へりくだった王様

マタイ2:1-12

 今日共に聞きますのはよく知られた聖書物語のひとつであると思います。先週も少しふれましたページェントと呼ばれるクリスマス降誕劇においても、見どころのある場面のひとつであると思います。星に導かれて東方からやってきた3人の占星術の学者、その捧げものである黄金、乳香、没薬、また、博士たちと、ずるがしこく残酷な王ヘロデとのやり取りは、それぞれに劇的な効果を発揮し、この出来事を陰影に富んだ魅力的な物語にしていると感じられます。
 けれども、この一つの印象深い聖書物語において、いつも、読み飛ばすことができず、これは一体何のことかと思わせる不思議な表現があります。それは、3節の後半の記述です。

「これを聞いて、ヘロデ王は、不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」

 エルサレムの人々も皆、ヘロデ同様に新しい王の誕生の知らせに不安を感じたというのです。ヘロデが、イエス・キリストの誕生を喜ぶことができなかったことは、想像に難くありません。彼はユダヤ人の王様でした。正統の王族の血統と知られたダビデの末裔ではありませんでした。純粋なユダヤ人ですらなく、ひたすら軍事的政治的才能によって、ユダヤ人の王となりました。それだけ、有能な人物であったと言えます。しかし、ユダヤ人にとって、外国人が王様であることは受け入れがたいことでした。だから、絶えず、民衆からその地位を疑われていた王様です。自分の民であるユダヤ人たちに表面では恭しく仕えられていても、裏では、憎まれていました。それゆえ、このヘロデにとって、東方から突然やって来た占星術の学者たちがもたらした、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」という質問は、不 安を抱かせるのに十分な言葉でした。私たちは、その後、このヘロデが、その知らせを聞いた結果、どのような過酷な態度に出るかを知っています。次週、私たちが聞くのは、ヘロデが、新しい王が生まれたと思われる地域一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにするという残虐な行為を働いたということです。
 しかし、ヘロデだけではありませんでした。エルサレムの人々もヘロデ同様に、不安を抱いたと言います。これは読み飛ばすことのできない不思議な記述です。エルサレムの住民、すなわち、ユダヤ人です。国を失い、ローマ帝国に支配され、そして、正統ではない残酷な王様に支配されている人びとです。この人びとにとって新しい王の誕生の知らせは、良い知らせのはずです。けれども、彼らは、皆、ヘロデと同様に、不安を感じました。不思議なことです。彼らが心を騒がせ、不安を感じる理由などは無いように思われます。
 ところが、私たち自身がその場にある者としてリアルに想像してみるならば、案外、この記述は的を射たものであるのではないかとも思います。私たち人間はそれが正しい王さまであろうが、間違った王さまであろうが、実際のところ、今置かれた状況で、何とかバランスを保ち、自分の世界を確保しているその生活を壊されることを決して望まない者ではないでしょうか?ヘロデ王の元でもそれなりに、そこで生きうるための方法と手段を考え、実際に生きるための策を講じてきた人々です。ヘロデ王は間違った王であり、もっと良い王から、もっと良い政治を得られるかもしれません。けれども、正しさが実現するために、その過程で持ち込まれる厄介ごとを、私たち人間は御免こうむりたいと感じるものです。自分達庶民は権力者の争いのはざまにあって、吹けば飛ぶような存在でしかないのだと彼らは嫌というほど知っていたに違いありません。だから、エルサレムの住民も不安を感じるのです。それは、私たちにもよくわかると思います。
 しかし、私は、同時にこう思います。エルサレムの住民の不安は、ヘロデとは異なる不安だと一方では言えるかもしれない。ヘロデは、自分の地位が脅かされることを恐れ、エルサレムの住民は、権力争いに乗じて、否が応でも弱い自分たちにも降りかかってくるその火の粉を恐れている。彼らの不安は、ヘロデが、ベツレヘムに住む2歳以下の男の子を皆殺しにしたことによって、的中することになります。その意味では、ヘロデがこの知らせを聞いて、何をしでかすかわからないということを不安に思ったは無理もない不安だったと言えると思います。
 けれども、その一方で、聖書が、わざわざ、このエルサレムの住民の不安を、新しく別の言葉で名付けることをせず、「エルサレムの人々も皆、同様であった」と言っていることが、どうしても気になります。ヘロデは、私たちには想像もつかないような感情ではなくて、「不安を抱いた」とあります。不安が始まりでした。ヘロデが抱いたのは、私たちも良く知る不安だったということは、よく弁えておく必要があることだと思います。そして、こう思います。ヘロデが感じたものも、エルサレムの住民が感じたものも、聖書がそう語っているように、結局同じ不安ではないかと?ヘロデは、自分の権力を手放したくありませんでした。しかし、それは、規模の違いこそあれ、エルサレムの住民も同じではないか?と思うのです。
 私達庶民の暮らしは決して権力者のように、世界史を動かせるような力を持つことはないとしても、それでもやはり、私たちもまた、この自分の手の届く範囲の物事や事柄を、同じようになるべく自分の自由にできるようにすることを望んではいないでしょうか?決して大それたことではないのです。自分の財産のこと、財産とは言えぬような持ち物のこと、自分の仕事のこと、自分の家族のこと、自分の時間のこと、あるいは、この自分自身の体のことを、私たちはやはり、それが自由であることに喜びを感じるものではないでしょうか?私たちもやはり、自分の一日の計画、これをしよう、あれをしようと決めたことが不意の出来事や訪問者によって乱されることを喜びませんし、また、自分の子どもが思い通りに育っていないことや、言うことを聞いてくれないことに不満を覚えますし、体に不調が生じ、思い通りに手や足や頭が動かせなくなることを不安に感じます。それは結局、自分のものと思うものを、自分の自由にしたいと願い、その自由が他者や別の力によって、脅かされることを不安に思うヘロデの不安と規模の違いはあれ、同じ種類のものだと思うのです。この場合、この自由の脅かしの不安を感じることが正当なことであるかどうかは、その自分のものと思っているものが、本当に自分のものであるかどうか、あるいは脅かそうとする力が偽物の支配者であるかどうかに掛かっていると思います。
 けれども、エルサレムの住民のみならず、ヘロデまでもが、この新しくお生まれになった王様が、神の言葉である聖書に預言された存在であることを認めていたのです。それゆえ、私たちはこの人びとの不安がどれも、その人々の立場に立てば、それぞれに無理もない不安だと思いつつも、正しい不安だと言い切ることはできません。この不安は、どこかで自分のものでないものを自分のものだと思い込んでしまっている罪の匂いが付きまとっていると思うのです。
 しかし、これらの自分の自由が脅かされることに不安を感じる人々と対照的に、このユダヤ人の新しい王の誕生を喜んで迎えた人がいました。東方から来た占星術の学者です。この学者という言葉は、マジシャンという言葉の語源となった言葉です。だから、この人々は、魔術師と言い換えることができる存在です。聖書には、この種類の人間を非常に嫌悪する記述があります。旧約聖書においても新約聖書においても魔術は、主の前にはっきりと罪であると語られています。東方は、当時、その魔術のメッカであると信じられていました。だから、東方から来た占星術の魔術師は、エルサレムの住民からすれば、罪人の代表格であると言って良いでしょう。ところが、新しい王の誕生を喜んだのは、彼らであり、神の民であるエルサレムの住民ではありませんでした。
 しかし、それは、東方の魔術師たちが、そう信じられていたほど、悪いものではなく、魔術もまた、神の御心に適う啓示の手段であったというのではないと思います。やはり、魔術師は、最たる罪人の姿を現していると言わなければならないと思います。なぜならば、私たちは、エルサレムの住民の態度をヘロデ同様に罪と名付けました。その理由は、彼らが正しい王さまによる正しい支配が実現するよりも、自分の自由にできるものを自分のものだと思って確保しようとする姿が不安という形で現れていると考えるからです。
 エルサレムの住民は神の民と呼ばれます。彼らもまた、そのことを誇りに感じていたし、だから、ヘロデのことを偽りの王と蔑んで見ていたに違いありません。自分たちの本当の支配者は、ヘロデではなく、神さまだと思っていたに違いありません。ところが、聖書に預言された真の王様の誕生の知らせにヘロデ同様に不安を感じました。喜ぶべき時に、不安を感じました。それは既に彼らがどこか間違っていたことを表していると思います。自分たちのまことの支配者はヘロデではなく神だと言いながら、しかし、心の深い所では、実は、自分が自分の支配者でありたいと願っていたのです。
 それこそが、聖書の語る罪です。全ては神のものです。私たちのものは何一つありません。この世にある何か一つのこと、しかも、私たちが自分のものだと思い込みがちなもの、時間も、財産も、この体も、自分の自由にできる自分のものだと考えるのは、罪です。私たちの時間も、私たちの体も神のものです。けれども、エルサレムの住民は、そのことを心の深い所で受け入れることができなくなってしまっていた。神の民でありながら、神の支配を喜ぶことができなかったのです。
 けれども、私は、主イエスのご降誕をこの物語の中で唯一喜ぶことのできた、東方の魔術師が、この点、ヘロデや、エルサレムの住民よりも、ましな人間であったと思うことはできません。かえって、魔術師こそ、その存在そのものにおいて、あらゆる王さまの支配から自由になり、自分で自分の主人となろうとする私たち人間の神から遠く離れた罪の姿を現しているように思えてなりません。彼らの生業である星占いとは、人間が神を神とせず、運命をも出し抜き、自分で自分の人生を支配しようとする性質の象徴そのものであると見えます。そして、その姿は、神を全く必要としないゆえに、罪だと思うのです。
 ところが、異邦人として真の神から遠く離れていて、神の支配を必要とせず、それ故に、罪人の代表格であるこの東方の魔術師たちを導いた星は、彼らをイエス・キリストのもとへと導いていきました。その王は幼子であり、宮殿ではなく、長きにわたる外国の支配によりいちばん小さいものとなり切ってしまっていたベツレヘムという町に生まれました。そこには、この新しい王をお入れする宮殿も、立派な邸宅もありませんでした。マタイによる福音書は、ルカとは違い、それが家畜小屋であり、飼い葉桶であったとは語りません。
 しかし、マタイが言いたいことも変わりがありません。新しい王は、東方の魔術師たちが考え最初にヘロデの宮殿を訪れたように、王宮にはいなかったのです。その方は、全く予想外の場におられ、預言者を通して語られた神の言葉の助けなしには、その場所を見出すことはできなかったのです。それはつまり、もしも、神の言葉と、星の光が、その家まで導いていかなければ通り過ぎてしまう粗末な場所だったということです。
 みずき牧師が、三日前に教会の前からタクシーに乗り込み、出かける時、そのタクシーの運転手さんが、教会堂の入り口に掲示されている説教題を見てこう尋ねてきたそうです。「へりくだった王様って何ですか?」みずき牧師は、私にこういう風に続けて言いました。「きっと現代の人たちにとって、王さまという言葉は、意外過ぎて、目を引く言葉なんだね」と。確かにそうかもしれません。けれども、同時に思います。いつの時代も、王さまはほとんどすべての人にとって縁遠いものではないか?と。王様は、手の届かない王宮にいるものではないか?と。ところが、聖書の語るこの真の王様は、へりくだった王様です。へりくだった王様は、私たちがお会いできる王様だということです。
 しかし、キリストがおられた所は、それは本当に誰でも入ることができる場所でした。魔術師たちが、キリストにお会いした経験とは結局、この教会に来て、たとえば、うちの子を見ることができるということと何一つ変わらない日常の場での経験だったのです。それは、彼らが自分たちの国から旅立った時は予想だにしなかったことでしょうが、魔術師たちは、粗末な家の貧しい大工の夫婦のもとに生まれた幼子を、真の王として示され、そのことを信じ、このお方にひれ伏し、宝をささげました。
 彼らの宝物をささげたのです。彼らが捧げたその捧げものは、宝箱に入っていたと普通、私たちは考えています。11節に、「宝の箱を開けて」とありますから、ページェントでも、宝箱が用意されます。それを聞くと遠い国から、わざわざ用意して持ってきた贈り物なのだと想像できます。ところが、ある人は、ここで使われている言葉は、リュックサックと訳しても良いのではないかと提案します。彼らの財産が入っている袋です。つまり、これは最初から捧げるために用意されたものではなかったのかもしれません。三つの宝物が何を意味するか、色々な解釈の伝統があるが、一つの新鮮な意見に依れば、それは魔術師たちの商売道具、占いや魔術の道具ではなかったかと言われることがあります。私はこの解釈にとても惹かれます。
 彼らは星に導かれてユダヤ人の王を発見しましたが、それは幼子でありました。王宮ではなく、家畜小屋に、軍隊ではなく、大工の夫婦に守られた王でありました。それが一体何を意味するか?神の言葉が語られたわけではありません。けれども、彼らは幼子イエスキリストにお会いして、そこで神の言葉をはっきりと聞き取ったに違いありません。神の言葉そのものと呼ばれるお方の存在そのものが、語ったのです。すると、彼らは自分の商売道具を捧げてしまったのです。星占いに頼る者、すなわち、徹底的に自分たちを導く王など必要でなく、自分の運命は自分で守るという自立した人間が、それだけに、やがては、キリストを十字架につけてしまうことになる時の権力者やエルサレムの住民と少しも変わらない、日々不安に取りつかれている罪の人間が、自分で自分を守るための占いの道具を手放してしまったのです。それはひたすらこういうことだと思います。星占いや魔術よりも、真の王をこのような幼子としてお遣わしになった神様を信じたということ、その神さまの柔和に、神様の人間への配慮に自分を任せてしまったのだということだと思います。
 けれども、それは、彼らが立派な信仰者であるからでは決してないことは、もやは言うまでもないことです。へりくだった王であるキリストの存在が神の言葉そのものが、この魔術師たちに、そうさせたのです。
 私たちも同じです。私たちキリスト者もやはり同じように捧げてしまったのです。
何度も幻想を抱き、自分の持ったいるものと思い込んでいる、時間や財産や家族や健康が失われるとき、不安になり、恐ることがあるかもしれまさん。けれども、私たちは既に捧げてしまっています。献金の時の祈りでこう祈られます。この宝は私たちの献身のしるしですと。すなわち、私たちの全てが神に捧げてしまったものだと、日曜日ごとに告白し、思い出しているのです。私たちは実にこの幼子にお会いした魔術師たちと同じほどな、それ以上に、へりくだった王様の恵みを知っています。
 このお方は、そしてこのお方を世界に、私たちの生きる肉の世界に幼子としてお遣わしになった神は、また、この真の王のへりくだりが、十字架まで進んだこと、すなわち、陰府にまで、地獄にまで徹底さらたことを知っているからです。それは全てこの方が私たちの人生を王として治められる手段であり、その王の統治はひたすら、私たちの利益を求める統治、徹底的な恵みの支配なのです。
 この幼子として生まれ、十字架に死なれた方が、真の王であると神によって、示されたならば、もはやこれ以上、自分が暴虐な王や残酷な支配者に支配されているわけではないことがはっきりとわかりますし、そのような残酷な運命から自分を守ろうと必死になって、自分の自由にできるものを確保しようとすることも必要ありません。このへりくだった王が、そして神がいつも私たちの方を向いていてくださるのであり、命を投げ出してまで、最善を尽くしてくださることをはっきりと知るからです。それだけに、その方の支配は、私たちにとって、どんなに慕わしく麗しいものであるか。その方の支配は、不安を覚える必要のない、どんなに柔和な支配であるか。私たちもやはり、その方の姿を示されるたびに、喜びにあふれざるを得ないのだと思います。

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