しるしとしての奇跡

4月10日  ヨハネによる福音書 2章1節~12節

教会に何年も通っていれば、皆さんそれぞれに、忘れることのできない説教というものがあると思います。

 

一つと言わず、二つ、三つ、御言葉経験、御言葉体験とも言うべき、しっかりと心に刻まれてしまったような説教というものがあると思いますが、私の中でもそんな説教がいくつかあります。

 

その内でも、強烈に覚えていて、決して忘れることのできない説教があります。

それは、かつて金沢長町教会の牧師であった平野克己牧師の語られた説教です。平野牧師が、東京の代田教会で語られた説教、私の神学校の同級生の結婚式で語られたものです。

 

不思議なことに、自分の結婚式の時には、何が語られたか全く覚えていませんが、同級生のために語られたその説教は、ずっと覚えています。

 

それは、今日の聖書箇所、ヨハネによる福音書2:1‐12、主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行われたカナの婚礼の物語を取り上げたものでした。

 

その概要をお話すれば、ほとんど今日の聖書箇所から語るべき中心的な事柄は聞いたことになるのではないかと思っています。 

 

平野牧師は、この箇所から、若い二人と、そこに集まった列席者に向けて、だいたいこんなことを語りました。 

 

人間の用意した葡萄酒は、やがてなくなる。しかし、その葡萄酒が尽きた時、主イエスが何の変哲もない水から、今まで誰も飲んだことのないような馥郁たる葡萄酒を造り出され、振る舞われ、祝いは続いていく。

 

この葡萄酒は、これから夫婦になる二人の愛のことでもある。あなたたちの人間的な愛が尽きるその所でこそ、キリストが造り出される愛によって結婚生活は続けられていく。そこから本当の愛の関係が始まる。

 

平野牧師の言葉遣いとは全然違うと思いますが、私が受け取ったのは、このようなメッセージでした。

 

私もまた、初めて司式した友人の結婚式で、また、前任地での、若い求道者のための結婚式で、この箇所から同じように語ってきました。

 

結婚式に臨んでいる二人には、あまり、ピンと来ない説教かもしれません。既に、その結婚の時点で、このことがピンと来てしまっていたら、それは少々、最初から問題含みの結婚生活の始まりであったと言わなければならないかもしれません。

 

全くリアリティーがないくらいが、ちょうど良いかもしれません。

 

けれども、牧師として、そんなことを意図しているわけではありませんが、いつも、既婚の列席者からの反応は頗る良いものがあります。

 

新しい夫婦の職場の先輩が、「心に沁みた」と言って、ビールを注ぎに来てくださったり、新郎の大おじさんが、「あの若い牧師が分かっている」と親族席で語っていたと、後から報告を受けたりしました。

 

これは私が一から作った説教ではなく、ほとんど平野牧師の受け売りなので、あんまり褒めてもらうと、申し訳ない気持ちになります。

 

けれども、深く自分の心に響き、届いた福音の言葉を、自分がまず人から受け取ったように、自分を通して、次の人に受け渡すことができたということは、福音の伝達のあるべき姿そのものであるかなとも思います。

 

違う環境で育ってきた、他人が、あえて約束して夫婦になる。家族を築いていくのが、結婚です。自分の生涯の生活を自分一人の自由に決断できるところから、あえて自由にならない他者に、口出しする権利をお互いに与え合うような関係が婚姻関係であると思います。自分の自由を制限して、自分に対する権利をお互いに与え合うのです。これは、ものすごい愛の関係です。

 

しかし、そのような人間と人間の間の最高の愛の関係においてさえ、その愛はやがて、尽きるのです。

 

けれども、その人間の最上の愛が尽きたところで、キリストの愛が、人と人とを繋ぎ、生かすのです。

 

しかも、これまでなかったような素晴らしい関係、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(10節)と、周りの者が驚いてしまうような、この世にはない、奇跡的な関係が始まるのです。

 

ちなみに、この説教が心に刻まれ、忘れがたいものとなった時、私はまだ未婚でしたので、その点は、誤解なきように、よろしくお願いいたします。

 

なぜ、響いたのか?問題は、夫婦関係だけではないと思ったからです。

 

親子関係だろうが、友人関係だろうが、教会の人間関係だろうが、人と人との関係というのは、すべからく、このように、神がご用意くださる愛によってしか、続けて行くことができるものではないのではないかと思わされたからです。

 

夫婦関係という人間の最高の愛の関係においてさえ、その愛が尽きる時が来るならば、その他、全ての人と人との間の愛は、もっと早く、あるいはもっと簡単に、限界に突き当たるのは当然のことです。どの関係も愛の関係として持続していくためには、不思議な奇跡によって備えられる神のくださる愛を必要としているのです。

 

けれどもまた、どんなに麗しい人間関係においても、人と人とを最後まで繋ぎ続けるものが、結局は、神がくださる愛であるならば、逆もまた然りです。

 

どんなに深い不和によって隔てられている者同士であっても、主なる神さまは、その対立する者同士を、和解させることがおできになります。

 

新約聖書の語る神の救い、神が私たちに下さる救いを、救いという言葉とは別の言葉で、集中して表現した言葉の一つは、間違いなく、和解です。

 

キリスト者であるならば、誰も忘れることのできない和解という言葉によって現わされる福音の集中表現が、エフェソの信徒への手紙2:14以下にあります。

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 

少し、長く引用しましたが、これこそが、教会の信じ宣べ伝えているキリストの福音です。

 

異なる者同士をキリストがその十字架によって、一つの民として編み上げ、敵意を滅ぼしてしまう。どんな敵対関係にある者であっても、このような一体の関係へとキリストによって、造り変えられる。和解できない人間関係などありません。キリスト教会は、そう確信しています。

 

なぜならば、キリストの十字架は、まずはじめに、最も隔たった者同士、決して和解しえない不倶戴天の敵同士を、既に、完全に仲直りさせているからです。

 

すなわち、キリストの十字架は、何よりもまず初めに、神と人を和解させるその十字架であったのです。

 

ヨハネによる福音書に記録されたこのカナの婚礼の奇跡ですが、11節に、「最初のしるし」と語られています。

 

ヨハネによる福音書においては、その公の生涯において、主イエス・キリストが初めて人々の前で行われた奇跡なのです。

 

ある人は、この奇跡は、この後に記録される、悪霊につかれた者から悪霊を追い出し、病人を癒し、死んだ者を生き返らせる奇跡に比べるならば、ずっと、他愛のないものに見えるという趣旨のことを言います。

 

披露宴の最中に、ぶどう酒が尽きた。それは、不幸なことであるかもしれないけれども、大事件ではないと言います。

 

この後に記される人間の大きな不幸と向き合い、それを解放される主イエスの働きと比べれば、取るに足りない出来事だと見えるかもしれません。

 

しかし、取るに足りない、私たちの日常の喜び、悲しみに、主イエスが伴い、働いてくださるということを語っている慰め深い物語とも言えるし、また、今まで読んできましたように、大きな視点で捉えるならば、福音の神髄を語っている物語であるとも言えます。

 

私はその両方の視点から見て良いのではないかと思います。イエス・キリストの福音の神髄と言える良き知らせは、実に、私たちの生活の隅々にまで、具体的に力を持つものなのだということが、今日聞いています奇跡物語から、教えられていると言って良いと思うのです。

 

神と人を和解させる力を持った十字架のキリストの福音は、神の民イスラエルと、異邦人を一つの民としてしまうだけではありません。対立する民族と民族、国と国を、終末において和解させる、世界史的希望であると共に、親と子、兄弟と兄弟、夫と妻、ごく身近な人間関係において、真実となる、本当に身近な和解の希望であり、立て直される愛の希望です。

 

 私たちの生きる現実において、キリストの造り上げられた和解が経験されるのです。

親と子の間で、兄弟と兄弟の間で、妻と夫の間で、キリストの和解の力は現実となるのです。

 

そして、まさに、そのような和解した人間集団が、教会です。教会は、神と人との和解の象徴としてこの世に存在していると同時に、人と人との和解の象徴としても存在させられているものです。

 

もしかしたら、このように言うことは、この世の教会の現実の姿にそぐわないと思われる方がいるかもしれません。

 

教会は、他のどの団体とも変わらないような人間の集まりです。気の合う者もいれば、合わない者もいます。神の家族と呼ばれ、家族的な温かさを期待したいところですが、実際は、本物の家族同様、自分で選んだ者同士の集まりではないゆえに、趣味とか、同じ興味をもとにして集まった人間の集団よりも、かえって、ずっと、異なる者たちの集まり、共に一つ所にあるところが奇跡のような集団であるでしょう。

 

しかし、そのような異なる者達が集まり、ただ一人のキリストによって結ばれ、神を礼拝する者とされていること、聖餐の食卓に共に与っていること、そこに和解の現実があるのです。

 

少し前にも、『信徒の友』に掲載された平野牧師の言葉を紹介しました。

 

ある場所で講演をした後に、廊下で出席者に呼び止められてこう尋ねられたそうです。「教会の中にどうしても好きになれない人がいます。どうしたらいいですか?」

 

平野牧師は、答えました。「それは、すてきなことですね。主イエスが呼び集めてくださっている証拠ですね。」

 

教会が神と人、人と人との和解のしるしとして、その姿を現しているのは、何よりも、礼拝が終われば、たとえ口も利かずに帰路に着く者たちであったとしても、同じ一つの説教を聴き、アーメンと声を合わせ、一つ聖餐の食卓に与る、そこに見えているものです。

 

たとえば、朝、どんなにひどい喧嘩をして、口も利かずに、主の日の礼拝にやってきた夫婦であっても、その二人が、同じ説教にアーメンと言い、一つの聖餐に与るならば、もう和解は根っこの部分で現実のものとなっているのです。

 

また、だからこそ、説教で語られていることに声を合わせてアーメンと言えないとか、一つの教会、教派の中で同じ聖餐の理解に立てないということは、新しい教会を生み出さなければならないほどの教会にとっての、ないがしろにできない生命線でもあることが明らかになります。

 

たいへん厳しいこととも言わざるを得ませんが、どんなに気心が知れた、親しい仲間の集まりであったとしても、あるいは、血の繋がった仲の良い兄弟であったとしても、説教を聴き、聖餐の食卓を囲む点において、一致できなければ、それは、人間の愛の関係であり、まだ人間の愛の尽きたところで始まる、神の造られた奇跡としての愛の関係と言うことはできないのではないかと思います。

 

どちらの愛とも、否定する必要はありませんが、教会が世に対するしるしとして掲げるよう召されている愛の関係は、奇跡としての愛の方です。

 

けれども、だからこそ、コロナ禍の中にある、今この時の教会の姿というのは、この教会の本質が、今まで以上に、見えるものとなっているのではないかと思わされます。

 

この主の日の礼拝においても、祈祷会においても、お茶を飲んで団らんしたり、食事を囲んでの交わりというのが、持てないでいるのです。

  

それにも関わらず、その交わりが減ったせいで、極端に、礼拝出席者が減ってしまったということはありません。生活の場所が変わり、職場の環境が変わり、どうしても、礼拝に出て来ることが、できなくなっている方々がいますが、オンラインを通じて、懸命に礼拝を捧げていらっしゃいます。

 

私たちは、礼拝後の楽しい食事の時間を過ごせず、膝を突き合わせた親しい会話がしづらくても、共に集い、礼拝を捧げ、また、それぞれの場に遣わされていくことを喜んでいます。

 

一緒に礼拝する。その礼拝において同じ釜の飯である説教と聖餐に生かされる。ここに、神と人、人と人との和解が現実のものとして、存在しています。

 

 そうやって、全く異なる者同士である自分と隣人がキリストというお方を通して、不思議にも、こんな仕方で、こんなにもしっかりとお互いに結び付けられていると信じ、喜んでいる者たちが、世界の中に存在する、ここにいるということは、驚くべきことだと思います。

 

教会の中にどうしても好きになれない人がいることは、すてきなことなのです。イエス様が呼び集めてくださっている証拠なのです。

 

好きになれなくても、同じ釜の飯で養われている、永遠の神の家族です。

 

それだから、もう一度申しますが、同じ釜の飯が、違ってはなりません。イエス様がご用意くださった、同じ葡萄酒に与らなくてはなりません。そこに混ぜ物が混ざることに、注意しなければなりません。別のものに養われるならば、このような愛の一致はありません。そこに、私たちは真剣にならざるを得ません。

 

既に教会報にも、書きましたが、もう一年の忍耐をし、コロナ明けを待ち望む新年度、私が力を入れようと願い、再来週の教会総会で皆さんに提案したいと願っているのは、混ぜ物なしのキリストの福音を嗅ぎ分ける私たちのセンスを鍛えるための教理の学びに力を入れていくことです。

 

教理とは、神さまのラブレターである主イエスの福音を、私たちが誤解せず、ちゃんと聞くことができるようにと、教会の先達たちが、残してくれたガイドブックです。それも、私たちとは関係のない人間が勝手に作ったガイドブックではありません。私たちをその仲間として受け入れた教会の仲間達が、熱い情熱をもって、丁寧に丁寧に積み重ねてきた福音の聞き方ガイドです。

 

キリスト者になるということは、主の体の教会に結び合わされることです。だから、当然、キリスト者は、教会によって、福音の聴き方を、習い覚えることを、喜ぶ者です。教理なんて関係ない。自分は、自分で、このラブレターを正しく読めると言うとしたら、それは、自分が教会になるように召されているという、洗礼を受けるときに聴いたことをよく理解していなかったか、忘れてしまっているのです。

 

私は皆さんと共に、飲むべきキリストの福音を嗅ぎ分けられるソムリエとなること、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と、判断できるセンスを信仰の先達に導かれながら、ご一緒に鍛えられたいと願っています。

 

何が教会を教会とするか?大切にしなければならない教会の命は何であるのか?

 

きちんとかぎ分け、きちんと味わい、きちんと人に紹介できる、福音のソムリエとなるのです。

 

けれどもまた、ヨハネによる福音書が、世にある奇跡をいつでも、「しるし」と言っていることにも、注意を払い続けたいと思います。

 

「しるし」というのは、実体そのものではなく、その前味、その手付け、そのたとえのようなものです。

 

教会も、このような意味でのしるしです。

 

私たち教会は、やがて来る神の国そのものではありません。

 

主イエスがカナの婚礼で行われた最初の奇跡を始められる前に、母マリアに、「わたしの時はまだ来ていません。」と仰ったその言葉は、ある側面においては、今の私たちにも当てはまることです。

 

すなわち、主イエスの時、その「時」は、十字架とご復活の時であったということにおいては、もう既に実現した時でもあります。キリストが成し遂げてくださった私たちの救いに揺らぎはありません。

 

しかし、終末における新しい天と新しい地の完成の前、主イエスの再臨の前という意味においては、主の時は、今この時もまだ、来てはいないのです。

 

それは、私たちがまだ、この世においても、また教会の中においても、終末前、完成前の、しるしに過ぎない、欠けのある、存在においても、その福音を理解する力においても、未だ貧しい教会であるということです。この貧しさを弁え、受け入れ、終末まで忍耐して過ごさなければならないのです。

 

けれども、悲しむ必要はありません。主は、教会を神の国そのものではなく、しるしで良いとお認めになっているのです。だから、自分が完璧ではないことを受け入れて、良いのです。

 

むしろ、主が教会をそのような欠けを持ったまま、この世にあることをお望みになるのは、世にある者たちが安心して、私たちが語る福音の証を聴き、教会の仲間入りができるようになのです。

 

壊滅的な人と人との不和をも繋ぎ止める、本当に人間から出るものではない、天よりの力があることを、欠けているからこそ、証する者とされるのです。

 

もしも、教会が完ぺきな存在であるならば、誰が近づくことができるでしょうか?また、誰が、後ろめたさを感じずに、その群れに留まり続けることができるでしょうか?主が、欠けある者たちを一つに結ぶ愛の帯であるから、人は、脅えずに、そこにあることができるのです。

 

このように信じる群れであるから、私たち教会は、神と人、人と人との和解を絶対に諦めません。どんなに私たちの愛と交わりが貧しくても、人間的な愛が尽きたその所で、水をぶどう酒に変える主のゆえに、諦めないのです。

 

このキリストのゆえに、神を否む者は、やがて、神と和解します。争う人と人とは、共に一つの体として、神を礼拝する者とされます。世の人と少しも変わらない人間集団ではありますが、既に、教会にその決定的なはじまりが見えているのです。それが、礼拝です。説教です。聖餐です。それらによって、私たち教会において、語りだすことを定められた生けるキリストの言葉、言葉なる生けるキリストの存在です。

 

喜べることも、喜べないことも、全部、救い主キリストを指し示し、キリストへの憧れを深めるために、用いられるしるしである人間の群れ、それが、教会です。

 

しるしに過ぎませんが、また、確かな奇跡でもあります。

 

新年度も、主がこの私たちを、この教会を、この世界を奇跡的に生かしてくださるのです。私たちは、このぶどう酒がどこから来たのか、知っている水をくむ主の召使いとして、自らを献げるのみです。

 

 

祈り

主イエス・キリストの父なる神様、御子の十字架において、私たちと和解してくださり、私たちを、造られた者としての正しい道に連れ戻してくださった事を感謝いたします。この和解の福音を、世に告げ、人間の造られた使命である礼拝に立ち帰るために、貧しい私たちを用いてください。また、その礼拝に現れた神と人の和解の現実に基づき、世をもう一度、創造されるあなたのご計画の内に、人と人との和解のしるしとしても、生き始めることができますように、イエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。

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