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もはや外国人でも寄留者でもなく

エフェソの信徒への手紙2:11-22

 

 

 今日共に聞きました聖書の御言葉は、元町教会のホームページにも載せられている「私たちのビジョン」で挙げられた聖書の言葉を含んだものです。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」

 教会とは何であるのか?一つの大切な理解が語られている個所です。ここに集う者は、家族なんだ。それが教会だというのです。そのようなテーマをこの教会は何年も掲げていると聞いています。このような年度ごとに代わっていくテーマではなく、もっと長い期間、一つのテーマを自覚しながら歩む教会は珍しいと感じましたし、好ましいとも感じました。この聖句を教会の土台として置くということは、とても大切なことだと思います。私たち教会にとって決定的な立ち位置を与える言葉だと思います。なぜならば、ここで語られる通りであるならば、私たちが教会について語るとき、いつでも「あの教会は」という三人称ではなく、「あなたたちの教会は」という二人称でもなく、「私たち金沢元町教会は」という一人称で語られるものになるからです。私たちは、教会に向かい合うようにして存在しているのではなくなります。私はそのように自覚する群れがここにあるのだということを、とても心強く思います。このような教会に仕えられることを嬉しく思っています。もはや、自分たちこそが教会であり、神の家族だと信じる群れは、信仰の乳飲み子の段階にはないのです。この私ども金沢元町教会は、そのような教会形成を堀江牧師と共に歩んできた幸いな神の家族です。

 けれども、今この時、この教会は一つの危機を迎えていると言っても良いと思います。教会は神の家族であると語り、その通り、共に幸いな歩みを続けていた群れから、その牧師が去り、新しい牧師がやって来ました。3月に発行された教会報の堀江先生ご夫妻を送る一つ一つの文章を読みながら、堀江先生と皆さんの思い出が溢れ出している言葉を読みながら、本当に家族としての歩みを重ねて来られたのだと感じました。そのような親しい牧者が去り、新しい者がやって来る。また、一から新しい牧師との関係を造り始めなければなりません。どうあっても、15年共に過ごした牧師と同じようには行きません。私の言動に違和感を持ったりすることもあるかもしれません。さらに私との間には、堀江先生との間にはなかったようなジェネレーションギャップを感じるかもしれませんし、もしかしたら、教会での作法も違うかもしれません。つまり、しばらくの間、皆さんは私との間に、私は皆さんとの間に壁を感じることがあるかもしれません。お互い緊張がないとは言えません。けれども、そういった壁が、ある人とはちょっとしたきっかけで直ぐになくなり、またある人とは、数年かけてなくなり、やがては、私と皆さんとの呼吸も合い、この教会に与えられた主なる神さまからの御委託を阿吽の呼吸で果たしていくようになることを信じ、期待しています。

 しかしながら、この時にこそ、エフェソの信徒への手紙の御言葉は、私たちにぴったりの言葉だと思います。2016年度も、2017年度も、牧師の交代によっても、びくともしない私たちのアイデンティティーが語られています。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」ここにいる者たちは皆、そのように呼びかけられています。ここにいること、ここに存在することを、場違いなこと、自分はよそ者だと誰も感じなくて良いのです。もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。そこには壁がありません。私たちが一つの神の家族となることを妨げる壁が一切ないのです。家族になるために積み重ねていくべき時間の壁さえありません。このことは、ただ、そうなんだと受け取れば良い。その事実に気付きさえすれば良いものです。

 最初の予告と異なり、11節にまで遡って読まなければならないと思ったのは、誰も自分がそこから除外されていないことを、徹底的に知って頂くために、必要だと思ったからです。そこで詳しく述べられていることは、以前は、確かに私たちは自分のことを聖なる民、神の家族と考えることは許されなかったということです。事実として、私たちは神の家族ではなかったということです。それはただ、私たち日本に住む者が、かつては聖書を知らず、神を信じることがなかったということではありません。聖書自身が、私たち人間という種族が、神に逆らう者であり、それゆえ、神から追放された者であると語るのです。より正確に言えば、神の言葉を信ぜず、自分の歩みを神にお委ねせず、それによって自分で自分を神の囲いの外に出した存在、それが聖書が神話的に物語る私たち人間の置かれている状態だと言うことができると思います。しかし、私たちが今、聞くことが許されているのは、そのような神との対立の現実ではありません。11節以下に詳しく述べられている言葉は、異邦人と呼ばれる者、だから、ユダヤ人ではない私たちのことです。そこで語られているかつての私たちの状態というものが、簡単には受け入れられない反論の余地がある見方だと感じたとしても、そこにこだわる必要はありません。それは全部、過ぎ去った私たちの姿です。11,12,13,16節で、しつこいばかりに重ねられている同種の表現によれば、私たちはその隔たりを「以前」のこと、「そのころ」のこと、「かつて」のこと、「廃棄」され、「滅ぼされ」た事柄としてのみ聞くのです。異邦人は、今は、選びの民イスラエルと同じように聖なる民、神に近く生きる者、神の家族だと語られているのです。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、これを聞いている者は、それ以外の者と自分のことを考える余地はありません。神の近さから自分たちを隔てる壁は既にないのです。しかも、私たちが今自分の耳で、そのように神の近さの内にいる自分であることを見出すことができているのは、私たちが、意識、無意識に関わらず、何か満たすべき条件を満たしたからというわけではありません。神の近さにあずかり、神の家族となるために、私たちが何かをしたというのではありません。神から遠く離れ、神を知らず、希望なくこの世を生きていた、聖書の洞察による、かつての自分の姿であるということに、余り、実感が湧かないということがよくあるかもしれません。しかし、本当に、私たちにとって身に覚えのない無関係なことは、このもはやなくなった壁、実に知らないうちに廃棄されてしまった隔たりを克服するために、私たちのすべきことは何もなかったということです。完了形で語られた隔ての壁の廃棄は、やはり、完了形で語られたキリストを主語とする、キリストの出来事によって、成し遂げられたものだと言われているのです。

 13,14,15,16,17,18節は、この隔ての壁の克服、廃棄を行ったのは、私たちではなく、ただ一人のお方の御業であることを、絶対に見誤らせないために、この出来事は、「キリスト・イエスにおいて」、「キリストの血によって」、キリストの「御自分の肉において」、「キリストは双方を御自分において」、キリストの「十字架を通して」、キリストの「十字架によって」、「キリストはおいでになり」、「キリストによって」と、徹底的にキリストが成し遂げてくださったことだと語るのです。他の誰でもなく、「キリストは私たちの平和」となってくださるのです。だから、自分がこの語りかけから除外されている、自分には何のことかわからない耳慣れないことだから、部外者だと言う必要はありません。それは私たちとは無関係に起きたことであり、だから、耳慣れないし、身に覚えがないのは当然です。しかし、キリストが私たちのために行ってくださったことであるゆえに、その利益は私たちのものです。他の誰でもなく、この言葉を聞いている私たちが、キリストの血によって、神に近い者となった聖なる者、神の家族と呼ばれています。たとえば、洗礼を受けたキリスト者だけに限定される語り掛けだと留めることさえできないと思います。

 ある聖書学者は、この言葉が、もちろん、教会に向けて、具体的には、ユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者からなる教会に向けて語られているものだと認めつつも、さらに次のように言います。もし、この手紙が「キリストの福音に心を閉ざすイスラエルに語りかけないと言うならば、それはエペソの視線がユダヤ人と異邦人からなる教会にのみ集中しているからにほかならない。キリストの世界的な救済行為は古い神の民をなお卓越した仕方で包」むと。ここで言われていることは「イエス・キリストが全人類を神と和解」させたということです。このような壮大なキリストの御業による和解の出来事は、エフェソの信徒への手紙の全体の文脈にもよく当て嵌まります。代表的な言葉では110で、「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられます。」と語られています。エフェソ書は、宇宙全体に及ぶキリストの支配を語るのです。

 それでは、やがては天地の万物がキリストのもとに一つにまとめられることを神の「秘められた計画」と述べるエフェソの信徒への手紙にとって、なお、特に重んじられ、「キリストの体」と呼ばれる教会とはいったい何なのでしょうか?私たちが読んでいる箇所の直後の31以下によれば、教会は、この主なる神さまの「秘められた計画」を、「すべての人びとに説き明か」すためにあると言えます。それはやがて来るキリストによる万物の和解を先取りする群れです。旧約の選民イスラエルのように、その民を見れば、神の愛が分かる、生ける神の御計画がわかるために地上に掲げられている灯火、それが教会です。その言葉と存在をもって、キリストにおいて成し遂げられた神の和解の出来事を世界に告げるのです。全てのものはやがて、和解する。そのしるしが教会に見える。ユダヤ人と異邦人からなった教会、かつては、決して食事の席を同じにしなかった敵同士が一つの食卓を囲んでいる不思議な共同体、それが教会です。

 しかし、次のことも考えて見る必要があるかもしれません。なぜ、このような和解について、ユダヤ人と異邦人の一致について、語られる必要があったのだろうか?このことを「心に留めてお」かなければならない、改めて思い起こさなければならない、不和が教会内に生じていたからかもしれないとある人は推測します。一致が乱された現実、教会が家族であることを疑わせる一つの危機が生じていたのだと考えられます。だから、ある人は、1922節の言葉は、目に見えている現実を語っているというよりも、当時の讃美歌から引用された言葉であり、「むしろ理想または目標として語る」とさえ言います。けれども、それは、当時の教会の状況を推測するまでもなく、私たちが経験していることだとも言えます。私たちもまた、教会において共に生きる隣人との間に壁を感じてしまうことがあります。やがて来る全世界が頭であるキリストのもとに一つにまとめられるという神の秘密の計画をいち早く知らされ、まさに、その和解のモデルとして世に建てられている私たちキリスト者の間でもお互いの間に壁を感じることがあります。そして、こんなはずじゃなかった。教会もまた、キリストの平和を実現できていないという疑い、失望が生じるかもしれません。しかし、なお一歩進んで考えるならば、そのような疑いや失望は、少々気の早い失望だと言えるかもしれません。

 私は、教会の中にも、時として壁と感じることがお互いの間に見えることも、悪いことばかりではないと思うのです。一つの教会に集っている者の間にも、壁があるという現実は、私たちがそこに入れられている教会の一致というものが、全く人間の団結によるものではないことのしるしでありうると思うのです。ある神学者が、「天国に行ったら、愛する者たちと再会できるのですよね」と問われたとき、「その反対の人ともね」とユーモアたっぷりに答えたように、本当に確かなことですが、主の体である教会ににいる人々は気が合うという理由で集まっているのではありません。確かにこれは、消極的なしるしです。このような消極的に見えるしるしは、キリストが万物の支配者であることが明らかになるまでの、やがては、克服される暫定的なしるしにすぎないかもしれません。天国では、気の合わなかった人とも、上手くやれるようになっていると私は想像いたします。しかし、今この時の、お互いの間になお存在する壁は、この群れの一致は、決してメンバーの一致団結によって成り立っているものではなく、ただキリストによるものだというしるしとなるかもしれません。口の悪い人が、「教会は猛獣の集まりのようだ」と、かつて私に向かって言ったことがあります。私はそれを聞きながら、「ノアの箱舟の中にも、ライオンやトラはいたからしかたないですね」と喉まで出かかりましたが、そう語る人は教会の中の人間関係で傷ついた人を見たことがあり、また自分自身が傷ついたことがあるのだなと感じました。残念なことです。私たちも同じことを経験し、同じことを言いたくなるかもしれない。しかも、さらに残念なことに、たいてい、私たちが、そのように思い、そのように発言してしまう時には、実は私自身がウサギや羊ではありえず、自らも猛獣になってしまっているのだと思います。けれども、思うのです。知らず知らずの内に、誰かを傷つけてしまう鋭い爪と牙をお互いに持っているかもしれない私たちが、同じ一つの神のみ言葉を聞き、キリストの流された血であり、裂かれた体を表す聖餐の食卓に共に就きます。そこで、誰が何と言おうと、私たちがどう思おうと、神は、私たちをキリストの一つ体と見做されます。このことは、私たちの誰もが、この神の群れの中に赦されなければ存在し得ないということを意味しています。それだから、なお、私たちがここにいるということは、事実、赦されているということであり、決して自分の努力では一致できない悲しい者たちを、ただ主イエスが、御自分の一つのからだと呼び、思いを傾けて、一つに結び付けてくださっているしるしだと思うのです。そして、自分たちが、そのようにお互いにキリストの血によって赦され、キリストの憐みと熱意によって、一つの家族とされていることを聞けば聞くほど、私たちは、隣人に対して猛獣であることを、主の憐みによって耐え忍ばれていることに、胡坐をかき続けるわけにはいきません。何度も失敗し、傷つけあってしまうことでしょう。しかし、赦されて存在しているということを大きな安心の中で知った者は、その自分が神の家族とされているという事実を、生活のすべての側面において、具体的に生きたいと思わずにはおれません。その時、使徒と預言者、すなわち週毎の説教が告げるキリストの赦しの土台の上に、家族らしい配慮が、教会中で広まらないわけにはいかないのです。そして、事実、私たちはこの教会で、そのような愛の交わりの経験を積んでいるのです。神のしてくださったことと比べると、小さく不器用なものにすぎないかもしれませんが、キリストが十字架でしてくださったことが、お互いの手足と口を通して、ここで確かな実を結ぶのです。その私たちの手の実は、御言葉と聖餐の食卓の恵みにあずかる者が結ぶ果実として、その実によっても、キリストの生ける臨在を指し示し、やがて、来るべき日における主の教会と主のものである世界が、どんなに素晴らしいものであるか、そこで私たちがどのように生きることになるのか、そして、その和解と平和が本物であることのこの地上における積極的なしるしになっていると思うのです。

 この数週間、私は激動の日々を送ってきましたが、その一つは、父が亡くなったことによります。転任間際の思いもよらないタイミングで父を失うという経験をいたしましたが、私たち夫婦が最初の任地である奈良から、この教会に赴任してくる数か月前に、電話で父が大きな病を得たと聞かされました。5年間をかけて、ゆっくりと別れの準備をしたとも言えます。特に、本人も間近な死を覚悟した今年の1月後半以降は、死を見据えての対話を続けることができました。この人は間もなく死ぬということを、本人も、対話相手もよく承知した上で、しかも、そのことを話題にすることをもタブー視しない会話をひと月以上しました。この終わりを見据えた対話は、本当に家族にとって、宝のような対話であったと思っています。しかも、私たちがそのような対話によって至った結論は、神が全てを御手の内に導いていて下さったということです。終わりから見直すということは、良いものだと思います。私が今日の聖書個所を読んで何よりも強く教えられることは、ここにある教会の群れとは、正にそのような終わりから見られている群れなのだとということです。「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」神はキリストにおいて、私たちを既にそのような者としてしまっておいでです。この言葉の囲いの外に私たちは誰一人いません。エフェソの信徒への手紙に見る神の秘められた計画では、万物までが視野に入っています。そして、この万物のまとまりをも視野に入ったキリストに掛かる事実に生きるからこそ、私たちは恐れずに、隣人との相違を見つめることさえできると思うのです。無理な平和ではなく、見せかけの平和ではなく、キリストのまなざしにおける最後の平和を信じるからこそ、今の不一致をも、ありのまま不一致として置いておくことさえできると思うのです。

 もう時間の限界が見えてきましたが、最後に少しだけ、2122節に触れておきたいと思います。ここには、神の家族として、平和と和解の内に生きることこそ、私たちのまことの住まいであり、それどころか、その私たち自身が、聖なる神の住まいとなっているという一つの建物のイメージが描かれています。しかし、この家は、今までのことからも明らかなように、まだ、完成に至らず、建設途中、しかも、面白いことに、この家は、成長していく家であると描かれています。どうやって成長するのか?ここでは、主イエスが、大工としていらっしゃるのです。カール・バルトという神学者は、ここでとがったり、欠けたり、丸かったり、出っ張っていたり色々な形をした人間という石を、心を傾けて、ぴったりするように積んでいってくださっている主イエスのイメージを描いてくれます。愉快なイメージであると思います。教会には色々な人がいます。けれども、ここが主イエスの現場です。大工の息子である主イエスが、私たちという一つ一つの石を積んでくださるのです。金沢城は、石垣の博物館と呼ばれるほど、多彩な石垣の積み方が見られるようですが、野面(ノヅラ)積みと呼ばれる作り方で積まれた部分があるそうです。これは、自然石を上手に積み上げて作るようです。一番古い工法で戦国時代から安土桃山時代に積まれたものが多いそうです。400年以上残るのです。ほぼカルヴァンの時代です。そう思うと、この一つの教会においても、全ての石が噛み合うように、積み上げて行かれる主イエスの仕事を見ることは、それはそれは面白いことだと私は思うのです。主イエスの仕事は、400年どころではないのです。終末まで耐えるのです。私たちは、主イエスのこの建築の妙技を、この所で、この身をもって見せて頂くのです。主イエスがこの群れの誰一人として、不必要な者とすることなく、一番ぴったりの場所にはめ込んでくださるならば、私たちは、今は、この建物の外に置かれているように見える石たちも、やがては、頭なるキリストの元に、一つの体としてぴったりと組み合わされる日が来ることを信じることができるのだと思います。 

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