さいわい宣告

 今日から、数週間に渡って、山の上で主イエスが「さいわいである」と語られた印象深いお言葉を聞いていきます。しかし、今日は、まず、これから、細かく分けて聞いていくその主イエスのお言葉を全体的に見たいと思い、5112全体を司式者に読んでいただきました。

 この主イエスのさいわいのお言葉をどのようなお言葉として聞くかということは、案外、難しいというか、聖書の読み方の急所の一つだと思うからです。だから、まず、全体的に読むということも、意味のあることだと考えました。何よりも、今日は、このイエス様が語られた「さいわい」のお言葉を、まさに私たちにとっての福音、よき知らせとして聞きたいと願っています。そういう姿勢を整えたいと願っています。

 さて、私たちが読み始めましたマタイによる福音書ですが、この福音書は、マルコによる福音書を下敷きの一つにしながら書かれたものであると考えられています。マタイはマルコによる福音書を手に取り、だいたいその筋書きに従いながら、そこにマタイならではの言い換えや、マルコにはなかった新しい言葉を書き加えていく、そうやって自分の福音書を書いていったと言われます。マルコによる福音書をすでに手に取りながら、しかし、もう一つ別の福音書を書かなければならないとマタイは思ったということです。その理由は、何であったかマタイ自身は書いていません。ですから、実際私たちの手元にあるマルコによる福音書と読み比べてみて、推測することになります。そして、たとえば、マルコにはなかったけれども、マタイが付け加えた部分に、そういうもう一つの福音書を書こうという執筆の理由を見出すことができるかもしれないと考えることができます。

 そういう風に、読んでみますと、マタイによる福音書の目立った特徴の一つは、マルコに比べて、イエス様がお語りになったお言葉が、ずっと多く記録されているということに気づかされます。しかも、付け足されたイエス様のお言葉を見ていくと、マタイは、これらのイエス様のお言葉を、まとめて記す傾向にあります。マタイは自分が伝え聞いていた、あるいはイエス様のお言葉だけをまとめてあった文章を、自分の福音書の中に、大きく5つの塊に分けて置いたと考えられています。

 たとえば、聖書学者たちは、そういうことを研究しながら、マタイがイエス様の言葉を、大きく5つの塊に分けて、福音書のところどころに置くのには、意味があるのではないかと言います。あの、イスラエルの民にとって重要な、モーセ5書、旧約聖書の最初の5つの書物を念頭に置きながら、神さまの新しい教えを、語るイエス様のお姿をマタイは紹介しているのだと考えたり致します。つまり、イエス様のお言葉を多く記し、しかも、それを5つに分けて語るイエス様は、神様の新しい戒めを与える新しいモーセだと見るマタイのまなざしがあるのではないかと言うのです。

 マタイがどれほど、そのようなことを考えていたかはわかりません。しかし、今日お読みした聖書の御言葉は、まさに、そのマタイがマルコにはなかったイエス様のお言葉を、書き記した部分です。イエス様のお言葉を集めた大きな塊の最初のものです。ただ今共に聞きました聖書の御言葉、主イエス・キリストのお言葉は、これから始まり、第7章にまで至る主イエスのお言葉の最初の大きな塊を作っています。

 私たちがよく言い慣わしている言葉では、この第5章から第7章までの、主イエスのお言葉のまとめは、昔は、山上の垂訓と呼ばれ、今は、山上の説教と呼ばれているものです。この山上の説教と呼ばれる主イエスのお言葉は、クリスマス物語と並んで、聖書の中で最も知られているお言葉であると言っても良いかもしれません。しかも、ここには、イエス様のお言葉が出ていますから、イエス様のお言葉の中で最も知られている部分であると言ってもよいだろうと思います。たとえば、こういう言葉があります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(539)

 私は、このお言葉を聞くと、いつでも恥ずかしく思い起こす一つの出来事があります。私が、まだ教会に通ったことのない中学生の頃、部活の仲の良い先輩と中学生らしく放課後、子犬のようにじゃれあったりしていました。私は、その先輩がクリスチャンであることを知っていまして、馬鹿な男子中学生の話ですが、私は、当時流行っていたキックボクシングのまねごとをしながら、「先輩、クリスチャンでしょう?クリスチャンは、右の頬をぶたれても、左の頬を差し出すんでしょう?」などとよく飛び掛かっていきました。けれども、結局、空手をやっていた先輩にもっと痛い目に合わせられるというお約束のお遊びをしていました。今思えば、まあ、クリスチャンである先輩にとっては、こういう聖書の言葉の引用は、決して気持ちの良いものではなかったろうと思います。今は、連絡先が分かりませんが、風の噂で、どこかの神学校に行ったと聞きましたから、いつか再開する日が来るんじゃないか、そうしたら、謝らなきゃいけないと思っています。

 しかし、この話の要点は私の罪の告白にあるのではありませんで、そんな教会とは全く縁遠い何にも考えていないような男子中学生でも知っているイエス様のお言葉が、山上の説教の中にはあるということです。

 けれども、この馬鹿らしいエピソードも、ただそれだけのことではなくて、考えてみれば、山上の説教の特質がよく表れているものだとも思います。聖書の名言といえば、しばしば山上の説教の言葉が選びだされます。偉人の言葉の日めくりカレンダーの中に、エジソンや、ニーチェや、仏陀と一緒になって、イエス様のお言葉も出てきて、そういう時は、大体、山上の説教の言葉のどれかが、取り上げられることが多いのではないかと思います。それは、山上の説教の中に記されているイエス様のお言葉が、洗礼を受けていない人の心も打つようなこれは納得の名言だなと思う、そういう崇高な倫理、気高い人間の心を教えるお言葉と多くの人の心を打つのだと思います。

 けれども、もう一方から言えば、その言葉を自分の座右の銘にしようとすると、これは、気高すぎて、なかなか大変なことだと思わされるような言葉の連続であるとも思えてくるわけです。「だれかが右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。」と言われて、それは、立派な言葉だと思うけれど、本当にそんなことができるのか?あるいは、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」という言葉を、本当にこう思えたら、ポジティブな人生と思うけれど、これを自分の座右の銘として生きることができるのか?

 そういう風に、山上の説教のお言葉を、自分の道徳律にしていこうと思うと、どうも、難しすぎる言葉の連続であるとも思えてきます。ある説教者は、そういう山上の説教の厳しい道徳として読める箇所を指摘して、ざっくりまとめると、こういうことを言います。私たちは山上の説教の言葉に立派な言葉だと感心しながら、一方では、では、こういう生き方をしなさいと言われたらご免こうむりたいと思うのではないか?

 その山上の説教の語る徳の高い、気高い生き方に憧れを持ちつつ、もしも、本当にそうやって生きろと言われるならば、どうも窮屈に感じてしまう。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すなど、人間であることを半分くらい止めてしまって、天使の生活に片足を突っ込んではじめてできるようなものではないかと思ってしまうのではないか?なるほど、そんなふうに、私たちには縁遠い聖人的な生き方を表す言葉として、敬して遠ざけるということに、なりかねないと思います。

 聖書学者たちの見解に従えば、主イエスがここで、これらのお言葉を語る前に、山に登られたのは、意味があることだと言います。それは、旧約においてモーセが十戒を神さまから頂くためにシナイ山に登ったことと重ね合わされているのだと言います。つまり、マタイは、モーセの律法に代わる新しい律法として、主イエスの山上の説教を位置付けているのではないかと言うのです。

 この読み方は、なかなか納得させられる解釈です。マタイ517以下では、主イエスが、律法を完成するために来られた方であると語っています。また、同じ文脈で、これも強烈なお言葉ですが、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われています。これらの言葉は、主イエスこそが、モーセにまさる神の真の律法の与え手であると確かに読むことができます。

 そのような視点で、この山上の説教の冒頭に記された7つの幸いの教えを読むとき、ここには十戒に代わる、あるいは、十戒のような神の民にふさわしい者の姿が描かれているのだと言うことができます。

 キリストに結ばれた者は、心が貧しくなければならない、悲しんでいなければならない、柔和でなければならない、義に飢え渇いていなければならない、憐み深くなければならない、心が清くなければならない、平和を実現しなければならない、義のために迫害されるようでなければならない。このような戒めが語られていると言うならば、やはり、苦しいのです。

 けれども、私たちが、ここで注意深くありたいのは、この山上の説教が、かつて山上の垂訓と言い慣わされていたにもかかわらず、今は、説教と呼ばれるようになった点です。つまり、道徳の問題が中心ではなく、福音、シンプルに言えば、良い知らせを告げることが問題になっているのです。

 私たちは、山上の説教の言葉を読んで、これは良い言葉だ、名言だ、実際ここに書いてあることをできたらそれは気高い生き方だなと思われる、人間の心を打つ、そういう道徳が教えられていると読むことがあるかもしれません。けれども、聖書はそういう書き方をしません。聖書は、全世界、どこにでも通じる因果応報の法則のような道徳というものを語りません。

 これが垂訓ではなく、説教だと言われ直すようになったのは、意味があることです。それは、ここで語られる言葉が、私たちにとって、大切な言葉である理由は、ひたすらに、これを語られたのが、主イエスであるという理由によるのだということです。わかりやすく言うならば、たとえば、心の貧しい者が幸いであり、悲しむ者が幸いであるのは、主イエスが来てくださり、さいわいだと語ってくださったからです。

 つまり、ここで主イエスが語られる幸いは、全く道徳として聞くことのできない幸いの宣言だということです。このさいわいを理解するためには、こういうたとえがふさわしいかもしれません。私の娘は保育園に入って、そのプログラムとしてプールを始めました。けれども、彼女は、怖がっています。何回か保育参観というのがあって、プールを渋るものですから、その日に合わせて、応援の意味で、プールの見学に行きます。だいぶ上手になったと思いますが、何が苦手かというと、水の中にじゃぼんと飛び込んで、顔まで水の中に沈むことが恐ろしいようです。それを、コーチや周りの先生が、「大丈夫、大丈夫」と言って励ます。すると、恐る恐る飛び込むのです。すると、沈んだ体に先生の手が伸びてきて、浮かび上がらせてくれる。何で小さな子どもが、水の中に飛び込んでも大丈夫かと言えば、子どもには泳ぐ本能が自然と備わっているからではなく、人間の体は自然と浮くようにできているということに期待するからでもなく、大人がしっかり見守ってくれているからです。沈んでも、浮かび上がらせてくれるからです。当たり前ですけれど、絶対沈まない体だからではありません。絶対おぼれさせないという人が近くにいるからです。

 山上の説教も同じだと思います。これは、幸せに生きるための道徳、幸せに生きるための不変の法則などではないと思います。それは考えてみればその通りだと思います。なぜ、私たちは、それが気高い生き方であることを認めながらも、右の頬を打たれても、左の頬を向けることができないのか?明日のことを思いわずらうことを止めることができないのか?単純に言って、そうすると、ひどいことが起きると思っているからです。左の頬を向けたら、おそらく、その頬は二度、三度と打たれると思うのです。私たちがよく知る、とても、現実的なことです。私たちは、心の貧しい者が幸いでないことを知っています。悲しむ者の悲しみが増し加わるのを知っています。義に飢え渇く者が、満ち足りることがないことが多いことを知っています。

 もしも、悲しんでいるものが必ず慰められるのならば、私たちは安心して悲しむことができます。もしも、左の頬を差し出したら、争いが必ず終わるのならば、私たちは喜んで差し出すことができるかもしれません。しかし、そうはならないことを私たちは知っています。それは、法則などではないということを私たちはよく知っているから、この言葉を前に、躊躇するのだと思います。

 けれども、もう一度申しますが、これは道徳ではありません。説教です。幸せの法則を伝授する教えではなく、主イエスの幸いの宣言です。つまり、心の貧しい者にさいわいを宣言する主イエスとは、その心の貧しい者のところに、来られた助け主です。悲しむ者のところに来られた助け主です。それが、幸いの唯一つの理由です。

 主イエスは、このお言葉を通して、語り掛けていてくださるのです。「私は、お前の貧しさを知っている、お前の悲しみを知っている、お前の飢え渇きを知っている、お前の頬が打たれたのを知っている。」ここに記された生き方をするから幸せになれるのではないと思うのです。割を食ってしまうような、そういう状況に置かれている者、そういう生き方をする者の悲しみの真ん中に、主イエスが来てくださった。だから、さいわいなんだと思うのです。

 今日の説教題を「さいわい宣告」といたしました。あまり、聞きなれない説教題であったかなと思います。最初は、「さいわい宣言」にしようかとも思っていました。けれども、辞書を調べてみて、「宣告」の方が良いと思いました。宣告の方が、宣言よりも、より権威のある言葉というニュアンスを含むようです。宣言というのは、自分の主張を外に向かって述べることを意味しますが、宣告は、言い渡すという意味を含みます。つまり、宣告は、権威ある者の言葉によって、自分のあり方が、定められるというニュアンスがあると思いました。どんな状況にあっても、神の子である主イエスが、「さいわいである」と言ってくださるならば、私たちは、さいわいであると言って良いのです。

 それが、神を神とすることであると思います。私たちがどんなに罪深くとも、私たちのことを「神の子」と神が呼ばれるならば、確かに私たちは神の子であるように、私たちの状況がどんなに厳しくとも、神がさいわいだと言ってくだされば、それは、神の権威ある言葉ですから、私は幸せなんだと信じてよいのです。

 けれども、もちろん、このさいわいを宣言してくださった主イエスは、神の子としてその権威に基づいて、理由もなしに、さいわいを宣言されていらっしゃるわけではないと思います。私たちにさいわいを宣言してくださる主イエスのお言葉が、本当にさいわいであると実感できるのは、このお方が、私たちのところに来てくださったからだと思うのです。主イエスは、ただ、高い山の頂上に立って、権威ある神の子としてさいわいを宣告されているのではいらっしゃいません。主イエス御自身が、貧しき者となり、悲しむ者となり、柔和な者となり、義に飢え渇く者となり、憐み深い者となり、心の清い者として生き、平和を実現する人となり、義のために迫害される者自身となってくださっているのです。そして、その主の歩みは、私たちが、よく知るように、主イエスを十字架の死へと導いていきました。

 私たちは、そこで知ります。主イエスが私たちに作り出してくださるさいわいは言葉だけのものではなくて、主イエスが、どこまでも私たちと歩みを共にしてくださったという事実に基づくものなのだと。どこまでも、私たちは、神に愛される神の者として生きることを、信じることが許されているのです。主イエスが来てくださったお陰で、私たち人間のいるところは、もう真っ暗な暗闇ではなくて、確かな支えが与えられています。

 だから、主イエスのさいわいの宣告、祝福というのは、絶対に壊れないものであり、その祝福の中身とは、神がどこまでも私たちと共にいてくださり、どこまでも、私たちの味方でいてくださるということに他なりません。誰もさいわいの語れなくなるところで、主イエスは、私たちの、「自分は不幸だ」という嘆きにさえ逆らって、私たちのさいわいを宣告してくださいます。不幸だ不幸だと言う者の横で、その言葉に逆らって、その者の傍らに立って、「不幸なんかじゃない、私がどこまでも共にいる。これ以上の安心はない。大丈夫。絶対に大丈夫。」必ず、そう言ってくださいます。

 しかも、このお方は、これから一つ一つさいわいの言葉を学ぶ中で、約束してくださってもいます。その貧しさも、その悲しみも、最後のものではありえないと。もう一度、申しますが、この方には権威があるのです。

 12節で、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」と仰る方は、この世界と歴史の真の支配者であられます。それは、私たちの貧しさに分け入り、それをご自分のものとしてしまわれる憐み深いお方が、真の神だということに私たちの目を開かせるお言葉です。

 これから、数週に渡りまして、この祝福の言葉を丁寧に聞いていきたいと思います。そのお言葉を丁寧に説くことは、時には、私たち自身の罪が明るみに出るような言葉を聞くことになるかもしれません。けれども、この真の支配者であられるお方は、私たちのいる低き所にまで下ってこられ、さいわいを告げてくださった方なのです。この方の言葉と存在は、このさいわい、私たちに与えられている大いなる喜びに身を完全に向けていてくださる方です。すなわち、その方が、私たち人間の味方でいてくださるのです。こんな心強いさいわいは他にないのです。ただいまから頂く聖餐の食卓は、まさに、この方が、私たちのさいわいいのために、身を割かれ、血を流され、命を注ぎだして、私たちを幸せにしようとする、神の愛そのものである食卓です。感謝してこれにあずかりたいと思います。

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