9月11日 ヨハネによる福音書6章34節~40節
今日は私の信仰の証のようなことから始めさせていただきます。
私が、キリスト信仰へと導かれたのは、イザヤ書43:1の御言葉に出会ったことによると、教会修養会でお話しさせて頂いたことがあります。その時、出会った口語訳聖書の言葉でご紹介しますが、雷が落ちるように私の心を打った言葉は次のような主の言葉です。
「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。』」
私が聖書を読もうと思ったのは、たいへん落ち込んでいたからです。迷っていたからです。そこで何千年と続く人間の知恵の結晶を求めて、聖書を読もうと願いました。生きるコツを求めて、人生の知恵を求めて、読み始めました。キリスト教というくらいですから、人生を渡るためのキリストの教えを乞い求めて、聖書を読み始めました。
信仰を脇に置いておいても、何千年という間、我々人間に愛され、重んじられてきた聖書という宗教書を読み、その教えを実践して生きて行けば、世の荒波の中でも立派に生きて行くことができるのではないかと思ってのことです。
確かに聖書の中には、知恵深い言葉がたくさん含まれています。十戒も、箴言も、その他の戒めや、教訓に旧新約共に、欠けることはありません。トルストイがそうしたように、聖書から聴き取った戒めや教訓を素朴に実践していくことも、可能だし、それはまあ、立派なことだと思います。私が最初に聖書に向き合い、読み始めた時、求めていたことも、多分そういうことだったのです。
ところが、ノンクリスチャンであった私が捕まり、虜になってしまった聖書の言葉は、ぜんぜんそういう教訓めいた、知恵の言葉ではありませんでした。
「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。』」
雷に打たれたような思いになりました。何故かわかりませんが、私に向かって、私のために語られている言葉だと響きました。この言葉、私なりに言い換えるならば、こういう風に魂の底に響きました。
大澤正芳よ、聴いているか!!お前はわたしのものだ。お前の人生はお前のものじゃなく、わたしのものだ。これは、許可は求めていることじゃない。お前の決断を求めることじゃない。お前がどうこうできる問題じゃない。わたしがお前の名を呼び、お前を分捕り、自分のものにした!!これがお前の置かれている今の状況だ。以上!!
本当に、救われました。
信仰的な意味じゃなくて、一般的な言葉遣いの意味で、色々な思い患いから救われました。
この体験は、家にあった聖書を一人で読んでいる内に起きたことで、別に、誰かの話を聴いたからではありません。しかし、その出来事がきっかけとなり、母の所属していた教会にしっかり繋がりました。
そこで信仰の訓練を受けて、私は、その教会の重んじている形での信仰理解を身に着けました。
私が通うようになり、洗礼を受けた教会というのは、同じ日本基督教団に属する教会ですが、ホーリネスと呼ばれる伝統にある教会です。
「信じる者は、救われる。信じる者は救われる。」と、太鼓を叩きながら、熱心に伝道するような教会です。
それは、改革長老派の流れ、カルヴァンの流れを汲む、この金沢元町教会が拠って立つ、信仰の理解とは、違う点があります。
既に、ちょっとだけ、触れました。
「信じる者は救われる」という信仰理解です。
ホーリネス教会とは、イギリスのメソジスト教会の流れから生まれた教会です。メソジストというのは、イギリスのジョン・ウェスレーという人に源を持つ教派です。東京の青山学院大学の渋谷キャンパスに行くと、ウェスレーの銅像が立っています。
「信じる者は救われる」というのは、キリスト教会全体のメッセージじゃないかと、思われる方がいるかもしれませんが、実は、そうでもない。
もちろん、どこの教会でも、「信じること」の大切さを語りますが、「信じる者は救われる」と強調して語るのは、やはり、ウェスレーの流れを汲む教会に多いのではないかと私は思います。
どういう人間が、どういう人が、キリストの救いに与るのか?
福音を聴いて信じる者であると、ウェスレーは強調いたしました。
これはキリスト教会の常識的なメッセージに聞こえる方があるかもしれませんが、実は、メソジスト的、ホーリネス的な救いの筋道の理解です。
私もそういう教会で信仰の訓練を受けましたから、これが、キリスト教会の共通のメッセージだと思っていました。けれども、ずっとちょっとした違和感を覚えていました。簡単に言ってしまうと、「信じる者は救われる」というのは、わたし自身の救いの経験の順序とは、全然違ったんです。ノンクリスチャンであった私は、信じたから救われたんじゃないんです。私が気付く前から、神さまに名前を呼ばれていて、神さまに分捕られていて、私が同意する前から、「あなたはわたしのものだ」と、神さまから一方的に宣言されてしまった。
私の神体験、救いの体験というのは、私がどうこうする前に、私はそういう状況の中に既に置かれている。もう神さまのものと成っちゃっているという事実を、事実として、たいへん遅ればせながら、後から確認したという感覚なのです。
わたしにとって信仰というのは、神さまの一方的な恵みによって救われた事実を追認させて頂くことでしかなかったのです。だから、「信じる者は救われる」という言葉に、何かいつも違和感を覚えていました。
自分が聖書から聴き取って、神さまを信じるようになった神さまの言葉によれば、救いは、信仰に先立つんじゃないか?と、どこかで思い続けていました。
けれども、神学校で学んでいる内も、卒業して伝道者になった後も、「信じる者は救われる」という母教会で培われた信仰の感覚が、この身に沁み込んでいました。
二つの神学校でも、説教の準備の中でも、神さまの恵みのみだという説教や信仰者に出会うこともあり、すごくしっくり来る思いになりながらも、いいや、神さまの恵みも大事だけれども、信仰も決定的に大事、恵みのみだなんて言っているのは、怠慢の罪だと、いつも、心にブレーキをかけていました。
しかし、たいへん遠回りしましたが、もう一度、自分の最初の体験を、受け取り直すきっかけが与えられました。
それは、私たちと同じ連合長老会に属する前任の教会に導かれて、そこに仕える牧師、引退教師、また長老たち、教会員たちと一緒に礼拝生活をする中で、当たり前のようにその信仰に生きている姿に接することによってです。
どういう信仰を当たり前のようにして生きているのか?
それは、「選び」の信仰です。イエス・キリストの救いはどういう者に与えられるのか?どういう人に与えられるのか?
改革派教会は、「信じる者」とは言いません。少なくとも、それが最初の言葉ではないし、救いの条件のように強調されることでもありません。
改革派教会は何と言うか?
天地創造の前から神さまが選んだ者が救われる。しかも、その選び、あらかじめ、良いもの、ふさわしい者、正しく応答する素質のある者を見極めて、神さまが選んだというのではありません。改革派教会は、選ばれる側には全く何の理由もなく、何の条件もなく、完全無条件な神さまの自由な選びであると語ります。
私の救いの経験は、改革派教会の信仰理解が、強調して語っているものと同じだったんだと、連合長老会に属する教会に導かれたことによって、教会生活として実感いたしました。
今日の主の御言葉をよくお聴きください。
37節以下です。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところへ来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」
選びです。救いは私たちの信仰によるものではなく、神の選びによるものです。
このような選びの信仰は、一般に、使徒パウロ、古代教父アウグスティヌス、それから改革者ルター、さらに徹底してカルヴァンとその流れにある人々が強調したことであると言われていますが、実は、ヨハネによる福音書も、繰り返し語ることです。
ヨハネによる福音書はこれまでのところも一貫して、イエスをキリスト、神と告白できるのは、人間業ではなく、神さまの選びによるものだと語っていますが、特に、今後読むことになります第17章の主イエスの大祭司としての祈りと呼ばれる個所では、その6節以下に、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」のために、祈る主イエスの祈りの言葉が記されています。
それでは信仰とは何なのか?
神が主イエスに与えるためにお選びになった者たちに、与えられる賜物です。
今日の主イエスの御言葉においては、信仰が救いの条件ではありません。信仰が恵みを頂く条件ではありません。神が救いへとお選びになった者に、その選びに基づいて、信仰が与えられるのです。
私は、この選びの信仰を教師になってから、改めて学び直し、信仰のコペルニクス的転換を起こしました。ホーリネス、ウェスレー的信仰から、改革派の選び、あるいは予定の信仰をはっきりと自覚するようになりました。
自分の最初の神体験、信仰体験は、そもそもそういうものだった。
「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。」
お前がどうこうすることじゃない。わたしだ。もう既に、お前はわたしのものだ。
実を言えば、教会の歴史の順序からするならば、ウェスレーの後にカルヴァンが出てくるのではなくて、カルヴァンの後にウェスレーが登場するのです。その意味ではウェスレーは後出しじゃんけんのできる立場にあります。
実際、改革派の選び、予定の信仰に問題を感じる部分があったから、ウェスレーは、少し難しい言葉ですが、ウェスレアン・アルミニウス主義という、天地創造前からの選びによる救いではなく、個人個人の心からの信仰の決断による救いを強調したのです。
もちろん、ウェスレーもまた、その典拠となる聖書の言葉に導かれてのことです。好き勝手に言っているのではありません。
その動機も、共感できることです。ウェスレーにとって、選びの信仰、予定の信仰というのは、あまりにも、宿命論のように見えた。運命論のように見えたのです。天地創造の前から選ばれる者、選ばれない者があらかじめ決まっているならば、よく生きようとする努力も、伝道の努力も、何の意味もないと究極考えてしまう、そういうおかしなキリスト者を生み出すことになるのではないか?
そういう消極的な信仰に陥っているのではないか?もっと生き生きとした信仰を回復しようとしたのです。
私は、育った教会は、ホーリネスですが、正直言って、ウェスレーの信仰をしっかり学んでいるわけではないので、良い悪いの判断はできません。
ただ一つ言えることは、金沢元町教会が、私が赴任する1年前にあえて選んだ先祖返りの決断、137年前にこの教会を生み出した改革長老派の信仰に立ち帰る、あるいははっきり自覚するという決断は、メソジストやホーリネスの信仰とは毛色の異なる福音理解に基づいて、教会形成をしていくという決断をしたということなのです。
私もまた、皆さんとは別の所で、同じ決断をして、同じ方向を向く同志として乞われて、この教会の牧師として招かれました。
その同じ志を持ち、主に呼び集められ、今この時代の教会形成を主より託された同志として申します。
選びの信仰は、我々を無気力にしません。我々を情けのない冷酷な信仰者にはしません。
なぜならば、37節で、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と仰る主イエス、また、39節で主イエスが証しされる「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」ということを、その御心とされる天の父は、天地創造の前からお選びになった者たちが、御自分の元に来るのを座して待っている方ではないからです。
主イエスというお方は、ご自分の下に来た者はしっかりと保護するけれども、来ようとしない者、また去って行く者を、あれはそもそも父が私にお与えくださった者ではなかったんだ。選ばれている者ではないからしょうがないねと、諦めるような、そういうお方では全然ないからです。
無条件に救われる者をお選びになる天の父は、放っておけば滅びることしかないどうしようもない罪人達のために、その独り子を世にお遣わしになるほどに愛されたと、この福音書は語ります。
神は、選ばれた者が御自分の元に集まってくるのを座してお待ちになりません。選びとか、予定というものはそういうものではありません。
神は、御子において我々の元へ出向かれます。
信じる者ではなく、信じない者たちの元に出向かれます。「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」そういう者達の所にやって来られ、わたしが命のパンだ、信じろ、信じろと、語られる。
おかしなことです。選ばれた者、父がお与えになった者しか、主を信じ、主から命を頂くことができないならば、なぜ、実際に主イエスと顔と顔とを合わせてお会いしているのに、信じないどうしようもなく、選ばれているとは言えない者たちのところに来られるのか?語られ続けるのか?無駄なことをしているのではないか?
いいえ、わたしは、これこそが選びの神のお姿であると思います。
御自分の開かれる喜びの宴に、招待に応じない者がいるならば、通りに出て行って、見境なく出会ったすべての人をその宴へと駆り立てようとする方、一日の内、何度も何度も広場に出て行って、雇われなかった者、働きのなかった者を搔き集めてきて、御自分の農園に送り、恵もうとされる方。
ヨハネの中だけでなく、いくつもいくつも、そのような主の言葉、主イエスの御姿を思い起こすことができます。
選びの信仰とは、ある者を選び、ある者を選ばない信仰ではありえないのではないかと私は思います。
選びの信仰とは、私たち人間の目には絶対に選ばれているようには見えない者の所に行って、無理やりにあなたはわたしのものだと一方的に関係性を主張し、ゴリ押しで天にねじ込もうとされる神を信じる信仰ではないかと思います。
そして、そのように主イエスのゴリ押しで神のものとして選ばれた者とは、自分のことだと私たちが知るならば、私たちは、誰かに向かって、あなたが選ばれているかいないか私は知らないとは言えません。
「あなたは選ばれているんだ。神のものだ。」としか、語りようがない。主イエスに従い、主イエスと同じように、無理やりねじ込むようにして、隣人を、まだ信仰を告白していない隣人を、それにも関わらず神のものとしてしか見なくなる。
百数十年前、メソジストの宣教師だけではありません。改革派の宣教師が来ました。どこの教派の宣教師よりも、この金沢にいち早く来ました。トマス・ウィン夫妻です。
その人たちが、教会を作り会堂に座して待つだけでなく、学校を作った。そして、あの人にもこの人にも、福音を語ろうとしました。
選びの信仰が伝道に不熱心になるなどということはないのです。
無気力なキリスト者を生み出すことはないのです。自分たちだけが選ばれていることを誇る鼻持ちならない情けのない冷たい信仰者を生み出すことはないのです。
主イエス・キリストの父なる神の選びは、情熱の選びです。追いかけ、分捕り、決して逃さない熱情の選びです。
「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」
これが、私たち人間です。顔と顔とを合わせて、御子と出会っても、決して信じない者です。
けれども、主イエスが私たちを諦めることはありません。この方は、その永遠の決意において、私たち不信仰な者を選び、狙いを定め、降って来られ、その頑なさを必ず打ち砕かれてしまわれます。
そして、私たちは後になって申します。
主よ、この恩知らずをお赦し下さい。あなたは天地の造られる前から、わたしを選び、ずーっとずーっと共にいて、愛し、生かしてくださいました。
仰る通り、わたしはあなたのものです。
福音の言葉というものは、突き詰めて言えば、洗礼を受けたキリスト者に対しても、まだ洗礼を受けていない方に対しても、一つの同じ言葉であります。
それは天地の造られる前から、あなたはわたしのものである。あなたが全力で私から離れても、わたしは全力であなたを追いかける。御子の命を注ぎ出して、あなたを取り戻す。いいや、もう、取り戻した。十字架は立った。だから、恐れるな。何ものも恐れるな。あなたはわたしのものである。
ここにいるすべての者に、神が今、そのようにお語りになっているのです。
祈ります。
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