5月3日主日礼拝説教 マタイによる福音書26章26節~30節
5月の第1週の主の日の朝を迎えました。本来であるならば、一堂に会し、主の食卓を祝う日です。一つのパンと一つのぶどう酒を皆で頂く聖餐の食卓。キリストが定めてくださったその食事によって、教会は、自分たちが、ひとつの有機体であること、各々は一つキリストの体の各部分であることを、頭だけではなく、この体で味わうようにされています。
私たちは今朝も使徒信条を告白し、その中で、「聖徒の交わりを信ず」と告白いたしました。「聖徒の交わり」、キリスト者同士の交わりという意味にも採れますが、よく知られた説明では、これは元のラテン語では、「聖なる物質の交流」とも訳すことができるということです。
「聖なる物質の交わり」、これは聖餐の食卓のことです。私たちが一つキリストの体と言われるほどの親しい関係を、お互いに持っているのは、人間的に仲が良いということに根差すものではありません。信仰者同士の結びつきというものは、一つキリストの体であると言われるほどのものだと言うとき、それは、お互いに何もかも知り尽くした、友人以上の繋がり、まさに家族的な交わりが、あるということではありません。聖なる物質の交わり、今日共に聞いた聖書個所においてキリストがご自分の弟子たちのために定めてくださった聖餐の交わりがあるからです。だから、有名な話ですが、吉祥寺教会の牧師であった竹森牧師は、礼拝に出る者は、隣に座る人の名前を知らなくたって、不足はないと言ったのです。
これは決して冷たいことではないと思います。むしろ、びっくりするほどのキリスト者同士の結びつきの深さの表明であると思います。たとえ、この人とはウマが合わない。仲良くできないという人が、群れの中にあったとしても、私たちの、仲良くできない、一致できない、和解できない、そういったことを全部飛び越えて、聖餐によってお互いは、切っても切り離せない関係にされてしまっているということです。私たちは、名前も知らないその人と、共に聖餐に与ることにより、一つキリストの体という運命共同体になり切ってしまっているのです。そこに、キリスト者の交わりの出発点があります。教会の中の人間的な親しさをもっと増したいという人も、もっと淡白なもので良いという人も、まず、そういう次元とは別のところで、避けたくても避け得ない有機的な一致が、神によって造りだされていることを、受け止める必要があるだろうと思います。教会の一致とは、人間の努力によってではなく、神が作り出してくださるものなのです。
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そのような一致を生み出す聖餐の食卓がどんなに大切なものであるかは、私たちの信仰の兄弟、カトリック教会の礼拝をミサと言うことの中に、現れているのではないかと思います。ミサという言葉は、そのまま聖餐の祝いを意味しています。カトリックにとって、礼拝とは聖餐の祝いのことです。だから、毎週、聖餐を祝うのがカトリックの礼拝です。最近は、ミサの中で、説教も語られるようになっているそうですが、かつては、礼拝の中で説教がないことも多かったと聞いています。説教がなくても、聖餐があれば、礼拝は成り立つと考えられていたのです。
ミサを祝うとき、確実に、そこに生けるキリストがおられ、人間に触れてくださる。一つとなってくださると信じるのです。だから、そのミサに与れないという今の状況は、私たち以上に危機的な状況であると思います。けれどもそれは他人ごとではありません。
私たちの教会も、聖餐を単なる象徴として捉えているわけではありません。パンと杯をそのままキリストの体と血であるとは考えてはいませんが、それが祝福の通り道、洗礼と並んで、サクラメントと呼ばれる特別な恵みの道、人間の主観を超える、神の祝福の通り道であることを信じています。
つまり、私たちが、プロテスタント教会、聖書の言葉を重んじる教会、説教を重んじる教会だからと言って、私たちが神の言葉に従うということは、聖書を読んで示された一つ一つの教えに従っていればいいということではありません。
私たち教会の御言葉への服従というのは、どの教会であっても、イエス・キリストが教えてくださった、為になる言葉、心の栄養となる言葉、生き方を整える良い教えに従って生きようとすることが第一のことではないのです。私たちプロテスタント教会が、聖書の言葉を重んじると言うとき、それは聖書の個々の具体的な教えに服従することを意味するのではありません。むしろ、言葉の中の言葉、神の言葉そのものであられる生けるキリストに従うということを意味したのです。
だから、私たちも、個々の言葉ではなくて、神の言葉そのものである生けるキリストに出会うことを必要としています。だから私たちもまた、キリストの臨在を約束するサクラメントと呼ばれる、洗礼、それから聖餐によって、生かされていることをよく弁える必要があります。
御言葉に従うとは、生けるキリストに従うことであり、生けるキリストに従うとは、このお方のおられるところで、このお方を礼拝することに他なりません。そして、そのキリストの現臨が露わになるところが、日曜毎の礼拝であり、その中心が説教であり、聖餐なのです。
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その聖餐の指し示していることとは具体的には何か?私たちが、一つとなって共有するものとは何であるのか?それは、28節にありますように、「罪の赦し」です。より精確には、罪の赦しをくださるキリストです。
私たちが聖書に記された個々の神の言葉、すなわち、律法の言葉、それを比類なき深さにおいて示されたキリストの御教え、その一つ一つに生きることができず、神に逆らう者である私たちに、罪の赦しを与えるお方として、キリストが生きて私たちの前に立っていてくださる。私たちは、罪を赦すために働いてくださるキリストの御前に立つ。それが、聖餐の食卓が現実とするキリストの現在です。昔から聖餐を「見える言葉」だと教会が呼ぶのは、見える形で、私たちの赦しとなってくださる神の言葉たるキリストの臨在がそこにあるということを意味すると思います。
だから、聖餐は大切です。正式な礼拝は説教と聖餐の伴う礼拝です。キリストが、これは私の体、わたしの血だと、自らお定めになった聖餐です。世の終わりまで、これを祝いなさいと定められた聖餐です。このお約束に基づき、聖餐を祝うとき、その礼拝において私たちは、確実に生けるキリストに出会っていると信じて良いのです。
それは、逆に言えば、そのキリストの現在を意味する聖餐を祝うことができないことは、すべてのキリスト教会にとってものすごく危機的な状況です。今、ここにいますキリストが見えづらくなるのです。神と人の間、人と人との間にキリストが打ち立ててくださった赦しの確かさが見えづらくなる。赦しが見えづらくなるのです。人間的な親密さによってではなく、ご自分の定めた聖餐の食卓によって、教会を呼び出し一つのものとされる神の業が、見えづらくなるのです。教会の一致が見えづらくなるのです。何のために存在している教会かわからなくなるのです。
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けれども、そこでこそ、改めて、私たちが思い起こさなければならないのは、我々は、今までも毎週このような大切な聖餐を祝っていたわけではないということです。我々の教会の先祖であるカルヴァンは、毎週祝うことを願っていたそうですが、ジュネーブ市の参事会の反対にあい、それを実現できなかったと言われます。だから、本来ならば、改革派教会も毎週聖餐を祝うべきだと教えられることもあります。それはそうかもしれない。確かに、毎週聖餐を祝えた方が、より良いと言えるかもしれません。それによって、キリストが私たちの目前にいて下さることがいよいよ確かなこととされるからです。
しかし、カルヴァンのような妥協なき改革者が、なぜ、人々の反対に甘んじることができたか、毎週の聖餐を諦めることができたかと言えば、見える言葉の聖餐を祝わない週があったとしても、必ず、そこには説教があったからです。見える言葉と言われる聖餐が指し示す生けるキリストの現臨、キリストが今生きてこの礼拝の場にいらっしゃることを、聖餐と共に指し示すもう一つの言葉、見えない神の言葉、罪の赦しの説教が毎週の礼拝で、語られていたからです。
今日の主イエスの聖餐制定もまさに、言葉が伴っているのです。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」すなわち、聖餐とは、十字架を指し示す言葉、十字架の出来事を語るものだと言うのです。
だからこそ、聖餐そのものが、魔術のようなものであるわけではありません。それが恵みの通り道であるとしても、言葉を抜きにした聖餐によって、キリストの臨在に触れられるわけではありません。主イエス御自身が、その聖餐制定の席で、聖餐を説く小さな説教を語られたように、そこでは必ずキリストの赦しの言葉が語らなければならない。それが指し示しているキリストの十字架の出来事が語られなければなりません。
それゆえ、カルヴァンは、聖餐には必ず説教が伴わなければならないと言いました。月初めの聖餐も、あれだけを独立して聖餐式と呼ぶべきものではなく、礼拝式全体の中の、御言葉の説き明かしに続く聖餐と位置付けられなければなりません。訪問聖餐でも、必ず説教が伴わなければなりません。
このように聖餐において言葉がことさら重んじられるということは、主は私たちの外で成し遂げられた御自身の救いの客観的な出来事を、この私たちの頭でも心でも了解されることを求めていらっしゃるということです。機械的に、魔術的に聖餐に与ることによって、神の恵みに与るのではなく、心から自分のこととして、その恵みを受け取れるように、信仰を持って、「今、ここにキリストはおられます」と私たちの全存在によって告白されるように、そして、私たちが実際に慰められることを、神が望んでくださっているのです。
つまり神は、私たちが、罪の夢の中で眠りこけて生きるのではなく、目覚めて立ち返り、感謝と喜びに生きることを望んでくださっているということです。神さまは私たちと人格的交流に入ることを望んでおられるのです。
そして、その全てを引き起こすのが、見えない神の言葉である説教なのです。私たちの心に、魂に、染み入り、私たちの応答を引き起こさざるを得ない御言葉によって、私たちと神さまは人格的交流に入るのです。その時、洗礼も聖餐も、単なる水ではなく、単なるパンとぶどう酒ではなく、罪の汚れを取り除く洗いであり、私たちのために裂かれ、流されたキリストの体であり、血であることがわかり、はじめて、神のお望みになる通りに味わうことができるのです。
それゆえ、説教は、聖礼典ではありませんが、聖礼典のようなものです。いや、それと一つのものです。聖書を説く言葉こそが、洗礼を洗礼とし、聖餐を聖餐としているのです。
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今日、私たちは聖餐を祝うことができません。そこで、私たち教会の一致を作り出してくださる聖餐によるキリストの現臨を味わうことはできません。けれども、私たちを一つにする神の言葉、聖餐が指し示す十字架による神と人、人と人との和解の言葉が、空しいものになることはありません。それは、今、こうして私たちが、それぞれの場にあっても、キリストの出来事を語る、聖餐と分かつことのできない、聖餐に先立つ、説教の言葉を聞いているからです。
私たちは、この生けるキリストの赦しの言葉に支えられて、この生けるキリストの十字架の言葉をそれぞれの場にありながら、聖餐に先立ち、たくさん蓄えるのです。それによって、次の聖餐に備える準備を、またある人は、まず初めに洗礼に備える準備を、今日この時も、いよいよ深めているのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、会堂から切り離され、兄弟姉妹の交わりから切り離され、聖餐から切り離され、私たちは自分が誰で何者であるか、忘れそうになりますが、あなたはわたしたちをお忘れるになることはありません。あなたの言葉はあらゆる隔たりを突き破り、二つのものを一つとする罪の赦しと和解の言葉です。洗礼、聖餐、説教、キリスト者の交わり、そのどれも、あなたの変わることのない御心を私たちに告げるものであり、その変わることのないあなたのご意思とは、キリストは弟子たちの目の前から去り、目には見えなくなるけれども、私たちを捨てて決してみなしごとはされないということ、世の終わりまで、私たちに伴ってくださるということです。そのあなたの御意志を私たちに味わわせるためのいくつものしるしを今、分かち合うことは困難ですが、あなたの御心を妨げることは、誰にも何にもできません。閉ざされた部屋のなかにも、訪れてくださるあなたの言葉と、あなたご自身のゆえに、私たちの礼拝を妨げることができることも誰にも何にもできません。私たちはあなたによって、弱い時にこそ強いのです。
どうぞ、今、この時、離れた所で過ごす、兄弟姉妹のための祈りを新しくし、この週も、互いのために、生きることができますように。
この祈りを、私たちのために体を裂き、血を流してくださった、今も生けるイエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。
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