1月16日(日) 使徒言行録2章37節~41節
本日は、使徒信条の中の「我は聖霊を信ず」という言葉を、心にとめながら、御言葉を聴いてまいります。聖霊なる神様への信仰です。
父、子、聖霊なる三位一体の神さまの中でも、聖霊なる神様というのが、よくわからない。霊と聞くと、とたんに、幽霊みたいなものを想像してしまう。霊と言う言葉は、何だか、怪しげに感じるという感想をこれまで抱いたことがある方がいるかもしれません。
けれども、最近、霊性という言葉を色々な所で聞くようになってきてはいないでしょうか。私たち人間が元気に生きて行くためには、心も体も大切であるということは、誰しも認めることでしょうが、それに加えて、霊の健康も必要だと、聞くようになってきました。
それも教会の中からではなく、教会の外から聴こえてくる言葉です。
霊が大切だという感覚、目には見えない世界に対する感覚、宗教が扱ってきた感覚が、今、霊性という言葉によって、再注目されています。
人類が誕生してから、ずっとずっと長い間、宗教というものが存在してきました。
ある宗教学者は、宗教は、きわめて古い時代から当たり前のものとして存在してきたし、食べることや眠ること、子育てや働くことなど、人間の生存に関わる営みと同じほどに重んじられてきた、その他のものとは比べられないものだと言います。
近代以降、宗教は科学が発達する前の無知な人類のためのものであり、科学や社会の発達と共に、やがて、なくなるものだと考えた人もいましたが、それは、誤りだと言います。それほどに、人間には、本能的とも言える宗教心、霊性を持っている。
人間には食べ物や運動によって養われる身体性がある。音楽や文学や人との交わりによって養われる精神性がある。それと共に、目には見えない大いなる存在との交わり、宗教的営みによって養われる霊性がある。信仰によってしか、人間の持つ霊によってしか、触れられない領域があるのに近代人、現代人は、それを疎かにしてしまった。その結果のひずみが今ある。
霊性を無視することによって、個人の生活も、社会全体の形もいびつなものになってしまった。だから、今こそ、霊性を取り戻そうという声が、むしろ、教会の外の色々な所で噴き出してきています。それで、最近、霊性という言葉をよく聞くようになっています。
私が神学生だった頃、確かキリスト教教育学の授業であったと思いますが、宗教と訳されるreligionという言葉は、一説にはラテン語のリレギオ、「再び結び合わせる」という言葉が元になっていると教わった記憶があります。
単に「結び合わせる」のではなく、「再び結び合わせる」です。元々、何かに、どこかに結ばれたという感覚がまずあり、しかし、そこから切り離されてしまっている。そこにもう一度結びつきたいという願い、心の飢え渇き、それが霊性であり、人間が普遍的に持っている宗教心だという言い方ができると言うのです。まさに、現代の自分の中の霊の渇きに気付き、それを満たす霊性を求める声と深く響き合うことではないかと思います。
実は、私たちキリスト者も古くからこのような感覚を持ち続けてまいりました。
私たちキリスト教会の信仰の先達にアウグスティヌスという人がいます。その人の『告白』という代表作の中に、「あなたはわたしたちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですからわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」と、神に向かって語った言葉があります。
私たち人間はいつも何か心のどこかに穴がぽっかりと開いてしまっているようで、足りない、足りないと、飢え渇いています。
飢え渇いているから、人を押しのけてでも、人の分を奪ってでも、あるいは、体を壊すほどに、何かの虜になって、満足して、安心したいと願いますが、一向に満たされません。手に入れれば入れるほど、ますます不安になり、心を満たす何か、体を満たす何かを求め続けます。
けれども、それは、満たされません。なぜならば、渇いているのは、体でも、心でもなく、霊だからです。足りないのは、この世の何かではなく、神さまとの結びつきだからです。
霊性、宗教心というのは、私たち教会の信仰においても、このような心の渇望を思うことと結びついています。かつて、本当は私たちが結びついていた大きな大きな存在に再び結びつきたいという飢え渇きです。
その大いなるものとの結びつきを果たすために、さまざまの宗教が、さまざまな実践を持ちますが、その営みのことを宗教と言います。切り離されてしまった大いなる存在に何とか結びつこうとする人間の努力です。
けれども、ここが分かれ道になるのですが、実は、私たちキリスト教会は、神さまに結びつこうとするあらゆる努力は、どんなものであっても、私たちを、神様に、再び結びつける力はないと確信しています。
ここで私は、詩人谷川俊太郎が、とても若い時に出した詩集、『二十億光年の孤独』の中の「空の青さを見つめていると」という詩を思い出します。
そこには、私たちが今日ここまで人間が持っている普遍的な宗教心と名付けて来たような、この世のものでは決して満たされない深い憧れの思いが語られていると思います。また、それだけでなく、その憧れを満たそうとするあらゆる営みの挫折が語られているように思えてなりません。
出だしだけ、少し紹介いたします。「空の青さを見つめていると/私に帰るところがあるような気がする/だが雲を通ってきた明るさは/もはや空へは帰ってゆかない」
吸い込まれるように透き通った空の青さの向こう側、空の空、天の天の先に、私が本当に変えるべき、結びつくべき何かがある、どこかがある。そこに辿り着くならば、健やかな本当の自分になれる予感がある。けれども、地上にある私と、帰るべき空の間には、雲があり、それが邪魔している。いいえ、そもそも、その雲を通過した光のように私は、変わってしまっていて、もう天の住人ではなくなっている。
多分、谷川が語っているのは、そんな感覚です。十代の頃、初めて読んだ詩ですが、キリスト者になってから、ますます心に響くようになった詩です。
帰るべき空と私たちの間を隔てている雲、隔てているだけでなくて、実は、私たち自身がその雲の中を通過していて、それで根本から変質してしまっていて、帰るべきところに帰ることができないという感覚、これが、教会の語ってきた罪の感覚、原罪の感覚ではないかなと思います。
今日司式者に読んで頂いた聖書箇所の直前の使徒ペトロの説教もまた、谷川の詩よりも、より強烈に、私たち人間が切り離されていると感じている大いなる方に、何とか結びつこうとする人間の努力が、事実、どこに至ってしまったかをはっきりと語った言葉です。
36節、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
イスラエルの全家、これは、聖書によると、天地の造り主なる神様が、私たち人間の代表として選び出された民です。
主なる神様に背き、楽園から追放されたというアダムの末裔である全ての人間が再び、主なる神様との関係をやり直すために、その代表として選ばれたと語られる民です。
けれども、私たち人間代表であるイスラエルは、非常に篤いその信仰心と、その心と体と霊を注ぎ出すような宗教的営みの結果、神が主とし、救い主としてお遣わしになったイエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのです。
たまたま失敗したのではありません。別の民族なら成功したというのではありません。神のお選びになった人々の内でも、とりわけ、篤い宗教心を持ったファリサイ派の学者、実践家が、主イエスを十字架に着けて殺すその先頭に立っていたのです。この聖書の証言は、私たち人間の最上の宗教心や、霊性を裁く言葉です。
雲を通ってきた明るさは、もはや空へは帰ってゆかれないのです。
この裁きの言葉を聴いた私たちの代表、イスラエルの全家に属する人々は、その場にいたペトロをはじめとする使徒達にこう尋ねたと、今日、お読みした箇所に記録されています。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」。
ペトロはその問いを引き受けて、こう答えました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
悔い改めること、イエス・キリストの名による洗礼を受けること、そして賜物として聖霊を頂くこと、これが必要なことだと言います。
ここには、ユダヤ教に代わる、新しいキリスト教という宗教が生まれようとしているその姿を見るようではありますが、実はそうではありません。
なぜならば、悔い改めること、洗礼を受けることは、聖書全体から見れば、最後の聖霊と同じように、ただ賜物として与えられるものだからです。
賜物、つまり、神さまからの贈り物です。プレゼントです。
大いなるものに再び結びつこう、本当に健やかな人間となるために帰るべき場所に帰ろうという人間の真剣な宗教的営みが、原罪と表現されてきたほどに深い人間の欠けのゆえに、どうしてもなしえなかったこと、むしろ、それを成し遂げようとすればするほど、逆方向に進んで行ってしまう人類の悲願を、神御自らがただ贈り物として、与えられるのです。
それがイエス・キリストであり、十字架と復活に煎じ詰められるキリストの出来事でした。
もしも、宗教が、再び大いなるものに結びつこうとする人間の努力を語るものであるとするならば、聖書が語るのは、イエス・キリストの福音が語るのは、小さく、儚く、有限であるのみならず、黒い毒性の雲を通ったように汚れて決定的に変質してしまった人間、帰る場所を失った虚ろな人間に、再び結びつこうとされる神のreligion、神の努力を語るものです。
私たちの霊以上に、神の霊、聖霊が渇いてくださったのです。
聖書が証しする、福音の証しする主なる神は、その聖霊の渇きのゆえに、この世界のどんな宗教の難行苦行よりも、苦く苦しく耐えがたい努力を実践されました。
失われたものと再び結びつくために、ご自身と一体である独り子、神の命そのものであられるイエス・キリストを、人としてこの世に送り、十字架に送られ、その血潮によって、人間の汚れと罪を洗い流されました。
これによって私たち人間と一体となるほどに食い込んでいた罪と死の呪いを永遠にはらわれました。
私たちは神のものとなり、再び結び合わされました。これはすべて、神がキリストにおいて、一方的に行われたことです。
人間の宗教的営みを裁き、その力のなさを宣言する聖書ですが、同時に、変な表現に聞こえるかもしれませんが、宗教の終わりを告げているのです。
もう宗教は必要でないのです。なぜならば、人間が本当に健やかに生きるために必要な、霊の健康、大いなるものとの結びつきは、もう、成し遂げられているからです。
それでは、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うた私たち人間の代表にペトロが告げた悔い改めること、洗礼を受けること、それから、賜物として聖霊を受けるということは、一体何を意味するのでしょうか?
「我は、聖霊を信ず」です。神の霊を信じるのです。
私たちの霊性以上に、神の霊性を信じるのです。
つまり、私たちの霊が飢え渇いている以上に、聖霊が飢え渇いておられる。人間がご自身から切り離されてしまっていることに、痛みを感じておられる。
しかし、この場合、神が私たち人間との結びつきが足りないとお感じになっているというのは、単なるたとえであって、私たちはもっと良い言葉を知っています。
それは、愛です。
神は、その霊深くにお感じになるその愛のゆえに、イエス・キリストの全ての出来事を起こしてくださったのです。ただこのキリストの出来事のゆえに、神と私たちの関係は、全く新しい次元に入ったのです。
その新しさとは、他でもありません。私たち人間は、大いなる方から切り離されているのではなく、結ばれているということ、帰るべき場所に帰っている自分たちであるということ、そしてこの新しい事実に目を覚まし、信じることが許されているということです。
この新しさの上に、悔い改めること、洗礼を受けることが続きます。つまり、それらの人間の営みは、神から切り離されているという悪い夢から目を覚まし、あのイエス・キリストの出来事によって、私の人間としての健やかさは、根本的に回復されたと信じること、握ってくださった神の手を、私たちの方でも握り返し、元気を回復された者として、勇気を持って、人生に歩み出すことです。
「今、多くの人々が霊性が大切だと語っていますが、そう聞かされていますが、私たちはどうしたらよいのですか?」
私たち教会の答えは決まっています。慌てなくて大丈夫。求めているものは、あなたが自分の飢え渇きに気付く前から既にとっくに備えられている。信仰が与えられ、霊性が養われる前から、とっくにあなたは神のもの、救い主のもの。
喜んで悔い改め、喜んで洗礼を受ける。救われるためじゃありません。救われていると信じるからです。
そしてこのような悔い改めと洗礼という具体的な実践へと実を結ぶ、信仰がどうして私たちに与えられるかと言えば、この喜びの信仰が私たちの内に湧き上がる奇跡もまた、聖霊のお働きだと聖書は語り、教会は証ししてきたのです。三位一体の神は、本当に手取り足取りです。
「いかにして聖霊を受けるか?」
悔い改め、洗礼を受けたその冠として、聖霊が私たちの内に来られるのではありません。確かに私たちの内に聖霊がお宿りになっていると自信を持って言えるのは、洗礼を受けたキリスト者たちです。
けれども、それはちょうど、自分が他の家の子ではなく、この家の子であると気付いたときには、既にとっくにその家の子であるように、聖霊は私たちが目を覚ます前から、私たちと共におられます。
「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
この言葉の後の使徒言行録が語る教会の歴史というのは、そのように語ったペトロの言葉を追いこすようにして、聖霊が働き、異邦人は目覚め、教会はたじたじになって驚きながら、聖霊を追いかけるようにして、洗礼を施していくのです。
一言申し添えるならば、それは、だから、聖霊の自由で大胆で太っ腹なそのお働きのゆえに、洗礼と聖餐という二つの聖礼典を軽んじて良いということではありません。
この聖霊の大胆でダイナミックなお働きのゆえに、私たちも大胆に福音を語り、大胆に共に生きる兄弟である隣人に、洗礼を施すことができるということです。
私たちにとって大切な信仰の先輩である熊野義孝という牧師は、洗礼準備会もそこそこにどんどん洗礼を授けたと言います。
キリストの恵みに目を覚ましたならば、キリストの名による洗礼を受けたいと願うならば、それは聖霊が起こしてくださった信仰です。細かいところは後から、知ればいい。むしろ、一生かかっても、味わい切れないのが、本当の神の恵みだろうと思います。
使徒ペトロは言います。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
神に招かれ、ここにいる、いいえ、単に場所の問題ではなくて、どこにあっても、今、この言葉を聴かされた私たちです。神が招かれたのです。神が聴かせたかったのです。今、この私たちがこの約束を賜り、キリスト者も、受洗前の者も、この手を握り返すようにと招かれています。神の霊の渇き、その深い愛のゆえに、その結実であるキリストの出来事のゆえに、私たちは、神に堅く結び合わされ、神に待って頂いているのです。
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