12月12日 ルカによる福音書1章46節-55節
アドベントの第3週、先週に引き続きまして、主イエス・キリストの母となったマリアに注目しています。
天使ガブリエルより、神の恵みの知らせを聞いたマリアが、日常の生活に戻って行った後に、改めて、主なる神様をほめたたえた応答の言葉です。
新共同訳聖書を見てもお分かりのように、このマリアの言葉は、その内容、その形から、賛美の言葉と理解され、これが賛美歌であることがわかるように、一行づつ行分けがなされています。
そして、この賛美歌は、最初の言葉、「わたしの魂は主をあがめ」の「あがめる」という言葉のラテン語から、マニフィカート、あるいはマグニフィカ―トと呼ばれるようになりました。
このマニフィカート、私たちの信仰の兄弟である東方正教会では毎朝、ローマ・カトリック教会では、毎晩、祈るように定められてきたものです。ただ祈るだけでなく、実際に歌えるように、多くの曲が作曲されてきました。これらの教会だけでなく、私たちプロテスタント教会の作曲家バッハによっても、曲が付けられたことも、記憶しておいて良いことだと思います。
古い古い賛美歌です。福音書の記述では、イエスさまのお生まれになる前に歌われた賛美歌ですから、旧約詩編を除けば、キリスト教会の一番古い賛美歌だと言って良いかもしれません。
主なる神さまがマリアの胎に宿ったイエス・キリストを通して開始してくださった決定的な恵みに対して、私たち人間の側からの最初の応答の歌です。それだけ主なる神様に対する私たち人間の基本的な応答の言葉だと言えるでしょう。
このキリスト教会最古の讃美歌とも言えるマニフィカートの言葉をゆっくり読んでいますと、賛美歌と呼ばれる歌が持っている、大切な特徴がよくわかってくるように思います。
作詞作曲活動というのは、普通、クリエイティブな活動だと考えられ、創作活動と呼ばれると思いますが、賛美歌に限っては、何もない所から生まれるということは絶対にない。それはいつでも応答であるのだと気付かされるのです。これは、賛美歌と呼ばれる歌の最大の特徴ではないでしょうか?
賛美が生まれるところ、そこにはまず、神さまの恵みの働きがあります。一人の人を神様の恵みが捉えるという出来事が最初に起こります。
神さまがわざわざ私たち人間に会いに来られるのは、恵みを与えるためです。災いをもたらすためではありません。なぜならば、わざわざ神さまが災いをもたらさなくても、私たち人間はほっといても勝手に滅びに突き進んでいるものだからです。だから、神さまが人間を訪れるとき、私たちは圧倒され、困惑し、混乱するとしても、それは必ず恵みの訪問ですから、やがて、必ず賛美の歌が生まれるのです。
その人間が神さまに向かって歌っている応答の歌を聴けば、どんな恵みがその人に訪れたのか?神さまがその人に何をしてくださったのか?わかります。
私たちも、それぞれ好きな賛美歌というのがあると思います。気付けば口ずさんでいる賛美歌というのがあるでしょう。これまで、あまり意識していなかったかもしれませんが、ご自分の心に尋ねてみるといいと思います。何でこの賛美歌が好きなんだろう?主なる神様に出会い、教会に通おう、洗礼を受けようと願われたその出来事が何であったのか、はっきりしてくるのではないかと思います。
マニフィカートを見ますと、やはりマリアが出会った神さまの顔が見えてきます。この世界の内に恵みの業を開始された神さまの恵みの顔が、見えてまいります。それは48節の「身分の低いこのはしためにも/目を留めてくださった」恵み深い神の御顔です。
この言葉は隣人への伝道の言葉である前に、賛美の言葉です。感謝の言葉です。神さまに向かって語られたマリアの個人的な応答の言葉です。でも、その中に既に、私たちに対する神の良き報せの言葉が響いてきます。神さまとマリアの間に交わされているはずの言葉が、恵みが、ほとばしり出て、この世界をも巻き込んでしまっているようです。
それはマリアを目指してやって来られた、身分の低い者を顧みられる主なる神様の御業が、ただこの人だけに関係のあることではなかったからです。この人に与えられた恵みが、この人だけのものではなく、もっとずっと多くの人たちのためのものであったからです。
この歌の中に自分の姿を見出せない者は誰一人おりません。特に51節以下を見るならば、マリアの身に起きたことが、一人の女性、あるいは一つの家族、一つの民族だけに関係する出来事であるわけではないことがわかります。低い者から高い者まで、貧しい者から富める者まで、この二つの両極端の間に、自分のことを発見することができる誰にでも関係のある出来事が起こったのです。
マリアが歌った「身分の低い、このはしためにも/目を留めてくださった」という48節の言葉は、直訳するならば、「神はご自分の女奴隷である私の卑しさに特別な関心を向けてくださった」ということです。
マリアには何の特別な所はありません。しかし、彼女に特別なところが少しもないからこそ、この神さまの関心こそが特別なもの、マリアを特別な者にする秘密のレシピであることが分かります。
ある説教者は次のような趣旨のことを言います。先週共に聞きました受胎告知の場面において、天使ガブリエルがマリアに語りかけた「おめでとう」という言葉は、直訳すれば「喜びなさい」という言葉が使われていますが、この言葉は、当時の普通の朝の挨拶でもあったと言うのです。一日の始まりに当たって、「どうぞあなたにとって今日が喜びの日でありますように」、そういうニュアンスが籠った普通の挨拶の言葉だった。けれども、また、まだ結婚していない娘に、こんなに丁寧にあいさつする習慣もなかったと言います。
マリアが生きた当時の社会では、今では考えられないほどに、女性が低く見られており、まして、未婚の少女と言って良いほどの年齢の娘を、尊ぶということをほとんど知らなかったと言います。
ところが、マリアを尊ぶことを知らない世界にあって、人々の常識を破って、主なる神様が、この特別なところが何もない村の娘に非常に丁寧に接してくださったのです。
「喜びがあなたと共にありますように。どうぞあなたにとって今日一日が喜びの日でありますように」。いいえ、この挨拶の言葉は、このマリアの一日の幸せを願う祈りの言葉ではなくて、新共同訳聖書が正しく訳しましたように、やはり「おめでとう」という祝福のあいさつでありました。
主なる神様の特別な関心、特別な配慮は、将来の約束ではありません。その日、その時、その場で、マリアにしっかりと与えられたものでありました。
しかし、それは、シンデレラストーリーのように、マリアが、この神様による不思議で、特別な顧みが与えられ、私たちとは違う、一歩抜きんでた高貴な人間に格上げされされたということではないのです。
そうではなく、この卑しいマリアが卑しいままで、既に、神の特別、神にとってもう二度と目を離すことのできない、かけがえのない存在とされるということが起こっているのです。
そしてそれこそが、マリアに与えられた恵みが、マリアだけのものに留まらないと、このマリアの歌を私たち自身の毎日の歌として歌うことができると信じる理由です。
マリア自身が自分自身の身に起きたこと、自分と出会ってくださった、自分に示してくださった神さまの顔を見ながら、その恵みの出来事を、現在進行形で味わいながら、次のように応答するのです。
51節以下です。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」
「この私に起きたことはすべての人に起きること、私の胎内に宿った、いと高き方の子がそのように全ての者を永遠に支配されるのです。」そう告白するのです。
マリアからお生まれになるイエス・キリスト、このお方を通して、身分の低い者、飢えた者、卑しい僕たちは、もうそのままで既に、主なる神様に愛されているかけがえのない存在として、生き始めるのです。改革者ルターは、今日の聖書箇所を説きながら、「人が神のはるか下にいればいるほど、神は一層これをかえりみ給うのだ」と言いました。
だから、マリアは、世の終わりまで貧しい人間のままであるはずです。この人が、私たちの模範、モデルであるのは、神は貧しい人間、卑しい人間、打ちのめされている者を、そのままでもう、既に、愛してくださるという意味でのモデルであります。この人がそのままで神様から特別愛されたことが分かると、この私たちもまたそのままで神さまから特別愛されていることが、よくわかるようになる。
ところで、このような小さな者、特別でない者に、顧みを与えてくださる不思議な神さまの愛を告白するマリアの賛美の歌は、同時に、思い上がる者、権力ある者、富める者を貶めるという出来事でもあることを歌うことは見過ごしにできない言葉であるでしょう。
身分の低い者を高く引き上げ、飢えた人を良い物で満たし、その僕を忘れることはないというのは、よくわかる。まさに良い知らせだと聞くことができます。
けれども、権力ある者をその座から引きずり降ろし、富める者を空腹のまま追い返されるというのは、少し、行き過ぎではないかと思わされます。せめて、権力を乱用する者とか、貧しい者を虐げる富める者とか、そういう但し書きがあれば、理解もしやすいというものですが、シンプルに、権力ある者、富める者というのは、どうなのだろうと。
しかも、身分の低い者は高く引き上げられ、飢えた人は良い物で満たされるというのです。これは革命が起きるということ、しかも、皆が平等になるというような共産主義的革命ではなくて、現在の制度の秩序は維持されたままで、神によって、それぞれの立場が入れ替わるだけという革命が起こることを語る言葉なのでしょうか?
たとえば、ローマ帝国に支配されているマリアたちユダヤ民族が、生まれてくる神の子イエスという王によって、ローマを従える、イスラエル帝国になるということなのでしょうか?マリアの賛美というのは、その意味で、まだ、イエス・キリストこのお方の支配の仕方ということを知らない者の、狭いイスラエル民族の民族的悲願の言葉を含んでしまっているものなのでしょうか?
いいえ、この賛美の言葉は、たとえ、マリア自身が、仮にこの時、その重みを自分でも十分理解できていなかったとしても、神さまが与えてくださった正しい告白であり、神様の御顔をはっきり紹介する言葉、私たちも歌い続けるよう招かれている神への賛美でありました。
なぜならば、身分の低い者を高く引き上げる神さまの御業とは、このマリアの出来事においても完全に明らかなことですけれども、マリアが高く昇ることによってではなく、神さまが深くへりくだることによって、実現したことであったからです。
すなわち、主なる神様によるマリアへの特別な顧みは、ヘロデ王や、皇帝アウグストゥスをその王宮から追い出して、マリアに、それを丸ごと与えるということによってなされたものではなく、神と等しい身分であられる御子が、神と等しい身分であることに固執しようとせず、地に降り、この何の変哲もない村娘であるマリアの息子となるという、子なる神の壮絶なへりくだりによって、実現したものだからです。
けれども、もう一度申しますが、それだからこそ、マリアに起きた神の特別な顧みはマリアだけのものではありません。御子がへりくだられた低いところにいる者たちは、ただ一方的な神の恵みにより、神の顧みを頂く者となったのです。自分一人が、天に引き上げられるのではなく、御子のへりくだりのゆえに、この地が、神の国になってしまうのです。
そしてまた、この御子が、マリアという小さな者と共におられるがゆえに、それまでは、権力があることや、富んでいることが、それがそのまま神に愛されている証拠と信じられてきたことが、そのままでは神から恵みを頂いている証拠には、ならなくなってしまったのです。いや、むしろ、自分の高い地位のゆえに、自分の富のゆえに、自分は神に愛される価値がある、神にとって特別な存在だとの思い上がりは、キリストにある神の恵みからは、無限に遠くなったのです。
ある牧師は次のような趣旨のことを言います。私たちが思い上がる者であるとき、引きずり降ろされる地獄とは、神様なしで、自分の計画が達せられ、神様なしで、目標が達せられ、神様なしで自分の成りたい者になることであり、それが、ここで言う転落に他ならないと。
マリアが平凡なマリアのままで、神の特別な顧みを一身に受けて神に引き上げられた者として生きて行けるならば、権力ある者、富める者は、権力あるままで、富めるままで、引きずり降ろされた者として生きることになるのです。神なしで、神の顧み、神の愛を失ったままで、自分で自分をほめたたえ、自分で自分を賛美するのです。しかし、それこそが地獄なのです。
なぜ、自分で自分をほめたたえなければならないのか?自分で自分を賛美しなければならないのか?貧しいありのままの自分、裸の自分を、ただただ恵みによって、特別な者と呼び、一方的に愛してくださる神から無限に遠いからです。その神の愛を頂くためには、自分が頼りにするものを全部失わなければならないのは、当然です。そうであれば、権力ある者、富める者が、高みにあるそのままで、神の顧みを完全に失ってしまっていると、マリアを代表する教会によって、裁きを宣言されることは、回復の第一歩でもあります。
それはまた、私たち教会自身が、現代の世の権力志向、成功主義に向かって語り続けるアンチテーゼであるだけではありません。何度も何度も、教会が自分自身に向かっても、語り続け、聴き続ける必要のある言葉でもあります。
マニフィカートとは、「あがめる」と訳されている言葉ですが、直訳すれば、「大きくする」という意味です。自分を大きくするのではありません。神を大きくするのです。神を大きく大きくするとき、自分はどんどん小さくなっていくのです。
教会が教会として、存続していくためのSDGsがあります。それは、何度でも何度でも、繰り返し、Soli Deo Gloria、「神にのみ栄光」を帰していくことです。教会のSDGsは、終わることなく、自分ではなく、神さまに栄光を返していくことです。もしも、教会がこのSDGsを忘れるならば、ただ過去の一回きりのこととするならば、その時、教会は教会でなくなります。これは、日々、東方教会のように朝ごとに、カトリック教会のように夕ごとに、いいえ、私たちプロテスタント教会は、全ての者が、全ての時間、このような神への献身に生きることが人間の本当の生き方だと、語り続けて来たのです。
しかし、これは努力目標ではありません。キリストのへりくだりに目を留めるならば、自分のことなんか忘れてしまうのです。こんなにも神さまに愛されていることが分かるならば、思わず神さまを拝んでしまう。お辞儀をしてしまう。私の中で、自分に対する関心はどんどん小さくなり、神様ばかりが大きくなっていくのです。
アフリカの医療伝道で有名なシュバイツァー博士は、バッハの研究家としても有名な方でした。
このシュバイツァー博士が、今日の48節「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださった」とと歌うバッハのマニフィカートを評してこう語ったそうです。
ここは、「低く身をかがめてお辞儀をするような音の形によって表現され、母マリアのまことの姿を表現している」と。神の恵みが、大きく大きく自分を包み、それだけ、深く深く身をかがめて、主を礼拝するのです。
このような神の大きな恵みの前に、自分を小さくして、だから、神を拝む者として、生きられた私たちの時間は、今から後、いつの世の人にとっても、「幸いな者」と呼ぶにふさわしいものです。役に立たない自分、価値のない自分も神さまに特別視されている。そうであるならば、元気に活動し、奉仕ができる時間だけが、人生における意味のある時間ではありません。私たちが何もできなかろうが、それどころか、マイナスばかりを生み出していようが、神さまにとっては私たちの命全体が、特別な宝物です。
それは、自分と神様だけの恵みと賛美の閉じられたラリーで終わるものではありません。次から次へと人がその中に巻き込まれていくのです。神がそれをお望みになるからです。
本当は一皮むけば、皆、何もないもの、何者でもない者です。人と比べて、あちらが高い、こちらが高い、あちらが低い、こちらが低いと一喜一憂していますが、神の御前に本当に置かれるならば、そんな人間同士の比較はすべて吹っ飛んで、私たち人間の根っからの貧しさが露わになってしまいます。しかしまた、神の御前に置かれるならば、このイエス・キリストの父なる神は、その無一物の者を生かすこと、ご自分の命をいっぱいに注ぎ込むことを、神はお望みになることもまた、よくわかるようになるのです。神がキリストにあって、この何ものでもない者を、どんなに深く愛しておられるか、よくわかるのです。
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