キリスト者の霊性

コリントの信徒への手紙Ⅱ6章3節-10節

 先週で使徒信条をゆるやかに念頭に置きながらの連続説教を終えまして、次週より、ヨハネによる福音書の講解説教を始める予定です。

 

 その谷間に、今日は、第Ⅱコリント書の御言葉を選びました。第Ⅱコリント書は、私たちが最近一年数か月かけて聞き終えたばかりの書で、今日の個所も一度取り上げましたが、実は、その後、牧師たちの説教の研修の中で、この箇所を、じっくりと学ぶことになり、前回とは、違う視点でもう一度、聴くことにいたしました。

 

 説教題の中にもありますけれども、「霊性」という視点から、この聖書箇所にもう一度聞きたいと願ってのことです。

 

 最近、「霊性」という言葉を、巷とでもよく耳にするようになりました。「霊」というと、少し、背筋が寒くなるという人もいるかもしれませんが、少しもおどろおどろしいことではなく、哲学とはまた違った形で、永遠なるもの、究極的なものに、触れたいと願う、人間の深い精神性を指す言葉として最近ではよく使われています。たとえば、霊性は、人間の持つ宗教心と言い換えられることもあります。

 

 しかし、特に最近の文脈では、単に、心の問題というよりは、実際の行動となって現れる宗教的と言えるような深い精神性、その人を突き動かしている、その人の実際の生活を生み出す原動力となっている深い動機、理由、感覚を指して、「霊性」という言葉が、使われているように思います。信じることが、生活に現れているということです。

 

 もしかしたら、今まであまり教会の中では、「霊性」という言葉を私たちは聴いて来なかったかもしれません。しかし、この新しい言葉に戸惑う必要はありません。言葉に慣れなくても、私たちは既に、「キリスト者の霊性」に生きてきたと思います。

 

 なぜならば、私たちは、信仰は頭だけのものではなく、必ず生活に具体化するものだと、信じてきたからです。キリストを信じる者は、キリストに似た者となる。これが、私たちキリスト者の霊性の基本です。

 

 さて、今日お読みしている箇所で、使徒パウロは次のように言います。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」

 

 あらゆる場合、自分の生きるありとあらゆる瞬間、神に仕える者としての内実をパウロは示すと言います。これはまさにパウロが自分の霊性を語る言葉ではないでしょうか?

 

 神に仕える者は、こういう姿になるんだ。キリストを信じる者の生活は、こういうことになるんだ。パウロは、自分を隠しません。キリスト信仰によって形造られる自分の生活を露わに示します。

 

 彼が自分のことを隠さず、示そうとするのはなぜでしょうか?一つには、奉仕の務めが非難されないようにするためとあります。

 この手紙には、パウロの人柄、誠実さを認めてほしいという言葉が続きますが、パウロが本当にしたいことは、「この奉仕の務めが非難されないように」ということでありました。

 

 パウロの生活、パウロの生き方が非難されるならば、彼にその奉仕の務めをくださった神様が非難されていることにもなりかねないのです。パウロはそんなことが起きてはならないと、自分の誠実さをアピールするのです。

 

 もう一つの理由は、「どんな事にも人に罪の機会を与え」ないためとあります。これは、とても牧会者らしい言葉だと思います。パウロの奉仕を非難することは、遣わした神様への非難に繋がってしまうわけですから、知らず知らずの内に、神様を非難するという罪を、コリントの人々が犯さないようにと、牧会者らしい配慮として、自分の結ぶ実を示すのです。

 

 そして、パウロが自分の生き方を示すことによって、奉仕の務めが非難されないように、神さまに対する罪を犯させないようにというのは、突き詰めて言えば、パウロの生き方を見て、キリストの福音が生み出す本当の霊性、本当の生き方を取り戻してほしいということではないかと思います。実際、パウロを非難するコリント教会員の生活が乱れていたことは、良く知られていることです。

 

 「私の生き方を見てほしい。自分の生き方と比べてほしい。あなたがたの生活が崩れているのは、そして、そのことに気付きさえしていないのは、あなたがたの信仰が崩れてきてしまっているからではないか?」

 

 それは決して、見知らぬ新しいルールを追加しようということではないでしょう。パウロの姿を見ながら、キリストへの最初の情熱、最初の愛を思い出してほしいのです。そうして、キリストを信じ、キリストに似た者となっていく、キリスト者の霊性に生きてほしいのです。

 

 けれども、このようにパウロの言葉を思い巡らしながら、私自身には、いよいよ隠れてしまいたいような気持ちが湧いてきます。正しい信仰の言葉と同時に、自分の生き方を示しながら、「福音のことがもう少しわかるようになると、私のように生きられますよ」と言えるのか?パウロが言うように、「あらゆる場合に」とまで言い切ることができるか?と問われれば、問う人から目を逸らしたくなります。

 

 それは、きっと牧師だけではありません。キリスト者の少ない社会の中にあって、親族の中でたった一人キリスト者として生きながら、自分が代表的キリスト者として、周りから見做されてしまうことに、戸惑いを感じるし、言い訳したくなる思いが私たちにはあると思うのです。

 

 しかも、今日の聖書箇所の4節後半のパウロの姿を見ると、いよいよ自分が代表者キリスト者だと言い難くなります。

 

 4節の後半からパウロは自分が忍耐してきた数々の苦難を並べています。その苦難の中にあって、パウロは、忍耐強く、粘り強く、神の奉仕者としての実を示して生きていると語ります。

 

 6節以下、純真、知識、寛容、親切、偽りのない愛、真理の言葉などが、パウロの苦難の生活において実を結んでいると証しします。

 

 彼は自分は左右の手に「義の武器」を持っていると言うことすらできます。戦いの中にある生活です。しかし、押し寄せる試練の中で、自分の生活を恥じないでいられるのです。正しく生きられている。信仰の戦いに、勝ち続けていると言えるのです。

 

 こんなこと、自分は言えるだろうか?あるいは、自分のことは棚に上げて、聖書の言葉だからと、自分を隠して、講壇から、これが本当の信仰者だと語ることが許されるのでしょうか?

 

 しかし、同時に「信じることをそのまま体現するように自分の生活の全てを整えよう、整えてまいりましょう」と、今ここで語ることが本当に福音を語ることになるのか?それは息を詰まらせる律法主義ではないか?という疑問もふつふつと湧いてきます。

 

 パウロに具体化された誠実な神の奉仕者の歩みを思い描きながら、キリスト者の霊性って本当にいったいどういうものなのだろうか?と、考え続けています。

 

 今も考え続けていますが、先日、ある信仰書を読んでいる時に、ばったりと次のような言葉に出会いました。かいつまんで言えば次のようなことです。

 

 私たち人間は、自分が正しいことができないのは、正しいことを知らないからだと考えている節がある。ルールを知っていたって、破るもんじゃないかと、思うかもしれないけれども、本当に心から、これは正しいことだと自分が信じ、確信していることがあれば、その通りに生きるようになるんじゃないかと、私たちはどこかで考えている。大切なものを大切にできないのは、その大切さがまだ骨身に沁みてわかっていないからだけではないか?

 

 だからもしも、神の言葉の正しさが、よーくわかれば、それこそ、自ずと、神の言葉にふさわしい生き方が作られていくのではないか?けれども、聖書は、その正しさを確信している人間が正しさを選べないと語っているのだと言うのです。

 

 厳しい言葉です。信仰と生活の一致を求めて悩む私たちに先回りして、私たちの絶望を深めてしまう言葉ですらあると思います。

 

 確かに私たちは、どこかで思っています。私が立派な信仰者として生きられないのは、まだ聖書の真理がよく分かっていないからだ。もっともっと、聖書の求める人間らしい生き方、また教会の教理がわかるようになれば、言葉も立ち居振る舞いも義と言えるものになれるのではないか?その期待、よくわかります。

 

 しかし、その人は、そうはならないと言うのです。正しいことが骨身に沁みてわかっても、正しく生きられない。これはパウロ自身がよく弁えていたことではないかと。彼は、「わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ローマ7:19以下)と、告白する者です。

 

 つまり、深く信じることと、生き方は一致すると考える現代の霊性論の前提は、聖書の前では、そもそも崩れているのです。

 

 にもかかわらず、このように自分を罪人の頭だと弁えるパウロが、言い方悪いですが、その舌の根も乾かぬ内に、今日の個所で、私はあらゆる場合に、自分の「実を示している」と言います。パウロのこの二つの姿は、どう両立するのか?これは、私たち自身が生きられるようになるためにどうしても知りたいことです。

 そこで、どうしても注目すべきは、自分に与えられている光り輝く義の武器をパウロが数えながら、やがて8節の後半から、おやっと思わせる言葉をパウロが語り始めているところです。

 「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

 

 二つの矛盾するように見える自分の姿を、重ねて語ります。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ…」、このような相反する二つの姿は、新共同訳聖書では「ようで」という言葉で繋がれています。この翻訳だと、最初に語られる情けない姿は、全部、偽りの姿で、後半こそが本当の私だと言っているように読めます。

 

 しかし、たとえば、こう訳す翻訳もあります。「私たちは、人を惑わす者でいて、同時に真実な者であり、人に知られていない者でいて、同時に認められた者であり、死んでいる者でいて、同時に、見よ、生きている者であり…」そして、最後に「何も持たない者でいて、同時にすべてを持っている者である。」(岩波訳)と、訳します。私は、この訳の方が、パウロの言葉の全体にフィットするように思います。

 

 私たちならば、これを隠してしまいたい、自分は福音の後ろに隠れたいと思う自分の貧しさと、私たちが、ついていけない、とてもじゃないけれど、こんな者にはなれないと思う輝きは、パウロにおいて同時に存在していると読むことができるのです。そしてこれこそが、パウロの霊的生活の現実ではないかと私には思えます。

 

 少し後戻りしますが、豊かな自分の賜物をパウロが数えている6節、7節にも、実はもう既に思いがけない賜物が数えられていました。6節に「聖霊」、そして7節に「神の力」とあります。純真、知識、寛容、親切、キリスト者としての戦いを戦い切るために自分に与えられ、備えられている豊かな賜物を数えながら、その中に、突然「聖霊」、「神の力」と語られます。

 

 あらゆる時に、神に仕える自分として、パウロの毎日に実を結んでいると胸を張って言える、純真、知識、寛容、親切です。しかし、そこに、突然、人間の品性に並んで「聖霊」、「神の力」という言葉が飛び込んで来るというのはどういうことか?

 

 それは、身に着いた美しい人間的性質を教会員の前に数えながら、「これは聖霊によるものなんだ。神の力が私において結んでくださった実なんだ」とパウロが語っているということです。

 

 それはパウロ自身の賜物と数えられるパウロの生活、パウロの存在を通して、現実化している聖霊の賜物、神の力です。パウロ抜きではなく、パウロにおいて、その神の力が体を備えたもの、具体的なものになっています。

 

 だから、パウロは自分の身を隠すことはいたしません。確かに、福音そのものと、それを語る伝道者は区別されます。キリストご自身と、キリスト者は違います。

 

 けれども、この死にかかっている人間、罰せられている人間、悲しんでいる人間、物乞いである人間、無一物の人間、神の御前でこそ、死刑囚のような者でしかないその人間が、キリストに捕えられ、ただ神の力によって生かされているのです。

 私が子供のころ、洗面所に、仏教詩人、相田みつをの金言集がかかっていたことがあります。31日分、日めくりのものです。他の30日分は、一つも覚えていませんが、たった一つだけ覚えている言葉があります。「いいことはおかげさま、悪いことは身から出た錆」という言葉です。私は、子ども心に皮肉の言葉として聴いていました。「良いことがあれば、おかげさまと言わなければならないのに、悪いことは身から出た錆だなんて、割に合わない。」そういう諧謔の精神を語る言葉だと理解していました。

 

 ふと先日思い出して、久しぶりに、この言葉をネットで調べてみたら、恥ずかしいことにアイロニーなんかじゃありませんでした。そう思って生きていくように勧める言葉、そう思って生きて行くと、世を渡りやすくなると理解される言葉のようでした。ひねくれた子供よりも、ずっと良い心を持った大人の言葉でした。

 

 30年の時を経て、私は、これは我々キリスト者に関する限りは、処世訓どころか、本当に本当にその通りの真実、私にとっての真実だと思いました。

 

 他の誰でもない、神のまなざしにおいて、身から出た錆によって、死にかかっている者、子どもの頃より捻じ曲がっているこの人間、しかし、見よ、その罪人の死を神は望まれない。この罪人を生かすために、キリストが来られた。十字架にお架かりになった。ご復活され、天の父の元に昇られたキリストは、私たちみなしごとはせず、日毎に神の霊、キリストの霊を送ってくださる。

 そう考えますと、我々キリスト者の霊性というのは、私たちの信仰が、私たちの生活を作るということから、もう一歩踏み込んで、私たちが信じる神が、私たちの生活を作る。聖霊が、この罪人を生きてくださるということではないかと思います。キリストのおかげさまで、生かされる。

 

 そして、その神の出来事は奇跡でありながら、特別なことではなく、当たり前のように起きていることではないかと思います。私たちの日常、私たちの生活、私たち自身は、今も、神がお造りになっているものではないか?だから、教会は「キリストの体」と呼ばれているのではないか?

 

 一人の尊敬すべきキリスト者が、大きな罪を犯すことがあります。たった一つかもしれないけれども、致命的な大きな罪を犯し、周りの者からすれば、化けの皮が剝がれたと思うことがあるかもしれません。いいえ、それほど、大きな失敗でなくても、小さな失敗と失望の連続の中に、隣人を裁き、自分を軽蔑したくなる私たちであるかもしれません。

 

 けれども、もう、そうする必要はありません。代わりに、自分が誘惑に打ち勝つようにこんなにも長い間神が自分のことを助けてくださったということを謙虚に感謝するだけです。自分が誘惑に打ち勝っていたことがすでに自分の身の程をはるかに超えたことだったということを神と自分自身の前で告白するだけです。

 

 悪評を浴びるときも、好評を博するときにも、自分が一角のものになったとか、化けの皮が剥がれたとか、そこに一喜一憂することから自由になり、この身をもって力ある神様を賛美し続けるだけです。この身を晒して神の恵みを証しし続けるだけです。

 

 「見てください、神が私を生かしてくださっているのです。この貧しい者を神は生かすことがお出来になるのです。私たちは、奇跡的に生きているのです。神は、あなたのこと同じように生かされる。」

 

 改革者ルターは、死の二日前にも、こう書き残しました。「我々は物乞いである。それが真実である。」

 

 けれども、この真実の物乞いは、滅びずに、生きたのです。誰よりも、たくましく生きることができたのです。パウロもルターも、この神の物乞い達は、世界を変えてしまったのです。私たちも、このような信仰に生きられる。このような生活に生きられる。いいえ、既に、今ここに、神の力に、聖霊に生かされている。神を愛しえぬ罪人、神を拝みえぬ罪人が、神を礼拝するために今ここに集まっているのです。

 

 今、この時、この瞬間、私たちを招き、私たちの信仰と生活を造り、礼拝者としているのは、渇いている者、飢えている者を無償で豊かに養ってくださる神の力なのです。

 

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