6月28日(日) マタイによる福音書27章11節-26節
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昔、黒人霊歌と呼ばれ、今の讃美歌の表記では、アフロアメリカンスピリチュアルと呼ばれる讃美歌集の一つに、「あなたもそこにいたのか」というタイトルの曲があります。抑制の効いた美しい曲で、気がつくと、私もつい口ずさんでいることがある曲です。有名なゴスペルシンガーのマヘリア・ジャクソンも録音を何パターンか残していて、一般にもよく知られた曲だと思います。
キリストの十字架の一つ一つの場面を思い浮かべながら、「あなたもそこにいたのか、あなたもそこにいたのか」と繰り返し歌います。そして、「あなたもそこにたのか」と迫ってくる問いと共に、そのキリストの十字架の一つ一つの場面を、「いま思い出すと、深い深い罪にわたしはふるえてくる」と歌います。
この讃美歌では、十字架の出来事が単なる大昔の出来事ではなく、私に向かって、立ち上がって来たものとして「ああ、キリストの十字架は、私がそこに立ち会った出来事だった」と歌われているのです。過去の外国の歴史ではなく、現在の私の事柄として思い起こされ、歌われるのです。
ある人は、黒人霊歌の中にしばしば見られる、このような信仰の姿勢というのは、聖書の歴史と、自分たちの歴史が一体化してしまったような信仰であると言います。聖書の証言する神の出来事と自分たちの間に距離がないのです。こういう聖書との出会い方は、私も陥りがちなイスラエルの歴史、主イエスの歴史から、現代にも通じる信仰の恵み、生き方の模範を読み取ろうとする態度とは、一線を画するものだと思います。
もちろん、聖書を自分たちの糧として読もうという私たちも、聖書を、他の歴史書のようには扱いません。たとえば、聖書を読みながら、失敗する弟子たちの姿が出てきて、お褒めに与る群衆の姿が出てきて、これはどういう種類の失敗か?これはどういう種類の成功か?そして、これらからどんなことが学べるか?今の自分の信仰生活、日常生活に、どう生かすことができるか?私たちは普通、聖書を読みながら、その含蓄を読み解き、今の自分の生きる糧となることを求めると思います。その意味では、やはり、今の自分にとって意味のある聖書の読み方を志しているのです。
けれども、「あなたもそこにいたのか」という問いをもって、御言葉が立ち上がり、迫ってくるとき、その人に思い起こされてくるのは、自分自身の「深い深い罪」であります。そのような聖書との出会い方、キリストの出来事の思い起こし方の前では、今言ったような私たちの聖書の読み方は、だいぶのんびりした読み方であると言わなければならないかもしれません。
もしも、聖書が、「あなたもそこにたのか」と迫ってくるならば、そんなことを考えたり、問うたりする余裕はないのです。適用という言葉を使うならば、その時には私が聖書を適用するのではなく、むしろ、聖書が私を適用してしまう。私が聖書のメッセージを私の人生に当て嵌めるのではなくて、聖書が、私たちの日々を、御言葉の内に、当て嵌めてしまうのです。
具体的に言えば、聖書は、ペトロのことを語りながら、ユダのことを語りながら、群衆のことを語りながら、「これは他でもない。あなたのことを語っているんです。」と迫ってくるのです。そういう聖書との出会い方があるのです。
「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。ああ、いま思い出すと/深い深い罪に/わたしはふるえてくる。」
そして、これは全く、聖書自身、並びに教会の歩みに現れた信仰の核心を突いていること、私たちの礼拝の形そのものだと私は思います。
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ギリシア語でアナムネーシスという言葉があります。この言葉は、主イエスが、十字架前の最後の食卓で、パンを裂き、弟子たちにお与えになりながら、「これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」と仰った、「記念」という言葉の元の言葉です。
主が求めておられる「記念」とは、具体的にどういうことか?この言葉をもっと言い換えれば「想起」、「思い出す」ということです。
そしてこれが、私たちの礼拝を成り立たせる最も大切な要素とされてきたのです。キリスト教辞典などを開いてみれば、そのことが直ぐにお分かりになると思います。礼拝とは、アナムネーシスです。思い起こすことです。何を思い起こすのか?聖餐にあらわされたキリストの十字架です。
教会は、この主イエスのご命令に基づき、主が再び来られる日まで、主の十字架を思い出し続けることを、自分達の使命としました。そのための礼拝です。
けれども、私たちがこの礼拝の度にキリストの十字架を思い出すのだと言うとき、私たちはその十字架をどのようなものとして思い出すのでしょうか?
たとえば礼拝に来て、今日与えられた聖書の言葉を読みながら、キリストは、ポンテオ・ピラトという総督の前で、ほとんど何も喋らなかったのだとか、群衆は、無責任にも、主イエスを処刑し、犯罪者を釈放しろとわめきたてたんだったとか、ピラトは、手を洗いながら、「この人の血の責任は私にはない」と言ったのだとか、群衆は、「その血は、我々と我々の子どもの上に降りかかって良い」と言ったのだとか、そういうことを、思い起こすことになるわけです。
今日初めてこの物語を詳しく読んだという人もあるかもしれませんが、教会に三ヶ月くらい通ったことがある人ならば、ああ、そうだったそうだったと、誰でも思い起こすことのできる出来事であると思います。しかし、それで、神礼拝の最も重要な部分である、アナムネーシス、思い出すことをしたことになるのか?
もしも、キリストの十字架を巡る出来事を思い起こしながら、それを外側から眺めているだけならば、また群集心理は恐ろしいなどと、客観視しているならば、それはキリストの出来事を思い起こしたことにはなりません。
「あなたもそこにいたのか」と聖書が迫って来たときに、私たちは初めて主イエスの出来事を思い出したのであり、その問いには、「ふかい罪にわたしの心がふるえてくる」と応じることができるだけです。そしてこのような神の言葉の想起によって、目の前に立ち現れるイエス・キリストとの出会いが、教会を教会としてきました。
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古い教会の制度に告解というものがあります。これは、毎日の生活の中で自分が犯した罪を、司祭のところに行って、自分はこういう罪を犯しましたとはっきり告げるのです。
カトリックでは、サクラメントの一つとして数えられています。プロテスタント教会においてはこれは無くなってしまったかと言えば、そうではありません。たしかにルターは、サクラメントとしての告解は否定しました。また、司祭だけが、罪の告白を聴き、赦しを与える権限があることを否定しました。しかし、告解自体は否定しませんでした。だから、たとえば、ルター派のボンヘッファーという有名な牧師は、現代のプロテスタント教会において、告解が復活することを、願っていました。
では、私たち元町教会もその伝統に生きる改革派はどうかと言えば、個人が個人に罪を告白するという告解の制度は、残しませんでした。
しかし、それは、私たちが、自分が犯した罪を口で言い表す必要はないと考えたのではありません。むしろ、改革派教会の基礎をすえたカルヴァンは誰よりも、私たちの罪を真剣に問題としたのです。
カルヴァンは、私たちが、個人的に誰かの元を訪れ、やっとの思いで重い口を開いてするような罪の告白にまさって、私たちがしっかりと自分の罪を思い起こし、告白する場所が他にあると考えたのです。それは、今、私たちが行っている礼拝です。
主の日の礼拝に、私たちが集まって来て、まず、初めになすべきことは、罪の告白だというのが、カルヴァンの考えでした。彼は、簡潔な礼拝プログラムを作り、しかし、その中に、皆が起立して声をそろえて罪を告白する部分を作り、その為の文章を書き残しました。礼拝とは罪を思い起こし、告白する場所だと信じたのです。
私たちの属する連合長老会という群れが出した、主の日の礼拝式文からも、そのことがよくわかります。礼拝の始めに、神の招きの言葉があり、その招きへの感謝の応答である讃美があり、私たちの式順には今はまだないことですが、直ぐに罪の告白をする部分が来ます。
古い伝統の一つでは、ここで十戒を唱え、その一つ一つの言葉を読み上げるたびに、キリエ・エレイソン、「主よ憐み給え」と祈ったのです。日曜日ごとに神の言葉の前に神の憐みなくしては立ちえない罪人であることを思い起こしたのです。
今、私たちの教会で、この罪の告白に相当する部分は何になるのか?これは、言うまでもなく、聖書朗読後になされる長老の祈りです。
そこで祈られる必要があるのは、罪の告白と聖霊が光を照らして説教がわかるようにしてくださいと祈ることです。今は、丁寧な執り成しの祈りもここでなされていますが、執り成しの祈りは、献金後の祈りの中に位置付けることもできます。
いづれにせよ、礼拝とは、キリストの出来事を思い起こすことであり、その思い起こし方とは、単純に過去の歴史を思い起こすことではなく、聖霊が私たちの心を照らし出してくださることにより、十字架のキリストが今、私たちの目の前に立ち現れるのです。それはまさに、パウロが、ガラテヤの信徒への手紙3:1で、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示される」出来事です。これは、古い文語訳では、「十字架につけられたまいしままなるキリスト」です。私たちが礼拝する時、そういうキリストが、私たちの目の前に、立ち現れるのです。
あなたもそこにいたのか?そうだ。私は、ピラトだ。手を洗って、キリストの十字架の責任は自分にはないとアピールするピラトだ。そうだ、私は、十字架につけろと叫び、その血の責任は自分と自分の家族に降りかかっても一向に頓着しないと嘯いた群衆の一人だ。そうだ、人を傷つけ、世の中を混乱に陥れ、晒し者にされ、もう、どうにでもなれと、自暴自棄になっているのに、よくわからないけれど、罪の赦しを受け、分けもわからぬまま、茫然と、隣のイエスという方を眺めているバラバとは私だ。
そうだ。私はそこにいたんだ。これは私のことだ。その深い罪にふるえ、その深いキリストの愛にふるえてくる。それが、礼拝で起こる、アナムネーシス、思い起こすことです。
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興味深いことですが、今日の聖書個所で突然登場するバラバという印象的な人物ですが、この人は、前の口語訳聖書では、ただバラバとされていたところが、新共同訳からは、イエス・バラバとされました。これは、もともと少数の写本にそうあったのです。
けれども、後の教会が、この殺人を犯した罪人が、救い主と同じ名前であることを嫌がり、省略したのだろうと考え、新しい訳ではより原文に近いと見做しイエス・バラバと記す少数の写本の方を採用したのです。
バラバというのは、あだ名です。父の子という意味があります。こういうあだ名は、有名な律法学者の子どもによくつけられたもののようです。みんなから父と呼ばれるような、律法の教師の子ども、だから、バラバと言えば、今で言えば、牧師の子と言ったほどの意味であったと思います。つまり、バラバとは、律法学者の子のイエスということです。
子どもにつける名前の種類は現在ほど多くありませんから、重なることもある。だから、区別するためにあだ名がつけられたのです。イスカリオテのユダとか、ケファと呼ばれるシモンだとか。不思議なことに、ピラトによって引き出された罪人であったバラバは、イエス様と同じ名前であったのです。
ピラトは、二人のイエスを人々の前に引き出しながら、律法学者の子イエスか、キリストと呼ばれるイエスか、どちらを釈放して欲しいかと群衆に問うたのです。そして、バラバ・イエスが赦された。
これは、私たちのここまで考えて来たことにとって、たいへん大切なことであると思います。イエス・キリストの出来事というのは、他の誰でもない私たち自身のことなのです。
ここまで福音書の中に一度たりとも登場しなかったバラバが突然、キリストの裁判の真っ只中に呼び出されて、キリストの出来事に巻き込まれる。何が何やら理解できない内に、その出来事の中心に立たされ、自分の罪が自分と同じ名前を持つ方に肩代わりされて、自由にされる。
これは偶然ではないのです。バラバの、イエスという名前は、気分が悪いからと消してしまって良いようなものではない。キリストの出来事、キリストにおいて神が探しに来られた人間とは、他の誰でもない、自分は何の関係もないと思っているところから、突然、その中心に迎え入れられた、私のことなのだと私達に語る名前、それが、バラバ・イエスという人間の名前です。
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先ほど触れましたローマ教会の告解というのは、一般的に、度々行うようなものではないようです。年に一度は行うことが義務付けられているほどのものだそうです。
しかし、我々プロテスタント教会は、この告解に当るものを、毎週この礼拝で行う。さらに言えば、これは何度もご紹介していることですが、ルターは、その95か条の提題の第1のテーゼは、キリストが求める悔い改めとは、私たちの全生涯が、悔い改めになることだと、語っています。
このような悔い改めの礼拝と、キリスト者の日々の生活は、自信のない弱々しい人間を生み出してしまうでしょうか?いつもおどおどしている、喜びに輝くよりも、すまなそうな顔をしている卑屈な人間を生み出すでしょうか?
そうではありません。柔らかい人間を作るんです。しなやかな人間を作るんです。そして、へこたれない人間を作るのです。
私たちは責められるのに弱い。罪を指摘されることが、大嫌いです。自分のことをそれほど悪くない、まあまあ良い人間だと思いたいものです。
けれども、そのように思い込んでいる時に、私たちが犯してしまう罪ほど、残酷で、周りをひどく傷つけることになりやすいと思います。
出典は定かではありませんが、3年前に亡くなった私の父が、私が10代の頃、お釈迦様の話として教えてくれた話があります。
ある時、お釈迦様が弟子に尋ねます。焼けた火箸を、自分も人も、焼けていると知らずに、隣人に触れさせるのと、自分も人も焼けていることを知って、隣人に触れるように強要するのと、どちらが悪いか?常識的に言えば、知って強要する方が悪いのです。けれども、お釈迦さまは答えたそうです。知らずに触れさせる方が悪いんだ。なぜなら、知らずに触れるなら、その時の火傷は、知って触るよりも、ずっとひどいものなるからだと。
今、私はこのことを聖書を正しく読めるようになるために、深く心に留めます。十字架に至らんとするキリストを取り巻く人々は、誰一人、自分がしていることを本当には理解していない。けれども、自分の罪を知らないということは、どんなに残酷なことを、してしまうことになるか。
今の日本に生きる者として、今の世界に生きる者として、知らないということによって、理解していないということによって、今、どんなに大きな罪に私たちが加担していることになっているか?そのことを考え出すと、胸が苦しくなってくるようですが、それが十字架の元で明らかになるわたしたち人間の姿です。
しかし、その私たちの罪を暴露するキリストの十字架は、同時に、人間の神を殺そうとする最低最悪の罪を赦され、もう一度立ち直り、やり直せることを約束する神の福音です。
私たちの生涯が悔い改めであるとは、他の誰が赦してくれなくても、神は、神の前で、私たちが何度でもやり直せることを、そういうチャンスを与えてくださるということです。神はバラバにも、群衆にも、立ち直りを与え、もう一度やり直させてくださるのです。人間の本当の正しさ、人間の本当の強さというのは、ここにこそあると思います。
ごく単純に言えば、キリストの際限のない赦しの中で、自分の罪を深く知れば知るほど、私たちは優しくなれるのです。キリストが神にあって私たちの内に造り出してくださるその優しさが、私たちの責任を責め立てるように聞こえる隣人の嘆きの声を聴けるように、私たちの耳を開いたままにすることができます。また、逆に、私たち自身が隣人を責めたてることができるし、必ずそうしなければならない時にも、その正しさの主張のために、情け容赦がなくなってしまうことからも私たちを守ってくれるのです。
神は、今日、この礼拝で、キリストの御苦しみを指し示しながら、もう一度、私たちがここに立ち返ることができるように、「あなたもそこにいたのか」と、迫ってくださるのです。
祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま、自分に犯された罪ばかりに気を取られ、自分が犯している罪には、無頓着な私たちです。
その罪が、私たちが意識的に誰かを傷つけてやろうとしてしたことではなく、無知であるゆえに、しでかしてしまっていることであれば、なおさらです。
けれども、私たちの罪の心が最も露わになったそこに、キリストがいて下さり、それゆえ心を硬くせず、悔い改めができます。
御子に背負われた私たちであることを知り、悔い改めと赦しの内に、生きることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。
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