キリストが三度の飯より好むもの

6月12日(日)  ヨハネによる福音書第4章31節~42節

「キリストが三度の飯より好むもの」

 

今日は、ちょっとおかしな説教題を付けました。

 

「キリストが三度の飯より好むもの」としました。

 

植村正久という明治時代の牧師の言葉からヒントを得ました。

 

植村がまだ若い頃、名古屋で伝道をしていた時、次のような口癖のお年寄りに出会ったというのです。

 

「俺は飯よりもイエスが好きだ。」

 

植村という人は、元々、旗本の武士の家系でしたから、ぴしっとしたところがあります。

 

だから、最初この言葉を下品だと感じたようです。

 

我々がお仕えすべき真の主人、君主であるキリストを三度の飯にたとえるなんてと。

 

けれども、しばらく考えてから、これは、素晴らしい言葉だと思うようになったそうです。

 

命を繋ぐ飯よりもイエスが好きだ。主イエスを愛することは、ご飯を食べることよりも、自分には欠かせないことなんだ。

 

こんなに深い信仰の告白はない。

 

私は、最近、週報の裏面にも記していますように、教理、すなわち、信仰の筋道ということを口うるさく言っています。しかし、それによって、もう一つ大事な側面が皆さんの関心から抜けてはならないと思っています。

 

それは、イエスさまが好きだということです。教会とはイエスさまが飯よりも好きだという言葉が分かるなあとしみじみ思える人たちの集まりです。

 

洗礼を受けて、クリスチャンになる時には、まず洗礼準備会というものをします。

 

そこで、今日も告白した使徒信条などを用いて、おおまかに信仰の筋道を学びます。

 

けれども、この人に洗礼を受ける準備は整っているかどうかを判断する、長老会による試問会では、使徒信条のテストなどしません。

 

使徒信条の言葉とその意味を最低でも6割程度、自分で語られるようにならなければ、洗礼を受けるにふさわしくないなどということはありません。

 

教理とか、信仰の筋道に関しては、一言、同意しますということだけで良いのです。

 

代わりに、そこでお尋ねすることは、結局、「イエスさまのことが好きですか?」ということです。

 

難しいことはまだよくわからなくても、「大好きです」と答えることができるならば、それで十分なのです。

 

しかし、だから難しいと思われる方がいらっしゃるかもしれません。

 

「俺は飯よりもイエスが好きだ。」という言葉は、心から湧き上がってくる言葉です。

 

湧き上がってくるものですから、自分の自由になるものではありません。

 

好きになろう好きになろうとしたところで、思いは、コントロールできるものではありません。

 

愛は、おのずから起こるものです。その時を待たなければなりません。

 

けれども、もちろん、愛は何もない所に起こるものではありません。

 

見ることによって起こります。聴くことによって起こります。触れることによって起こります。

 

出会いが愛を呼び起こします。

 

クリスチャンとは、「俺は飯よりもイエスが好きだ。」という、キリストへの愛の情熱に生きる者です。

 

主イエスに触れたのです。その言葉を聴いたのです。その方の姿を、聖書の言葉の中に見たのです。

 

その人と出会ったら、そんな気持ちを感ぜずにはおれない人がいる。そういう愛で愛したくなってしまう人がいる。

 

イエス・キリストという人は、そういう人なんだと、私は思います。

 

公民権運動のキング牧師が、あのフランスの皇帝となったナポレオンの言葉として、こういう言葉を、紹介しています。

 

「アレキサンダー、シーザー、カール大帝(シャルマーニュ)、そして予は、偉大な帝国を建設した。しかし彼らは何に依存したのか。彼らは武力に依存したのだ。しかし、何世紀も前に、イエスは愛の上に建てられた帝国を創設し給うた。そして、今日に至ってもおびただしい数の人々が彼のために死ぬのである。」

 

キング牧師はこの言葉を受けて、次のような趣旨のことを言います。

 

暴力に頼った皇帝たちの帝国は、一時はどんなに現実的なものに見えたとしても、崩壊し、灰塵に帰してしまった。けれども、愛によって造られている主イエスの国は、今なお、堅固なものである。

 

2000年という間、「俺は飯よりもイエスが好きだ」と、この方に生涯を捧げる人々が、歴史を越えて、地域を越えて、人種を越えて、今も生まれ続けていることは、自分が信仰者であってもなくても、驚きですし、印象的なことではないでしょうか?

 

この方には、そういう愛を惹き起こす引力があるのです。

 

私は、今日読んでいる聖書にも、その魅力が溢れていると感じています。

 

今日は先々週の続きの個所から読んで頂きました。

 

真昼間の炎天下の井戸のほとりで主イエスが一人の女と対話をされました。

 

当時の人々にとっては、意外な対話です。

 

なぜならば、この女の人はサマリア人です。ユダヤ人と仲違いしていた民族です。

 

しかも、当時、立派な男性が、町中で女子供に話しかけるのは、みっともないことだという常識がありました。

 

さらに、このサマリアの女は、5人もの男性をとっかえひっかえしている曰くつきの女でした。

 

同族からすら毛嫌いされていた人です。だから、誰もいない炎天下の井戸に水を汲みに来ていたのです。

 

主イエスと出会ったサマリアの女は、二重、三重にも、人に相手にされない条件が重なっていた人物です。

 

けれども、主イエスは、何の隔てもなくこの女と会話をされました。

 

しかも、ただの日常会話ではありません。何千年と聴かれることになる大事な会話をされました。

 

「わたしはあなたに会いに来た。あなたに命を与えに来た。あなたの友達に成りに来た。だから、どうしても、サマリアを通らなければならなかった。ここに来なければならなかった。」

 

主イエス・キリストというお方が、この女にお語りになったのは、女の背景を思い巡らすならば、このように響く言葉です。

 

しかも、サマリアの女にだけ語られている言葉ではありません。福音書記者ヨハネは、私たちにとっても、そのようなお方として、主は、御自分の身を差し出されていらっしゃると、聞かれることを期待しています。

 

イエス・キリストは、この物語を今日耳にしたあなたの所にも訪れていらっしゃる。

 

この物語が読まれる度に、主イエス・キリストが、私たち一人一人の炎天下に、井戸の底のように暗い心の片隅に訪れてくださる。

 

「わたしはあなたを目指して来た。あなたに命を与えに来た。あなたの友に成りたい。」

 

このようなキリストの言葉を最初に聴いたサマリアの女は、水の入った壺をその場において、町へと駆け出して行きました。

 

自分のことを白い目で見て来る人々が暮らす街、決して顔を合わせたくないと思っていた人々のところへ、飛んでいきました。

 

今日の31節以下は、主イエスと出会った女が駆け出して行った後のお話、今度は、食料を調達して戻ってきた弟子たちと主イエスの間で交わされた会話を記録する箇所です。

 

弟子たちが戻ってきたとき、彼らは、主イエスが、サマリアの女と話をされているのを見て、驚いたと、前回の終わりの個所、27節に書いてありました。

 

ユダヤ人の聖書教師が、サマリアの女と話すことなど考えられなかったからです。

 

けれども、驚いた弟子の内の誰も、「何もこの人と話しておられるのですか」と、尋ねませんでした。

 

その光景に驚いたけれども、会話の中身は大したことないと思ったのかもしれません。

 

サマリアの女に話す程度のことは、弟子である自分たちは、十分知っていることであると思ったのかもしれません。

 

わざわざ尋ねるほどの、出来事だとは、思わなかったのです。

 

気に留めるようなことではないので、いそいそと、自分たちが手に入れてきた食料を主イエスに差し出します。

 

ところが、主イエスの方はまだまだその余韻に浸っておられました。

 

だから、弟子たちの差し出すパンを見ながら、このように仰いました。

 

「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」

 

弟子たちをぽかんとさせるお言葉でしたが、「お腹空いてない」っていう意味の言葉ではないかと思います。

 

この言葉を聴いた弟子たちは、33節で、イエスさまは、もう誰かに食べ物をもらったのか?と話してますから。

 

「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。それを今、食べたばかりだ。食事をするような状況じゃないんだ。」

 

何で、お腹空いてないのでしょうか?食事が喉を通らないのでしょうか?

 

主イエスの胸がいっぱいだったからではないでしょうか?

 

主イエスは重ねて仰いました。

 

「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を為し遂げることである。」

 

ここで言われる神の御心とは何かと言えば、それは明らかに、サマリアの女と交わした会話のことです。

 

この出会いを通して、その人が、立ち直ったことです。

 

主イエスは、この一連の出来事を父の御心の実現である、私の食べ物と仰っているのです。

 

主イエスは、サマリアの女の人の身に起きた立ち直りに、胸がいっぱいになって、食事も喉を通らなくなってしまわれた。

 

私はこのような主イエスのお姿を黙想しながら、説教の冒頭でお話ししました植村正久牧師の語った名古屋の老人口癖を思い出したのです。

 

「俺は飯よりもイエスが好きだ」。

 

明治時代のお年寄り、つまり、江戸時代に生きてきた人が、外国から入ってきた信仰、外国から入ってきた新しい神様のことを、飯よりも好きだと言ったのです。

 

考えれば考えるほど、すごいことです。

 

何でそんな愛が生まれるのか?呼び起こされるのか?

 

私は、今日の主イエスのお姿を、そのお言葉を思い巡らせば、よくわかるのではないかと思います。

 

主イエスこそ、このお方の方こそ、三度の飯よりも、私たちを重んじてくださるからです。

 

主イエスが三度の飯よりも重んじる天の父の御心とは、サマリアの女と出会うこと、その女が立ち直ること、この女の身に起きたことが、この私たちの身にも起こることです。

 

私は、この主イエスのお言葉が、サマリアの音が町へ駆け出して行った後の言葉だと思うと、さらに、胸にジーンと来ます。

 

サマリアの女に聴かせた言葉ではありません。

 

余韻の中で思わず主が口に出された言葉です。

 

主イエスが喜びを嚙みしめておられる。

 

我を忘れて、恥を忘れて、町へ飛び出して行ったサマリアの女の喜びに負けず劣らず、主イエスご自身がこの出会いを喜んでおられるのです。

 

これは、私たちのための物語でもあります。

 

私たちと主イエスの出会いの物語でもあります。

 

「わたしはあなたを目指して来た。あなたに命を与えに来た。あなたの友に成りたい。」

 

私たちがこの物語を聴くときには、いつでも、私たちに向かって、今、こう語りかけておられる主イエスの呼び声があるのです。

 

その声を、私たちが、「ああ、これは私に語られている言葉だ。主イエスがこの私を目指して、この私を探しに来られた、深い深い所で、私の友となってくださるのだ、私の味方となってくださったのだ」と受け止める時、主イエスの心の内に、食事も喉を通らない大きな喜びが湧き上がるのです。

 

ヨハネによる福音書が語る、この主イエスの喜びのことを、ルカによる福音書では、次のように語られます。

 

ルカ15:7です。

 

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

この「大きな天の喜び」という言葉、天がどよめくということです。

 

天がどよめくのです。天使たちの歓声が上がり、天が揺れるのです。

 

たった一人の人、たった一人のサマリアの女が、立ち直ること、主イエスの弟子となること、私たちで言えば、たった一人の人が洗礼を受けること、いいえ、たった一人の人が、新しく教会の礼拝に参加し、主イエスの言葉を聴き、心の中でその言葉と対話を始める時、天はどよめくのです。

 

主イエスが三度の飯よりも好まれる出来事が、今、ここに起きているのです。

 

私たち教会は、そのことに無知であってはなりません。

 

この主イエスの喜びに、心を合わせるならば、この教会はこの一年の間にも、どれほど、天のどよめきに与っているか、今日この時もです。

 

主イエスはここに集まって、ご自分の言葉を聴く方々の姿を見て、胸がいっぱいになってしまっておられるのです。

 

35節以下の言葉を丁寧に語る時間は無くなってしまいましたが、どれもよく味わいたいところです。

 

たとえば、35節も、本当に色々、考えさせられる言葉、私たち教会を反省に導く言葉ではないかと思います。

 

「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」

 

私たちは、伝道はなかなか進まないと思っています。主イエスの出来事を受け入れる人は、少ないと思っています。

 

洗礼を受ける準備の整っている人は、全然いないと思っている。

 

けれども、主イエスのまなざしにおいてはそうではありません。

 

もう、色づいている。刈り入れを待っています。

 

それゆえ、私は、申します。

 

まだ聖書のことを十分理解していない。自分には信仰があるとは思えない。

 

しかし、主イエスという方のことを、好ましく思っている。キリスト教のことはよくわからなくても、この説教を聴きながら、イエスというお方が、私のことをこんなにも大事に思ってくださるなら、イエス様のこと、好きだと少しでも感じるならば、もう、天はあなたのことでどよめいているのです。

 

私はこの主イエスの仰る基準に照らして言えば、私たちの目には、既に、どんなに色づいた畑が見えてくるだろうかと思います。

 

しかも、ここまで話し続けてきた言葉が少し綻びてしまうかもしれませんが、言わなければなりません。

 

 

 

今日のところで主が仰る、色づいた畑とは、救いの教えの筋道については詳しくなくても、主イエスのことを好きと言えるかどうかということですら、実はありません。

 

なぜならば、34節です。

 

「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」

 

主イエスがご自分の食べ物とされる父の御心であるその業を成し遂げること、それは、十字架のことであります。

 

ヨハネ20:30に、十字架で息を引き取られる直前に主イエスが語られた最後の言葉が記されています。

 

それは、「成し遂げられた」という言葉です。

 

この2000年前に立った主の十字架が、天の父の御心を成し遂げ、畑は色づいたのです。

 

だから、当然、今から150年前、初めてイエス・キリストの福音がこの国に届いたその瞬間にも、既に、畑は色づいていたのです。

 

それは今も変わりません。イエス・キリストの福音が語られるところでは、どこでも、畑は色づいているのです。

 

だから、38節です。「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」とある通りなのです。

 

教会でも、学校でも、家庭でも、どこでも、イエス・キリストの福音が語られるところではどこでも、刈り入れを待つ色づいた畑を主は見ておられるのです。

 

そこには、キリストの労苦の実りがあるからです。キリストの命が注がれた人間がいるのです。

 

今日、この福音を耳にした者もまた、キリストが、その人のために、十字架にお架かりになった当の人、キリストの命が注ぎ込まれている者、キリストに友と呼ばれているその人なのです。

 

祈ります。

 

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