一人目を覚して祈って下さるお方

5月24日 マタイによる福音書26章36節~46節

十字架前の最後の食事の席から立ち上がり、主イエスたちが赴かれたのは、ゲツセマネと呼ばれるオリーブ山の麓にある庭園でした。賛美歌を歌いながら、その庭園にまでやって来られた主イエスは、祈るために、そこにいらっしゃいました。
 最後の晩餐のパンと杯を、12人の弟子たちに手渡されながら、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と仰り、それから賛美の歌を歌いながら歩み出された主イエスにとって、直前に迫った十字架の死は、ご自分の選び取られたものであったように見えます。
 その主イエスが、十字架にお架かりになる前に来られたゲツセマネで、一体何を祈られたのか?ご自分の決断を、堂々と父にお伝えすることではありませんでした。賛美の歌を歌いながら、そこにやって来られたはずの主イエスは、悲しみもだえておられました。
 「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
 まるで夜中に目を覚ました小さな子どものように、迫る暗闇の不安に苛まれ、「怖いから側にいてほしい」と、弟子たちに懇願しているようです。そのような方の祈る言葉は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」というものでありました。
 この「杯」という隠喩は、言うまでもなく、目の前に迫った十字架の処刑のことです。「あなたがたのために、私がこの体を裂き、血を流す」と仰った、私たちのために主が選び取られた十字架のことです。
 最後の最後、主イエスは、この十字架を、できることなら避けたいと祈られたのでした。ご自分の命が惜しくなられたのでしょうか?口先ばかりの弟子たち、「死んでもあなたに従う」と言いながら、結局、今日の個所においても、「目を覚まして祈っていてほしい」という主の小さな小さな願いすら、実現することのできない情けない人間のために、死ぬのが嫌になってしまわれたのでしょうか?
 けれども、主イエスが悲しみもだえられたのは、ご自分の命と、我々の命を天秤にかけて、こんな情けない裏切り者たちのために死ぬのが嫌になったのではありませんでした。その十字架が、まさに、父なる神の用意された「怒りの杯」であったからです。
 今日の個所において主イエスが二度言及される「杯」、できることなら飲みたくない杯、主イエスでさえも、悲しみもだえずにはおれない杯とは、旧約において、神の裁きを象徴するものです。
 たとえば、イザヤ書51:17は、神の裁きに直面した亡国の都エルサレムを、「主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都」と呼んでいます。エレミヤ書49:12もまた、神の裁きを、「怒りの杯」と表現いたします。
 このことがわかると、ご自分で十字架を選び取ってくださった主イエスが、なぜ、「この杯を過ぎ去らせてください」と父に真剣に祈られたかの理由が分かってくると思います。
 そこに神の怒りの深さが見えてくるのです。神が人間に注がなければならないと定めておられる憤りの大きさが、透けて見えているのです。それは、神の子、主イエスが、悲しみもだえるほどの神の怒りの大きさなのです。
 つまり、主イエスのゲツセマネの祈りのお姿を見て、ソクラテスの最後のように、堂々としていてほしかったとか、主イエスは、私たちの為に十字架にお架かりになることを嫌々なさったのか?と、身勝手な想像をしないで、主イエスが私たちに代わって引き受けられた神の怒りの大きさを知るべきなのです。
 一般的な裁判と同じように、罪の大きさと、刑の大きさが比例するならば、主イエスが悲しみもだえられるお姿から、十字架で下される神の裁きが、どれほど、大きな裁きであるのか、主イエスが肩代わりされた私たち人間の罪がどれほど大きなものなのか、はじめて明らかになるのです。
 私たちは、人間に過ぎないという自分の限界の中にあって、仮に自分の罪の深さを測ることのできる温度計があるとしたら、たとえば、その人間の持つ罪を測る温度計が100度までしか測れないとしたら、それ以上の罪があっても100℃と記録するほかないのです。それが、本当は、1,000℃であっても、10000℃であっても、100度以上としか計測できないのです。
 けれども、神の御子を見ると、私たちの測りかねた神の怒りの大きさ、私たちの罪の大きさが、はじめてわかってまいります。私たち人間に注ぎだされようとしていた神の怒りと、人の罪の大きさは、神の独り子が、悲しみもだえ死ぬ程のものなのです。
 もしも、私たちが、主イエスがきちんとお測りになったように、私たちの罪の大きさ、それに下される神の怒りの大きさを同じように測ることができたならば、私たちは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言うことはできないでしょうし、主イエスが祈っておられる時に、寝てしまうようなこともなかったと思います。
 主の弟子たちが、それら全てのことをできなかったのは、自分の罪の深さを測ることすら出来ない限界の中にある者だからです。
 それはまさに、ルカ福音書に記すように、主イエスが十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られなければならなかった、我々が測りきることのできない深い罪です。
 しかし、私たちが無知であるということ、それを測ることのできない限界の中にあるという自体は、少しも、罰の軽減につながることはないのです。
 自分のやっていることがわからない、その重大さに気づけないということは、赦される理由にはならない。「彼らは自分のやっていることがわからないのだから赦してほしい」と、わたしたちのために祈ってくださった主イエスの祈りが聞かれるためには、主御自身の体を裂き、その血を最後の一滴まで流し尽くす十字架の支払いを必要としたのです。
 私たちの命によっても贖い得ない罪を、神の子キリストは、ご自分の命で、支払い尽くしてくださったのです。
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 今日共にお読みしている聖書個所において、弟子たちは眠りこけてしまいました。12弟子の中の、更に少数精鋭、主イエスが天の父との深い祈りの交わりの末に、選び出された12人の内の、さらに、選び抜かれた3人の人間、ペトロとゼベダイの子二人。
 主イエスが、私たち人間の罪の深さ、それに注ぎだされる神の怒りの深さを、味わい尽くされようとしていた時、ひと時の間、主にお付き合いした者は誰一人いなかったのです。ただその傍らで目を覚まして、付き添う者もいなかったのです。
 けれども主は、人間が全く非協力であるからと言って、ご自分の歩みを止めようとはなさらなかったのです。この私のために、苦しみと戦ってくださっている主イエスのために、主がお望みになる一時、目を覚ましお側にいることのできない心も体も弱い人間を捨てることはなさいませんでした。
 そしてその決断は、主イエスだけのものではありませんでした。それはまた、天の父がご自分の御心としてくださったことでした。父と子、そして、御子を導かれた聖霊が、すなわち、神が神御自身において、人間の救いの全てをお引き受けになったのです。
 ゲツセマネの園において、一度、二度、三度と主イエスと父が祈りの交わりの中におられた時、人間は眠っていたということ、それは救いの大部分、主要な部分は神の業というのではありません。
 初めから終わりまで必要なことはすべて、神が成し遂げてくださるということだと思います。マルコによる福音書の並行個所には、眠ってしまう弟子たちに対し、「もうこれでいい」という主の言葉があります。主は眠ってしまう人間をおいて、その人間のために、救いを成し遂げてくださるのです。
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 そのような神の御心、神の救いというのは、主イエスにおいてこそ、完成したものではありますが、主イエスにおいてはじめて明らかにされた天の神のお姿ではありませんでした。旧約以来、人間の救いのために、神が、人間の弱さ、罪にもかかわらず、選び取り続けてくださる道であったと思います。
 そこで何よりも、思い起こされるのは、我々の信仰の先祖と呼ばれるアブラハムの物語、神が人間と契約を結んでくださったアブラハムと神の間の契約締結の場面を語る物語です。
 創世記第15章に、その契約締結の場面が描かれています。神はその契約の相手として選ばれた人間であるアブラハムに命じられました。
 「三歳の雌牛と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」
 アブラハムは、それらのものを皆持ってくると、真っ二つに切り裂き、それぞれを向かい合わせておきました。
 これは私たちには奇妙で不思議な行動ですが、古代中東の契約締結の作法に適ったことだと言われています。
 聖書の書かれたヘブライ語では、契約を結ぶことを、「契約を切る」と表現いたしますが、それはこの動物を真っ二つに切り裂く行為に由来するものだと言われます。契約を結ぶ者同士が、真っ二つに裂いて、向かい合わせた動物の間をお互いに通ることによって、契約が結ばれたと言います。それは、もしも、この契約に違反する時は、これらの動物のように真っ二つに切り裂かれても相違ないという重大な約束を結ぶ際のお互いの誠実の意思表示であったと言われます。
 神と、神の選ばれた人間であるアブラハムとの間に契約が結ばれた時も、同じでした。動物が、真っ二つに切り裂かれ、向かい合わせに置かれ、そこに通るべき道が造られたのです。神とアブラハムがそれぞれそこを通れば神は恵みを降し、アブラハムはこの神に服従するという契約締結というわけです。
 ところが、創世記第15章の12節です。こう書いてあります。
「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」
 また、それから少し飛んで、17節です。
「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」
 お気付きでしょうか?アブラハムは眠っており、切り裂かれた動物の間を通り過ぎたのは、ただ神おひとりであったのです。もしも契約を破るようなことがあれば、この動物のように真っ二つにされても構わないと契約の遵守を誓ったのは、神おひとりであったのです。
 ある聖書学者は言います。「このような契約が可能なのは、神が人のいのちに無関心でいられないからだ。神の結ぶ契約は冷めた法律的な関係ではない。やがてひとり子をこの世に渡すほどの愛に裏打ちされた契約である。」
 主イエスを孤独の中に置き去りにし、眠りこけている人間、自分の罪の深さも理解できないままである人間、自分が何をしているかもわからない人間、そもそも目覚めて神と契約を結ぶことすらできない人間、つまりスタートラインに立つことすら出来ない人間、けれども、神は、その人間が自らの弱さと罪の中に滅びて行くことではなく、生きることを望まれるのです。
 そして、このようにして私たちが生きて良い、生きる価値がある。どんな人間も生きて良いのだという神よりの根本的な許可が、私たちの行動や信仰以前に、まさに私たちが眠っている間に、神の孤軍奮闘によって、確立しているのです。
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 先週もお話ししましたが、今、私たちが改めて思い出すように招かれていることは、このことではないかと思います。
 詩編127:1にこういう言葉があります。
 「主御自身が建ててくださるのでなければ、/家を建てる人の労苦は空しい。
主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」
 『眠りの神学』という興味深いタイトルの本の中で、ベイリーというスコットランドの神学者は今の詩編の言葉を引用して、次のように言います。
 「昼間、私たちは自分の運命を牛耳ろうとするので、神は、私たちが眠るのを待って、私たちが自力でできないことを、行ってくださいます」。
 今は、私たちの世界を夜が覆っているかもしれません。私たちは身動きが取れず、あらゆる活動が制限され眠ったような状態かもしれません。
 けれども、眠りの中にある私たちの代わりに、主イエス・キリストに現わされた神は、休む間もなく私たちが生きるために働いてくださるのであります。何よりも、神はわれわれの苦しみをその身に負うことによって、働いてくださる。そのことを単純に信じて良いのです。
 そして、最後に申し上げます。このような人間の弱さと、神の力強いお働きを弁えて生きることこそが、本当の意味で、目を覚ましているということなのです。
 祈ります。
 主イエス・キリストの父なる神さま、
 目覚めていると思いながら、忙しく活動しているときほど、
 私たちは、眠りこけてしまっているのかもしれません。
 私たちの活動主義によって、あなたの声も隣人の声も押しつぶしていたにも関わらず
 神のため、人のために生きていると得意になっていたかもしれません。
 今、動きと活動を制限された中にあって、
 もう一度、私たち教会を生かしているのは、何であるのかを、
 お教えください。
 まるで私たちの働きがなければ、教会が立ち行かないかのような錯覚から
 私たちをお救いください。
 しかしまた、わたしたちが、あなたのものとして、奉仕に召されていることは、
 ひたすら、ご自分の業に、参与させ、私たちを喜ばせ、成長させたいのだという、
 あなたの親らしい愛の配慮であることを覚え、
 また再び許された時、喜んで、その働きに従事することができますように。
 弟子たちが眠っている時も、血の汗を流して、滅びの力と戦ってくださる
 神の独り子、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

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