 けれども、この警告の言葉の語らんとすることの中心は、裁きの傾向ではなく、並行する15節の「ともし火をともして升の下に置く者はいない」という言葉と共に読むならば、そんなことはまずありえないという信頼の言葉として語られていることがわかります。明かりをつけて、わざわざ見えないところに置くことはあり得ないのです。塩が塩味を失うことはありえないのです。同じように、主イエスに地の塩であり、世の光であると語られた者が、その言葉を耳にした私たちが地の塩、世の光としての立派な行いをしないということはあり得ないことなのです。 

 なぜ、それほどまでに強く主は、ご自身の見つめる私たち人間が地の塩であり世の光であることを確信されているのでしょうか?私たちは自分の内側を覗けば、とてもじゃないけれど、自分の良さ、立派さなど確信できません。それなのに、なぜ、神の一人子が、私たちが立派な行いをすると確信することができるのでしょうか?それは、私たちのことを地の塩、世の光とそう呼ばれるお方が、そのご自分の言葉に責任を持たれるからです。たとえば、イザヤ書408に、「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」という言葉があります。自然の成り行きに従わない、そこから自由である神の言葉の力を語る神御自身による宣言の言葉です。私は、たとえば、この言葉が私たちが地の塩であり、世の光であることの消息をよく語ってくれていると思います。私たち人間は、自分の心の内や、能力を鑑みて、自分にはとても神を人々に証しするような立派な行いをすることはできない。地の塩、世の光として生きることなどできないと思い込んでしまいます。もしも、私たちがただ一人きりで、この言葉に向き合わなければならないのならば、その通りです。生まれながらの自然の私たちは、地の塩、世の光などと呼ばれ得る者ではありません。まして、自分の行いによって、神の美しさを反映するものにはなりえません。けれども、枯れて萎むばかりの人間である私たちに神の言葉が注がれる時、神の言葉は私たちを地の塩、世の光としてしまうのです。なぜなら、そのお言葉は、世界を創造された生ける神の力ある言葉だからです。

 今日の聖書個所における主イエスの語り口というものは、本当にただ、そのような権威を持つお方の言葉として聞くときのみ、はじめて筋が通ったものとして読むことができると私は思います。ここにいる私たちは、本当にそれぞれ異なった人間です。個性や性格が違うだけでなく、能力も違うし、教会との繋がりの深さも全く違います。この礼拝は、閉じられた礼拝ではなく、公の礼拝です。公の礼拝とは、今まで教会と何のつながりもなかった人、聖書の話を一度たりとも聞いたことのない人、それどころか、イエス・キリストの名さえ初めて聞く人にも、開かれた礼拝です。しかも、そこで見物客としていることはできません。主イエスの言葉が、「あなたがた」と、この言葉はあなたに語っていることだと迫ってきます。そして、この私やあなたのことを教会との距離に何の関係もく「地の塩、世の光だ」と言い切ってしまう。いったい私の何を見てそんなことを言うのか?何の根拠があって、そう言うのか?と私たちは思います。けれども、この言葉の根拠は、まさに私たちの内にではなく、キリストご自身の内に、どんなに悪いものの中からも新しく良いものを生み出す神の言葉の内に根拠があります。だから、ここにいる誰もが今日自分のことをこの言葉の外に締め出すのではなく、この私たちが「地の塩、世の光である」と信じるように促されるのです。人間の思いではなく、「神の言葉はとこしえに立つ」から、言い換えるならば、「全てのことをなさるのは神だ」からです(Ⅰコリ126)神が、私たちを通して、人々の前に輝かす立派な行いをなさるのです。教科書に取り上げられるような偉人と見做される信仰者たち、彼らがどんなに私たちと違った社会的に目立った大きな光の業、塩の役目を果たしたとしても、彼らの存在を地の塩とし、世の光としたのは、私たちをも地の塩と呼び、世の光と呼ばれる、無から有を呼び起こされる力ある神の言葉に拠るのだと理解しないならば、私たちは、その人たちが、地の塩であり世の光であったことを何も理解しなかったのです。 

 キング牧師、マザーテレサ、パウロを地の塩、世の光とした神が、私たちを、今そう呼んでくださっています。だから、私たちはつまらない者ではないのです。箸にも棒にも引っかからない無価値な者ではないのです。神がそうはさせないのです。

 「地の塩、世の光」をスクールモットーに掲げるミッションスクールはたくさんありますが、その一つの青山学院大学のホームページを開きますと、この主イエスの言葉に対してこういう解説がなされていました。そのさわりだけ引用します。こう書いてあります。 

「地の塩」と「世の光」は主イエスが語られたものですが、「教え」というより「宣言」です。つまり「あなたはかけがえのない存在だ」との宣言のもとに青山学院は立つのです。私たちは、神の恵みにより「塩」であり「光」とされているのですから、青山学院に集う者はオンリー・ワンとしての存在感を発揮していくのです。 

 「地の塩、世の光」とは、「あなたがたはかけがえのない存在だ」という私たちに対する主イエスの宣言だと言います。そして、私たちは、この主イエスの宣言によって、私たちの持って生まれた能力や立場に拠らず、オンリーワンの存在感を持つのだと言います。思いがけない解説ですが、その通りだと思います。ここにこそ、今日の御言葉を語り掛ける主イエスの思い、父なる神様の思いがあると思います。「あなたがたは、地の塩、世の光である。私はそのように見做す。私が必ずそのようにあなたを造り替える。あなたは、私のかけがえのない者だから。この私の言葉を信じてほしい。

 最後に、なお、16節の私たちがそこに呼び出されている神を証しする「立派な行い」という言葉の考察を深めておきたいと思います。ここで用いられる「立派」という言葉は、「美しい」とも訳せる言葉です。私たちの行いは美しいと言われます。この美しい行いには多種多様な働きがあると思います。全てのことをなさるのは神だと言ったパウロは、そこで、ただ一つの働きではなくて、人それぞれに与えられた様々な働きがあることを語りました(Ⅰコリ第12)そのひとつひとつをじっくりと考えていくこと、そのようにして、私たちの全生活の中に私たちを用いて神が作られる美しい生活を見ていくことは有益なことだと思いますが、今日は、根本的な一つのことだけを最後に見ます。 

 主イエスが美しい行いを語るとき、必ず思い浮かぶ一つの言葉があります。それは、イザヤ書527です。そこにはこうあります。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」この言葉によれば、聖書の見つめる美しい行いとは、何よりも福音、良き知らせを告げ知らせることであると思います。そして、その良き知らせとは、今まで聞いてきたことと何か別のことではなく、神が王として支配してくださるということ、その神は「あなたの神」と言われるように、「私たちのための神」による支配が実現し始めたということに他なりません。それは、私たちの貧しさを超えて、私たちを地の塩とし、世の光としてしまう神の支配の実現です。それは、その言葉を響かせ、破綻している人間を、地の塩、世の光とはなりえないと嘆いている囚われの人間をかけがえのない者にしてしまう神の支配の到来です。 

 今日からアドベントの季節がはじまります。アドベントは、飼い主のいない羊のような人間である私たちの元に、真の王が来てくださったことを改めて思い起こす時です。イエス・キリストにおいて来られた神は、王として、権威ある方として、私たちを地の塩、世の光としておしまいになるのです。

 

 今から祝う聖餐の食卓は、神が私たちをかけがえのない者とするために、どれほど大きな犠牲を払ってくださったか。私たちを目指して語られた主の言葉が、なぜ枯れずに萎むことがないのかの根拠を示すものです。聖餐の食卓に証しされるキリストの十字架のできごととは、ご自分の言葉に責任を持たれる方が私たちのために裂かれた体を示すパンであり、流された血を示す盃です。私たちはこの食卓にあずかるとき、洗礼と並んで、神の御業に応答するのです。他の何をするのでもなく、これによって、イエス・キリストの出来事を証しするのです。ここにも主を告げ知らす美しい行いが事実、始まっているのです。 

 これはただ、自分たちの命を養うという仲間内だけの排他的な食卓ではなくて、パウロが、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリ1126)と述べたように、福音の告知の業です。どうか、御子イエスの出来事をここにいるキリスト者のように自分のものとして受け取ってほしい。確かな自分の現実として受け取ってほしい。神が、この教会の言葉と業を通して、そのように呼びかけていらっしゃると教会は信じています。だから、教会の業は、この聖餐においても、自分たちのためではなく、世のための教会に他なりません。

 そして、もしも、この聖餐の食卓にあずかりたいと願うならば、それはもう、主イエスの言葉が人間の内で実を結び始め、その者は地の塩、世の光として生き始めているということなのです。その新しくされた人間の最初の応答が、洗礼であり、それに引き続く聖餐だとある神学者は言いました。ここにいる誰もがご自分の召しにふさわしく、地の塩、世の光である者としてふさわしく洗礼を受け、聖餐の食卓に与って頂きたいと願います。塩が塩味をなくし、ともし火が升の下に隠されることはあり得ないことです。同じように、主イエスに語り掛けられたここにいる全ての者が、永遠に洗礼を受けず、永遠に聖餐の食卓に与らないことは、不自然なことです。既に神によって掴まれている手を御自分でも握り返してください。それが私どもをかけがえのない者と呼んでくださる美しい神にふさわしい、美しい行いのはじまりであります。

 

 

 

 

  

コメント

この記事へのコメントはありません。