モーセからヨシュアへ

9月1日(日)主日礼拝 ヨシュア記1章1節~9節 マタイによる福音書1章18節~25節  松原 望 牧師

聖書

ヨシュア記119

1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

マタイによる福音書11825

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

「 説教 」

 昔、永井春子という女性の牧師がいました。この先生が書かれた「青少年のためのキリスト教入門」の冒頭に、「キリスト教とはキリストである」という言葉があります。キリスト教という宗教で最も大切なのは、主イエス・キリストということです。一見当たり前のようですが、初めてこれを読んだとき、少しびっくりした記憶があります。というのは、キリスト教で最も重要なのは、キリストが教えた教えが最も重要だと思っていたからです。もちろん、この本はキリストの教えが重要でないと言っているわけではありません。キリストの教えは重要です。しかし、それ以上に重要なのはイエス・キリストそのものだというのです。そして、キリストが十字架にかかられたからだと説明されていました。そのことがよく理解できず、それ以降、その本を読まなくなっていました。キリストが十字架にかかられた重要性を理解できるようになったのは、それから何年もたってからのことでした。

 キリストが十字架にかかられた重要性は、新約聖書の中に何度も出てきますし、特に使徒パウロは、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めている」(Ⅰコリント2:2)とまで言っているほどです。パウロは主イエス・キリストが十字架にかかられたことを繰り返し語り、この十字架にかかられたキリストこそ、世のすべての人々を救う救い主であると強調するのです。

1、神の御計画「アブラハムからイエス・キリストへ」  ガラテヤ書から

使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙に、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13~14)とあります。

 ここには直接「十字架」という言葉はありませんが、「木にかけられた」という言葉で十字架を指しています。パウロは十字架にかけられるという出来事には神から呪いを受けたという意味があり、私たち罪人が受けるはずの神の呪いを、キリストが代わって受けてくださったと説明するのです。すなわち、「贖罪」ということです。

 以前、金沢元町教会の礼拝(7月28日)でレビ記16章を取り上げ、「罪を贖う唯一の献げ物」「贖罪」ということを見ました。罪が赦されるために「贖罪」という儀式が与えられたと話しました。そのレビ記では罪の赦しを受けるために、動物をささげることが定められていました。その動物の献げ物よりさらに完全な献げ物として、主イエス・キリストが十字架にかけられたと話しました。

 使徒パウロが語る「キリストが十字架にかかられた」という出来事の重要性は、私たちはどのようにして救われるかを明らかにしていることです。すなわち、キリストが私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださり、十字架にかかられたキリストと一つとされることによって罪から救われ、神の祝福にあずかるということです。

 ガラテヤ書はもう一つ重要なことを指摘しています。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」ということです。これは、創世記12章1~3節の「あなたは祝福の源となる。・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神の約束のことを言っているのです。神の約束と言いましたが、全ての人々を救う神の御計画と言っても良いでしょう。

2、神の御計画「アブラハムからイエス・キリストへ」  マタイ福音書から

 すべての人々を救う神の御計画は、マタイ福音書1章1~17節に主イエス・キリストの系図という形で示されています。その冒頭に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるように、アブラハムから始まる系図です。系図という形をとっていますが、主イエス・キリストの血筋の良さを証明することを目的としているというより、アブラハムから主イエス・キリストにいたる神の御計画の歴史的流れを記しているとみるべきでしょう。先ほどのガラテヤ書で使徒パウロが言っている「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」ということと一致するということです。

3、マタイ福音書の系図に出てこないモーセとヨシュア

 マタイ福音書の系図が全ての人々を救う神の御計画を示すものだとすれば、不思議なことがあります。この系図に、モーセやヨシュアの名前が出てこないことです。

 出エジプト記から申命記にいたるまで、モーセとヨシュアがいかに大きな働きをしたかが記されていました。そのことは、これまでの礼拝の中で繰り返し見てきました。その二人の名前が出てこないのは不思議なことです。系図という形をとっていますので、全ての名前を挙げることはできませんが、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という4人の女性の名を加えています。アブラハムの子孫と結婚したことから彼女たちは系図の中に名を残すことになりました。そのことには重要な意味があると思いますが、彼女たちは異邦人です。彼女たちの名前があるのに、アブラハムの妻サラの名前がないのも不思議なことです。

 このように見ていきますと、系図という形で神の御計画を示していると言いましても、それはすべて矛盾がなく説明できるようにされているということではありません。あくまでもアブラハムから主イエス・キリストにいたる神の救いの歴史を、系図という形で示しているということです。ですから、モーセとヨシュアの名前がないからと言って、彼らの働きが軽んじられているわけではありません。

4、モーセとヨシュア

 イスラエルの歴史の中で神の救いの計画が進んでいく中で、モーセとヨシュアの働きには重要な意味があります。エジプト脱出と約束の地に入っていく出来事です。

 エジプト脱出と約束の地に入っていくことが歴史的事実として記され、その出来事そのもの、その事実に大きな意味がありますが、それと共に象徴的な意味もあります。それは罪の束縛から脱出し、神の都へ入っていくということの象徴です。

 エジプト脱出の物語は、過ぎ去った話、過去の物語というだけではなく、今の私たちの歩み、そしてこれからの歩みを示す道標(みちしるべ)の意味があるということです。

 私たちはかつて罪の奴隷でしたが、主イエス・キリストによってその束縛から解放されました。私たちはそれぞれの人生を歩み、それは神を信頼する訓練の時でもありますが、キリストに結ばれて神の都へ向かっているのです。荒れ野の40年間、神がイスラエルの民と共におられ、彼らを守り導いたように、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、守り導いてくださるのです。

 イスラエルの民を約束の地へ導く指導者はモーセの後継者となったヨシュアでした。彼がイスラエルの民を約束の地へ導いたこと自体主イエス・キリストを指し示す象徴的な意味があります。しかし、それだけでなく、彼のヨシュアという名前にも象徴的に深い意味があります。

5、モーセの従者ヨシュア その名前の意味

 ヨシュアはもともと「ホシェア」(民数記13:16)という名前でした。他の11人と一緒に約束の地カナンへ偵察に行くとき、モーセが彼を「ヨシュア」という名前にしました。どちらも「救い」という意味があります。違うのは「ホシェア」という名前に神の名「ヤーウェ」を付けたということです。すなわち「救い」という名前から「ヤーウェ(主)は救い」という名前になったということです。人の名前に神の名ヤーウェがつけられたのは、ヨシュアが最初だと言われています。

 神はモーセに対して「私の僕」と呼び、ヨシュアに対しては「モーセの従者」と呼んでいます。ヨシュアが「主の僕」と呼ばれるのは生涯を終える時(士師記2:8)、ただ一回きりでした。それだけモーセの働きが大きかったと言えますが、それだけではありません。働きの優劣を比較しているのではなく、ヨシュアがモーセにどこまでも従順に仕えていたということを示しているのです。

 主イエスは従者と呼ばれることはありませんでしたが、どこまでも父なる神に従順でした。聖書は「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)と語っています。

6、ヨシュアとイエス

 話が飛ぶようですが、実はイエス・キリストの「イエス」は旧約の「ヨシュア」と同じです。ヨシュアは旧約聖書の言語ヘブライ語で、イエスはそれをギリシア語に翻訳した名前なのです。

 マタイ福音書は主イエスの名前は、天使が「この子は自分の民を罪から救うからだ」と言って、ヨセフにこの名を付けるようにと命じました。ですから、イエスという名前に「主は救い」という意味があるのです。

 もう一つ大切なことは、先ほども触れましたが、旧約ではヨシュアがイスラエルの民を約束の地に導き入れましたが、主イエス・キリストは私たちを約束の神の都へと導き入れてくださるのです。

 私たちが地上で信仰の歩みをするとき、どこかわからない所をさまよっているのではなく、確実に神の都に向かって歩んでいるのであり、そのことをしっかり心に刻んでおくことが大切です。

7、神は共にいる

偉大な指導者モーセを失ったヨシュアは非常に大きな不安に襲われていたことでしょう。それはヨシュアだけではありません。イスラエルの民も同じです。

ヨシュアは既に経験も豊富です。年齢から言ってもそれにふさわしい貫録を身につけていたことでしょう。しかし、偉大な指導者を失った今、これから大丈夫だろうかという不安でいっぱいだとしても不思議ではありません。

神はヨシュアに言います。

「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 ヨシュアを励ます神の言葉は、イスラエルの民にも響いたことでしょう。ヨシュアの人間性、知恵や経験を見るのではなく、自分たちを導いてくださる神をこそ見なければならないのです。

ヨシュアに向けられた神の言葉は、今、私たちにも向けられています。

 「神が共にいてくださる」。マタイ福音書も私たちにもこの言葉が向けられていると力強く語っているのです。

 

 

 

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