バビロン捕囚の終わり

11月24日 主日礼拝 松原望牧師 

聖書 イザヤ書40章1節~11節 ルカによる福音書1章67節~79節

聖書

イザヤ書40111

1 慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。

2 エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、

苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。

3 呼びかける声がある。

主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

5 主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

6 呼びかけよ、と声は言う。

わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。

7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。

8 草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

9 高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。

力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。

声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神

10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。

11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、

小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

ルカによる福音書16779

67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、

69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。

70 昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに。

71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。

72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。

73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、

74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、

75 生涯、主の御前に清く正しく。

76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、

77 主の民に罪の赦しによる救いを、知らせるからである。

78 これは我らの神の憐れみの心による。

この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

「 説教 」

序、

マタイ福音書1章に、アブラハムから始まる主イエスの系図があり、その最後に「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」という言葉があります。主イエス・キリストの系図をダビデとバビロン捕囚で三つに区切っているわけです。

アブラハムとダビデはユダヤ人の中でとても重要な人物ですので、その名前が強調されていることはすぐ理解できます。バビロンへの移住というのは単なる移住ではなく、バビロンへ捕らえ移されたということで、非常に大きな事件であったことは確かですから、系図の中でそれに触れることも自然なことと言えます。

ただ、以前にも話しましたように、この系図が主イエス・キリストの血筋をあらわすだけではなく、むしろ、神がアブラハムの子孫を通してすべての人々を救うための働きを示していますので、ダビデもバビロン捕囚も神の働きという面で重要な出来事だということになります。

ダビデはイスラエルの民、すなわちアブラハムの子孫の王国を建設しました。そして、バビロン捕囚は、そのダビデの王国が滅亡した出来事です。王国の建設が神の計画に重要な意味を持っていましたが、バビロン捕囚は、神の計画が挫折した出来事と言うことになります。

主イエス・キリストの系図が神の働きを示すというのであれば、バビロン捕囚にどのような意味があるかを確認することが重要になります。

そこで、まずバビロン捕囚はなぜ起こったのか、そして、バビロン捕囚の前と後では何が変わったのかを見ていくことにします。

1、神に罪を犯した罰としてのバビロン捕囚

バビロン捕囚の出来事は、列王記下24~25章に記されています。バビロンとの戦いに敗れたユダ王国が滅亡し、国の主だった人々がバビロンに強制移住させられました。これがバビロン捕囚です。

旧約聖書の預言者たちは、この出来事を神に対する罪の結果として語っています。例えばエゼキエルは安息日の戒めを守っていないことを指摘しています。しかし、最も重要なことは、ダビデ王の息子、ソロモンが王であった時代に、他の神々への祭儀をエルサレムに持ち込み、歴代の王たちがそれを続けたことでした。

エジプトから脱出し、シナイ山において、イスラエルの民は神の民となる契約を結びました。その際動物の血を用いて、命をかけてこの契約を守ると約束したのです。しかし、その契約を破ったイスラエルの民は、何度も預言者たちから「あなたがたをエジプトから救い出してくださった神に立ち帰れ」と警告を受けたにもかかわらず、最後まで神に立ち帰ることをせず、神から与えられた律法を守ることもしませんでした。

そういう状況であるにもかかわらず、イスラエルの民はエルサレムに神の神殿があるから自分たちは守られていると、誤った安心感を持ち続けました。そのことも預言者たちは厳しく警告し、神ご自身がエルサレムの神殿を破壊すると告げました。それでも、イスラエルの民は悔い改めることをせず、ついに預言者が警告した通りに、エルサレムの神殿と町は破壊され、国は滅び、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていったのです。

バビロン捕囚は、神に背き契約を破ったことへの刑罰でした。

神がイスラエルの民を罰したのは、単に神の機嫌を損ねたということではありません。確かに神の機嫌を損ねたことに間違いありませんし、神の尊厳、誇りを大いに傷つけたことは確かです。しかし、神にとってそれ以上に失望させられたのは、すべての人々を救うための計画が崩壊させられることでした。その救いの計画のためにイスラエルの民を用い、彼らにその栄誉を与えようとしていたにもかかわらず、彼らは自分の手で、その栄誉をどぶに捨ててしまったのです。そして、すべての人々の救いも危うく水の泡となるところでした。

イスラエルの民は、神が「宝の民、心引かれて選んだ民」(申命記7:6~7)とされるほど愛されたのです。それゆえに、神に背く彼らをそのままにすることはできなかったのです。(アモス3:2)

2、バビロン捕囚の積極的な意味

しかし、バビロン捕囚はイスラエルの民の罪に対する刑罰という意味だけではありません。バビロン捕囚は、イスラエルの民が神の民として再出発するための準備の期間でもありました。

第一に、パレスチナの土地から追い出され、エルサレムの町と神殿が破壊されたことにより、異国の土地にあっても、神が共にいてくださるという信仰が確立していきました。もちろん、彼らがそのまま永遠にバビロンに居続けるということではありません。神が必ずエルサレムの地に返してくださるとのイザヤ書40章の言葉が、そのことを示しています。このイザヤ書40章は、将来の事として語られた言葉でしたが、この言葉通り、イスラエルの民はエルサレムに帰ってきました。

第二に、神殿が破壊され、異国のバビロンに来たことにより、神殿の祭儀に代わる礼拝をするようになりました。一つは預言者の言葉を収集し、神の警告を聞きなおすことでした。その預言者とは、例えばイザヤやエレミヤなどです。

第三に、バビロン捕囚以前、口伝えになっていた律法や諸伝承を文書化することです。

例えば、神殿の祭司は口伝えで、あるいは直接指導しながら、祭儀や戒めを伝えていましたが、神殿がなくなってからは祭儀の仕方の伝えかたを変える必要に迫られました。そのために文書化する必要があったのです。そして、これは後の旧約聖書に繋がっていくことになりました。

第四に、会堂での礼拝が定着していきました。そこでは、律法が読まれ、神の戒めを学び、それに基づいた生活をすることになっていきました。

第五に、律法学者が生まれ、その指導により、律法を中心とした信仰が育っていきました。エズラ記に登場する祭司エズラは最初の律法学者だと言われています。エズラは祭司の中で書記を務めていましたが、ペルシア帝国の王から「天の神の律法の学者」と呼ばれました。そして、彼一人だけではなく、彼を含む律法学者のグループが律法を纏め、広めていくことにより、旧約聖書と新約聖書との中間時代のユダヤ教を形成するようになっていったのです。その時代のことを「後期ユダヤ教時代」と呼ぶことがあります。

3、バビロン捕囚の終わり

バビロン捕囚が始まってから約70年の時が過ぎ、新バビロニア帝国が滅ぼされ、ペルシア帝国が世界を支配しました。最初の王、キュロスはバビロンに住んでいたユダヤ人たちに、エルサレムに帰り、自分たちの神を礼拝することを許しました。

捕囚の終わりという出来事は、捕われていることからの解放ということです。旧約聖書の中では、捕われていた状態からの解放を、モーセの時代のエジプトからの脱出とバビロン捕囚からの解放の二つが重要な出来事として、位置づけられています。神の民の信仰の土台がそこで作られていったと言ってよいでしょう。

4、新約聖書

バビロン捕囚の終わりを新約聖書は、主イエス・キリストが罪と悲惨からの解放してくださったことの象徴として語ります。ルカ福音書1章68節以下の洗礼者ヨハネの父ザカリアの言葉がそうです。特に68~69節の「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」という言葉です。

ザカリアが言う「救いの角」とは主イエスのことですが、神がバビロンで捕囚となっていた人々を解放したように、私たちすべての人間は罪の奴隷になっており、神の独り子イエス・キリストの強い力によってのみ、罪から解放されると歌っているのです。

4、新しい契約の時代に向かって進む神の計画

マタイ福音書は、主イエス・キリストに向かう系図を示していますが、それは、救い主イエス・キリストにより、新しい契約が与えられる時を指し示してもいるのです。

バビロン捕囚は、神の民イスラエルの背きにより、神の御計画が潰えたかのように思われましたが、神は、その大きな障害にもかかわらず、その障害を乗り越えるように新たに計画を立て、進めていかれました。

私たちは、主イエス・キリストによる新しい契約が与えられ、信仰による神の民とされています。私たちは、神に背いた罪人です。かつて罪を犯しバビロン捕囚にあったイスラエルの民と比べて、何も誇ることのできない私たちです。その私たちが今や神の救いにあずかり、祝福の道を歩んでいるのです。どれほど罪が深かろうとも、なんとしてでも私たちを救うと決意し行動してくださる神を見上げ、感謝しつつ歩んでいきたいと思います。

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