マタイによる福音書10:34~39
私がこの教会に赴任してから、既に朝晩共に4回づつ祈祷会に参加しました。いつも自制しようと思っているのですが、ついつい私が発言し過ぎてしまいます。これでは、参加者の口を時間的にも気持ち的にも封じてしまうという反省を持っています。それこそ、元町教会の歩調に私自身の歩調を合わせるための、練習期間をなお要する所です。
けれども、やはり、そこでたくさんの恵みを受けていて、それは、それこそ、参加者一人一人の黙想を聞きながら、自分の黙想がどんどん深められていき、この神様が下さる恵みの御言葉を語りたいという思いが溢れてくるそういう経験をしています。だからこそ、祈祷会の場でも喋りたくなってしまうわけですが、牧師は、日曜日毎に、御言葉を公に語る機会があるので、自制しなくては、改めて思っています。
今日共に聞きます聖書の言葉は、そんな祈祷会で皆で聞きました聖書個所の一つです。私が、昨年の秋に元町教会を初めて訪れて、朝の祈祷会に出席し、そこで、皆で読み、語り合った聖書の言葉です。そこで取り上げた聖書個所は実際にはもう少し長い個所ですが、私が参加した日は、同じ個所で三回目の話し合いとなる日で、特に集中して分かち合われたのが、今日共に聞きました箇所でした。そこに参加して、私が得た感想は、心が燃えて来て、ぜひ、この箇所を説教したいという思いが与えられたということでした。
ここは、たいへん難しい御言葉であると言えます。主イエスが、「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と仰るところ、また、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」とはっきりと仰るところです。主イエスの弟子になると、自分の家族が自分の敵となる。そしてまた、自分の十字架を担わなければならない。争いと、厳しい戒めの言葉であり、教会というよりも、軍隊のため、良い知らせというよりも、悪い知らせの言葉のようです。
私たちは、この二つの言葉は二つともに、あまり、主イエスらしい言葉とは思えないかもしれません。私たちは主イエスが私たちとこの世界にもたらしてくれるものは、神と人間との間の平和、そしてそれに基づく人間同士の平和であると信じていますし、また、主イエスは、私たちの重荷を取り去ってくださる方だと信じています。今日聞きました御言葉は、それとは正反対のことを言っているように聞こえます。
だから、これは聖書の中でもわかりにくい言葉、受け入れにくい言葉の一つであると思います。その言葉を巡って果たしてどのような分かち合いがなされるのか、とても興味のあることでした。そして、実際に祈祷会に参加して、何度もこのことをお話しする機会がありますが、とにかく私はこの元町教会の祈祷会のあり方に強い衝撃を受けました。
堀江先生はほとんど喋らずに、参加者からどんどん発言がなされ、この難しいと見える御言葉の理解が進んでいきました。そして、皆が納得するような着地点というか、その日の結論のようなことも、牧師の発言ではなくて、幾人かの参加者の言葉から開けていきました。元町教会は、このような牧師一人が一方的に語るのではなくて、御言葉を読み、皆でその御言葉について思い巡らせながら、発言していくスタイルを、「御言葉の分かち合い」と呼んでいると思いますが、私の慣れている言い方で言えば、「共同の黙想」です。
私自身、このような共同黙想による祈祷会の持ち方は、全く初めてというわけではありません。けれども、その共同の黙想が本当にうまく機能しているというのは、珍しいことであると思います。まさに聖霊が働いておられるのだと思いました。Ⅰヨハネ2:27にこうあります。「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。」 この油とは、神の霊のこと、聖霊のことです。そして、聖書の別の個所では、聖霊のある所には、自由があると言います。キリストの者とされている者たちの自由な語りあいの中で、聖書の言葉が生ける神の言葉として迫ってくる、これは聖書の約束です。それを目の当たりにした思いがしました。
特に、初めて参加した祈祷会では、参加者の言葉が重ねられる中でこそ、生まれてきたその意味で、皆の言葉とも言える二つの言葉に目が開かれる思いがしました。二つの言葉、それは、今日の聖書個所で主イエスが語られた二つのことへの応答の言葉であると思いました。
第1に、「わたしは、平和ではなく、剣をもたらすために来た。…こうして、自分の家族の者が敵になる」という言葉への応答です。私のメモでは、ある人がこういう趣旨のことを言いました。「自分は色々なことが気がかりで、家族のことも気になって気になって仕方がなくて、それが家族にうるさがられていた。けれども、堀江先生に、『家族のことではなく、神さまのことを心に留めたらどうですか?』と言われて、教会での御言葉の奉仕を与えられた。すると、ちょうど良くなった。主イエスのために自分の命、家族を失うということは、そういうことだと思う。」そう仰った。
第2に、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」という御言葉を思いめぐらせている時に、与えられたある方の応答の言葉です。私のメモでは、こういう言葉として書き留められています。「十字架というと、自分のものよりも、イエス様の十字架を思う。それによって今の自分があることを思うと胸がいっぱいになる。だから何があっても大丈夫。イエス様に着いて行けば良いだけ。あっちこっちに行くけど、『あなたに従って行きます。あなたが解決してください。』と思うだけ。自分の十字架だってあまり思わない。」そう仰いました。
今日の御言葉の解き明かしに関して言えば、この二つの言葉で、それをじっくり味わえば、もう十分だと私は思っています。素晴らしい黙想だと思います。御言葉が立ち上がって私たちに向かってくるような思いがいたします。聖書の言葉は、神の御言葉だというよりも、神の御言葉になるという神学の表現がありますが、まさに、今を生ける神の御言葉として迫ってくる思いがいたしました。
聖書の言葉通りに、何の割引もなく、自分の命も、自分の家族も、いったん、自分の手から離さなければならない。捨てなければなりません。それらのものを主イエス以上に愛することは許されないのです。けれども、それは、実は、主イエスの為であると同時に、それ以上に、自分の為であり、家族のためであることに気付かされるのです。誰か人間の努力や、我慢、執着する力によって保たれる平和は、いづれ終わりが来るのです。それは、かつてパックスロマーナと呼ばれた強大な軍事力を背景に保たれたローマ帝国の見せかけの平和と同じような平和に過ぎないと思います。
東京都三鷹の国際基督教大学の教授を長くされた岡野昌雄という方が、一般向けの新書で、『イエスはなぜわがままなのか』という面白いタイトルの本を出していますが、そこで、この「平和ではなく、剣をもたらすために来た」という言葉を取り上げてこういう風に仰っています。「たいていの場合、家族は自分にとってもっとも身近な、もっとも愛すべき存在でしょう。しかしまた、だからこそ、時に家族を自分とは別の一個人として尊重できなくなるということもあるのではないでしょうか。親子の例でいえば、親にはどうしても、子どもを自分の所有物であるかのように扱い、私物化してしまう傾向があるようです。もっとも身近な存在であるからこそ、その人を別の人格として尊重できなくなってしまうこともあるのです。/こういった人間の傾向を考えると、イエスが平和の本質を問い直せと勧める時に、その問い直しをもっとも身近な家族から始めなければならないというのも理解できるように思えます。」そして、続けて言います。「キリスト教では、神はすべてのいのちのつくり手であると考え、その意味で神を『創造主』と呼んだりします。私たちは生物学的には母親から生まれたけれども、命をつくったの母親ではない。それは神だ、という風に考えるわけです。…その神の存在を忘れ、人間同士の横のつながりだけに目を向けていると、それぞれの命がすべて神から与えられた尊重すべき個だ、ということがわからなくなってしまう。それではいけない。いったんその関係を壊して、生命の根源・神のほうに目を向け、神と個人との縦の関係を意識しなさい、ということが、ここでイエスが言わんとしたことではないでしょうか。」
少し長く引用しましたが、私たちの祈祷会が、到達した一つの言葉と同じ言葉が聞こえてきます。それはやはり良き知らせです。38節の御言葉も同じです。私たちの負うべき「自分の十字架」は、色々な解釈の仕方があります。すぐには、今自分に与えられている苦しみを「自分の十字架」と取る読み方もあります。けれども、もう少し、深く読むと、主イエスに従うキリスト者ならではの殉教までも示唆された迫害のことを私たちの負うべき自分の十字架と言っているのではないかということにも気付かされます。しかし、その私たちのものではなく、主イエスの十字架ということに力点を置くと、その主イエスの十字架は、実に、私たちの負うべき全ての苦しみのことではないかということに深められていくのです。
主イエスの担った重荷である十字架に集中するならば、それがどういうものであるか考えれば考えるほど、そこには、私たちの重荷が全部載せられているそういう十字架であったことに気付かされるのです。旧約イザヤ書第53章4節を含む苦難のしもべの歌と呼ばれる言葉には、主イエスの十字架が何であるかを暗示しているこういう言葉が記されています。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…」
祈祷会で、ある方の口から語られた、「十字架というと、自分のものよりも、イエス様の十字架を思う。それによって今の自分があることを思うと胸がいっぱいになる。だから何があっても大丈夫。イエス様に着いて行けば良いだけ。あっちこっちに行くけど、『あなたに従って行きます。あなたが解決してください。』と思うだけ。自分の十字架だってあまり思わない。」という言葉。
この祈祷会で語られた言葉には、まさに、キリストの十字架と私たちの負うべき十字架が、一つに溶け合っている姿が現れていると思います。一人一人が抱える苦しみはそれぞれ違った形で、だれも変わって担ってくれることはありませんが、しかし、主イエスだけは、この私の罪の重荷を背負い、十字架につかれたお方です。今は、私たちそれぞれが担うべき十字架は、その方が担われた、その方が担われたゆえに、私たちにとって負いやすい荷となった、たった一つの十字架になっているのです。これも福音、良き知らせです。
すると、この二つの躓きの多い主イエスの言葉は、まったくお一人の方の変らぬ福音、良き知らせの言葉であることに気付かされるのではないでしょうか?この躓きの多い二つの御言葉は実は、私たちがまさに福音の言葉の神髄としてよく引用する主イエスのお言葉、同じマタイによる福音書の11:28以下のお言葉と同じ種類のお言葉であると思います。それはこういうお言葉です。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
多くの人が愛する主イエスのお言葉です。慰め深いお言葉です。けれども、それだけに、もしかしたら、慣れきってしまって、わかり切った御言葉だと思ってしまうかもしれないお言葉です。けれども、もしも、今日読んだ聖書個所と合わせて読むならば、そして、それが今日私たちが読んだ通りの経過を辿るならば、私はこの分かり切った御言葉にも新しく出会い直すようなそんな気がいたします。
主イエスの元に下してよい重荷。主イエスがわたしの元に持ってきなさいと仰ってくださる重荷、それは、私たちが人間が絶対に下してはいけないと思い込んでいる重荷であるかもしれません。家族のこと、仕事のこと、自分の生活のこと、これは自分の責任だと思っていること、それをわたしの元に下しなさいと仰ってくださっているのだと思うのです。それを離しなさい、捨てなさいという強い言葉で仰るのです。そしてまた、主イエスが私たちに自分の十字架を背負いなさいとお命じになる時、その十字架とは、主イエスが100パーセント担い通してくださったゆえに、今や軽やかなものとなった、重荷のこと、主イエスが十字架で決着をつけてくださったゆえに、負いやすく軽いものとなった軛、十字架なのだと思います。
私は、この元町教会の言葉を講壇で語りたいという思いが与えられました。最初の説教でしようか、いつにしようかと思いつつ、今日という時を定めました。だから、今日はいつも以上に、教会の仲間と共に、ここに立っているつもりで語っています。そして、そのような仲間の黙想から与えられた言葉で説教するということは、本当に、教会らしい行為であると深い思いが与えられています。
元来、パウロの手紙が、パウロ個人の手紙などではなく、シルワノやテモテという仲間、並びに一緒にいる兄弟姉妹一同からの手紙であったように、私たちの教会の説教もまた、牧師個人の言葉ではなくて、教会共同体の言葉であるということが鮮やかに表れることだと思っています。説教は、一人の言葉ではなくて、複数の人の声が入り混じったものであるはずです。
今年の三月まで、15年間にわたり、この教会を牧会された堀江先生のブログが、今も教会のホームページから読むことができます。今もどんどん新しいものが更新されていきますが、4月28日の記事で、とても心に留まる言葉がありました。堀江先生は、創世記第12章の祝福の源になると言うアブラハムへの約束の言葉を思い巡らせながら、最近出版されたルターの評伝を読みつつ、こういうことを書いていらっしゃいました。
「ルターの改革が『聖書を一人一人で読むことから始まって、みんなと一緒に読み、読んだことをみんなと分かち合っていく運動である』とするなら、私自身このことを実践してきたので、これが一つの模範となり、聖書を読む運動が広がっていくなら、私もまた祝福の基となるのではないか、あるいは、そのように聖書を読んでいる金沢元町教会は祝福の源になのではないか、そんなことを思わされてうれしくなったのです。」特にここでは、ルターの万人祭司という考えが、意識されている箇所だと思います。
ルターの言った万人祭司、全信徒祭司性は、宗教改革500年の宿題と言われることがあります。他の改革原理は、実を結んでいるけれど、これだけは、消化不良のまま。万人祭司というのは、牧師一人ではなく、キリスト者の誰もが聖書を読んで、キリストが下さる罪の赦しを互いに与えあえる、神の下さる慰めを互いに伝え合えることという風に、言い換えて良いかもしれません。その神の下さる赦しと、慰め、励ましを分かちあい、伝え合うには、何と言っても、聖書を自分で読むということが土台となります。ルターが、ただラテン語として司祭や修道士によってのみ、読まれてきた聖書を母国語に訳したのは、このためです。 一人一人のキリスト者が聖書を読み、生ける神の言葉に捕らえられ、祭司として立つためです。それを言い換えるならば、まさに一人一人が、祝福の源となるためです。
この中に洗礼を受けていらっしゃらない方がおられるなら、そのことに今日は特に心を留めて頂きたいと思います。今日語ったことも、ここにいる一人一人のキリスト者が信じていることであり、また、それを私が代表して語ることです。それは、わたしたちが、自分だけのために信じている事柄ではなく、隣に座る仲間のために、共に生きる人々のために、信じていることでもあります。
ここにいるキリスト者たちは、元町教会の礼拝に出席してくれた人々に対して、今日こういう風に信じているし、皆がこういう風に、語りたいと心の内で願っています。「今、それぞれの生活に与えられている自分が頑張らなければ切れてしまうと思っている関係、駄目になってしまうと思っている重荷、それは家族関係であるかもしれないし、この自分自身であるかもしれない。けれども、それは命のつくり主である主イエスの父なる神様にお返しすれば良い。自分で全部負おうと思わなくて良い。そして、その命を、その関係をもう一度新しく与えて頂きます。自分の十字架として、しかし、それは、主イエスが既に担ってくださり、担い通してくださった主イエスの担われた十字架として、だから、手応えのある恵みの命として受けとることが許されています。それが、新しいあなたの人生です。私たちの道です。」
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