2017年8月6日 桶谷忠司牧師 説教
8月の第一主日は私たちが所属している日本基督教団では「平和聖日」と定めて礼拝が持たれます。平和聖日は先の大戦による反省、懺悔の上に定められたものです。言うまでもなく平和を願い、祈り求める日なのです。
戦時下の国の統制により1939年(s14年)宗教団体法が成立しました。2年後の1941年(s16年)に日本基督教団が誕生しました。プロテスタント教会の34教派が国策により1~11部の部制をとられ合同させられました。これはキリスト教を国の監視下におき統制しやすくするための政策でした。教団はそれにより戦争に加担し、礼拝時に宮城、即ち皇居に向かって礼拝し、天皇を讃美し始めたのです。また礼拝時には特高警察の監視下にありました。しかし、それに従わない牧師や信徒は迫害され、投獄されました。憲兵によって「天皇とキリストとはどちらが偉いのか?」という拷問に近い迫害が行われました。戦争末期には日本の国土が各地で空襲を受け焦土と化しました。それは、つい72年前のことなのです。
戦前戦中を生き抜いてきた人々が80歳代以上になり戦争の悲惨さを身をもって語る人が少なくなっています。そのような悲惨な戦争が忘れ去られようとして、また戦争の道へと進んでいるように私は思えるのです。政治家も経済界も宗教家も私たちも戦争とは何か、平和とはいかなるものかを考えてみる必要があるのです。平和聖日礼拝はそのような時に平和について考える良い機会であり、何よりもキリスト者は御言葉、聖書から聞く、恵みの時が与えられているのです。
最初に戦争とは何かについて考えてみたいと思います。戦争は人と人との殺し合いです。戦時下では人権が無視され人が人として扱われませんでした。人が人で無くなるのが戦争です。また戦争は秩序が乱れ超法規的措置が行われ、混乱が生じるのです。先の大戦をみてもそのことが証明されています。日本は聖戦と称して太平洋戦争を起こしました。その結果アジアの人々を多数殺戮しました。日本人が約310万人、アジアの人々が約2000万人死亡したと言われています。悲惨な戦争は世界の各地で今も続いています。戦争は平和を求めている人々が叫び続けても無くなりません。戦争が起こるのは人間の心の奥にある、強い憎しみが生じるからではないでしょうか。
今日与えられたミカ書5:1~5には、イスラエルを治める者、救い主が誕生することが示されています。「彼こそ、まさしく平和である」と書かれています。この彼とは、どのような人物なのでしょうか?預言者ミカが語っている彼とは、メシヤ・救い主のことです。インマヌエル、神我らと共におられる」神が私たちと共にいつもおられる「神の臨在」の預言がミカによって力強く語られているのです。
ミカとは、どのような預言者であったのかは、はっきりしたことはわかりません。ミカ書の冒頭1章1節には「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、モレシェトの人、ミカに臨んだ主の言葉」と書かれてあります。モレシェトはエルサレムから南西に約35kmにある農村でした。預言者イザヤはエルサレムの上流階級の出身だったのに対しミカは貧しい農村の出身でした。ミカが活動したのは、紀元前725年~701年頃と言われています。ミカはサマリアが偶像礼拝の罪で審きを受け滅びること、エルサレムも不義のゆえに神の審判を受けることを預言しました。ミカは著名な預言者ではありません。しかしミカは神の言葉を語る者として用いられたのです。
今日の聖書箇所には、メシヤ・救い主の誕生の預言が書かれています。そして、その救い主が「平和の主」であるとミカは熱く語るのです。エフラタのベツレヘムにイスラエルを治める者、救い主が誕生するのです。ベツレヘムはエルサレムの都から南に約8kmの所にある小さな村でエフラタ地方にありました。その様な小さな小村、小さな氏族からイスラエルを治める者が出るのです。1節の「わたしのために」というのはイスラエルのためではなく、主なる神のためにという意味です。ですから救い主誕生は神の御業、御計画であることが明らかなのです。小さな村、ユダの氏族の中でいと小さき者の中から救い主が誕生します。いと小さき者とは、この世では注目されない、光を浴びることがないことを強調しています。いと小さき者からイスラエルを治める者が出ることは驚くべきことです。
1節最後の「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」というのは、ダビデ王のことを示しています。ダビデ王はベツレヘムに生まれ、旧約時代の人々はダビデの末裔から救い主が生まれることを信じていたのでした。ダビデは偉大な王であり人々から尊敬されていたのです。しかしイスラエルを治める者は、すぐには誕生するわけではありません。2節で「主は彼らを捨ておかれる」と書かれています。イスラエルの民の救いはすぐにはやってこないのです。今は、生みの苦しみの時、であるとミカは語るのです。
北朝鮮が度々ミサイルを発射しています。韓国の大統領ムン・ジェイン氏が7月6日にベルリンで演説して北朝鮮に対話を呼びかけました。38度線の軍事境界線での敵対行為の相互中断等を北に呼びかけました。しかし北は応じず先月の28日に再度ミサイルを日本の排他的経済水域に落下させました。北朝鮮は聞く耳を持たないのでしょうか?軍事力を増強することによって自国を誇示することは、もはや過去の出来事です。しかし北は軍事力増強をエスカレートしています。それに対抗して日米韓は北に圧力を強めてきました。この悪循環とも言える平和からほど遠い状態は、いつまで続くのでしょうか。北朝鮮は日本の隣国であり私たちは心痛むものがあります。
これはミカが語る、産みの苦しみの時なのでしょうか。ミカが2節後半で語っているように「残りの者が帰って来る」外国に捕えられた捕囚の民がイスラエルの祖国に帰って来る時まで待たなければならないのでしょうか。神が定められた時があるのでしょうか。
日本も先の大戦で多くの人々が海外に取り残され、捕えられました。戦争が終結して順次、外地にいた人々は祖国の日本に帰って来ました。人々は祖国に帰れたことを涙して喜びました。そして彼らが戦後復興の原動力となったのです。彼らも捕囚の民だったのです。
捕囚の民がイスラエルに帰って来て、イスラエルを治める者が出るとミカは語ります。彼は立って群れを養う、即ちイスラエルの牧者となるのです。私たちの救い主イエス・キリストは私たちを養う大牧者です。牧師は教会の群れを養う者として立てられています。ですから、たとえアッシリアのような大国が襲いかかろうとも恐れることはありません。イスラエルの民は常に大国に侵略されていました。国土が平和な時はほとんどありませんでした。人々は平和を切に祈っていました。ミカの預言は、そのような中から授かった預言でした。イスラエルを治める者が出る、群れを養う者が現れ平和が訪れるという「平和宣言」なのです。
4節で「彼こそ、まさしく平和である」と書かれています。イスラエルを治める者が平和の主、平和の君であると言っています。平和の主は、この地上の権力者や指導者ではありません。平和の主は、キリスト・救い主・メシヤです。真の平和をもたらすのはキリストであり「キリストの平和」によってイスラエルの民が救われるのです。キリストの平和、キリストによる平和は、救い主の到来によって私たちに、もたらされるのです。
4節では「七人の牧者、八人の君主を立てる」と具体的数字が示されています。そして5節で「彼らが我々を救ってくれる」と書かれているので複数の救い主がいるかのように表現されています。これは主なる神がミカを通して救い主誕生を約束され、その実行者としてイスラエルの民が救われることを言っているのです。七という数字は完全数を表し理想化された解放のイメージを示しています。イスラエルを治める者、群れを養う者は主なる神の御力、御名の力によって与えられるのです。
ミカ書ではイスラエルを治める者は外敵から国を守る者、そして自国を統治する者という考え方が強いのです。新約聖書では「イスラエルを治める者」「群れを養う者」は人々の魂を救う、救い主として捉えられています。イエス・キリストの誕生はベツレヘム、ユダの氏族のいと小さき者、ダビデの末裔から生まれる事の成就でした。イエス・キリストは私たちの隣人となられ、あらゆる病気を癒され、悪霊を追い出されました。主イエス・キリストの誕生は「平和の主」「平和の君」として父なる神によって成された、主の力、主の御名の威厳の何ものでもありません。主イエス・キリストは私たちの救い主であり、真の平和をもたらす救い主です。
朝鮮半島情勢が増々厳しさを増しています。力による平和、武力による平和には真の平和はありません。イエス様が生きられた時代も力による平和、ローマ帝国によってイスラエルの人々は苦しめられていました。しかしイエス様は力による平和を否定されました。武力なき平和を訴えられ実践されたのです。イエス様が人々に裏切られ逮捕された時にイエス様と一緒にいた者が剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかり片方の耳を切り落としました。その時に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とマタイ書26章52節で語られました。「わたしが父にお願いすれば十二軍団以上の天使を今すぐ送って下さるだろう」と言われたのです。イエス様には、この世の軍団は存在しません。天使の軍団がイエス様を守られるのです。力による平和、武力による平和をイエス様は強く否定されました。
力による平和は人々を分断するものです。イエス様はそのことを良く御存知でした。「力による平和」から「キリストの平和」「イエス・キリストによる平和」をイエス様はもたらされました。キリストの平和は真の平和です。魂の平和は私たちがどんな状況においても、喜びの時も悲しみの時も与えられる平和です。そして私たちはキリスト者としてイエス様によって「キリストの平和」が与えられ続けているのです。
「キリストの平和」は恵みと平安が与えられている平和です。人々を和解へと導く平和です。「キリストの平和」を与えられている私たちは平和の使者として、イエス様の弟子として用いられています。力による平和、武力による平和は人々に平和をもたらすことはできないと、私たちが叫び続ける使命が与えられています。イエス・キリストは平和の使者、平和の王として、この地上にやって来られました。しかし何の罪もないのに十字架につけられましたが、三日目に復活されたのです。そして今は神の右に座しておられます。そして、この私たちが住む地上に「キリストの平和」が来ることを祈っておられるのです。私たちはイエス・キリストの御心を受け取って「力による平和」ではなく「キリストの平和」神の国建設実現を目指してこれからの人生を歩み続けるのです。
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