4月13日(日)主日礼拝 詩編22編2節 マルコによる福音書15章33節~41節 松原 望
聖書
詩編22編2節
2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
マルコによる福音書15章33~41節
33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
「 説教 」
序、
1、午前9時
除酵祭の金曜日の午前9時ごろ、エルサレムの城壁の外、地中海に面した町に通じる道があります。その道のそばにあるゴルゴタと呼ばれるところで、主イエスは十字架にかけられました。多くの人がその道を行き来しています。その中には、主イエスをあざけり、ののしる人も多くいました。しかし、飽きてしまったのか、しだいにその声も聞こえなくなります。
行きかう人の中には近くによって、主イエスの罪状書きを読む人もいたでしょう。しかし、関心が薄れ、顔を背けて立ち去っていきます。
2、昼の12時ごろから3時
昼の12時ごろ、あたりが暗くなりました。
満月の日ですから、日食でないことは確かです。強い風が吹いて埃が舞い上がったのではないかと説明した人もいましたが、それも確かではありません。またある人は、尊敬する人がなくなった時、多くの人々の悲しみを表わす文学的表現ではないかと説明しますが、その可能性もあるかもしれませんが、むしろ、私たちの罪を象徴して「全地は暗くなった」と記しているのではないでしょうか。
主イエスは、罪ある私たちに代わって十字架にかかられ、神の怒りを受けてくださいました。また、十字架の上で血を流すことにより、私たちを罪から救ってくださったのです。贖罪ということです。
贖罪については、旧約聖書の中で教えられています。罪を犯した人がその罪を赦されるために、動物を神にささげ、そこで流された動物の血によって、罪が赦されるということです。その動物による贖罪よりはるかに完全な贖罪として、神の独り子が私たちと同じ人間になって、贖罪の犠牲として十字架にかかられたのです。
それを示しているのが、主イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びで、私たちに代わって受けた苦しみと悲しみの叫びなのです。
3、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
これは詩篇22篇2節にある言葉です。
詩篇22篇には、主イエスの受難を預言しているかのような言葉で満ちています。そして、その冒頭に、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉があるのです。
主イエスが十字架にかけられたのは、ユダヤの指導者たちの陰謀でした。また、弟子のイスカリオテのユダが裏切り、役人たちに引き渡したからでした。そして、ローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督ピラトが死刑判決を下し、十字架につけることを命じたからです。そういう人間の悪意によって主イエスは殺されたわけです。しかし、聖書はもっと重要なこととして、主イエスの十字架は神の計画であったと告げています。
神が主イエスを十字架にかける目的は、すべての人々を罪から救うことです。その救いは、人間となられた神の独り子を十字架にかけるほかないとお決めになったのです。それ以外に人は救われないのです。(使徒言行録4:12)
4、十字架は神の怒りを示す
では、なぜ十字架という死刑方法が選ばれたのでしょうか。
第一に、十字架の出来事が、神の怒りであることをはっきり示すためです。
旧約聖書の中に「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」(申命記21:32)という言葉があります。ですから、十字架にかけられるということは、死刑にされた、苦しめられたというだけではなく、何よりも神に見捨てられたことを意味しているのです。それ故に、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。この主イエスの叫びは、神に見捨てられた意味が分からない、ということではありません。むしろ、神に見捨てられたということ、神の怒りを受けていることを強調しているのです。
神の独り子が、父なる神から見捨てられるということがどんなに悲惨なことでしょうか。私たち人間の間でも、子どもが親から見捨てられるということがどんなに辛く、苦しく、悲しい出来事かということがよく言われます。それならば、神の独り子が父なる神から見捨てられることがどんなに悲惨であるかということは、私たちの想像をはるかに越えることです。そのようなことは、あってはならないことです。そのあってはならないことが、この十字架の出来事において起きているということなのです。
しかも、主イエスが父なる神に背いたから見捨てられたというのではありません。むしろ、従順であったからこそ、この出来事が起きているのです。そして、父なる神もそのために、独り子なる神、主イエス・キリストを地上にお遣わしになったということです。
父なる神に見捨てられるという出来事、それは私たちに代わって、御子イエス・キリストが受けて下さった出来事なのです。ですから、本来、神から見捨てられるのは、主イエス・キリストではなく、私たちであるべきなのです。私たち人間こそが、神から見捨てられなければならない存在なのです。
私たちは、神に罪を犯した罪人です。神に背いた人間です。それはすなわち、神に敵対しているということであり、反逆しているということです。それ故、私たちこそ神から呪われ、神の怒りを受けるべきなのです。
5、十字架は神の赦しを示す
しかし、十字架は神の怒りを示しているだけではありません。神の怒りと同時に、神の赦しを示しているのです。それが先ほど触れた贖罪、罪の赦しということです。
主イエスが地上に来られるよりもずっと前に、神は贖罪の犠牲について教えていました。それは、主イエス・キリストによって完全な贖罪、罪の赦しを指し示すため、あらかじめ用意しておられたことでした。極端な言い方をしますと、主イエスによる完全な罪の赦しを実現することを計画して、それをドラマの予告編のようにして、旧約聖書であらかじめ私たちに示してくださっていたのです。
6、キリストは神にいたる門、神にいたる道
主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けたとあります。この垂れ幕は、神殿の中の聖所と至聖所を隔てている幕です。この至聖所には、一年に一回だけ、大祭司だけが入ることが許され、イスラエルのすべての人々のための贖罪の儀式をします。たとえ大祭司といえども、民全体の罪の贖いをするため、年に一度しか奥の至聖所に入る事は許されていませんでした。大祭司も罪人であったからです。
聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が真二つに裂けたことは、主イエスの死によって、私たちの罪の故に閉ざされていた神への道が開かれたことを象徴的に示しています。それは、神が私たちの罪を赦してくださったということです。
キリストは神にいたる門であり(ヨハネ10・9)、神にいたる道(ヨハネ14・6)です。この門は狭く、その道は細く、見出すことは困難ですが、命にいたる唯一の道です。(マタイ7:13~14) 私たちは、自らの力で見出すことも通ることもできませんでしたが、キリストを信じる私たちは、既にその門を通り、神にいたる道を歩み始めているのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)とある通りです。私たちが救われたのは、神の恵みの御業によるのです。
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