あなたの心を知るお方

4月24日 ヨハネによる福音書第2章23節~25節

一週間遅れての開催となりましたが、第三金曜日の読書会の新しいシーズンが、先週よりはじまりました。『信じても苦しい人へ』というタイトルのテキストを用い、その場で読み感想を分かち合っています。

第一回目はプロローグの部分を読んだだけですが、既にたくさんの印象深い言葉に出会いました。参加者それぞれに気づきが与えられたと思います。

たとえば、私にはこういう言葉が響きました。「神を信じることは、とても尊いことです。しかし信仰を自分の力で信じることだと理解してしまうと、どうしても出発点が『自分』になります。自分には確信をもてないのが人間です。だから自分から始まると確信がないので不安になり、苦しむのです。それは神を信頼しているようで、実は神より自分を信頼している姿なのです。」

なかなか考えさせられる言葉だと思いました。自己中心から神中心へ、自分の力から神の力に期待することを、全編に渡って語って行く本ですが、この序の部分においても、私たちの信仰の限界をよく弁えるように促す言葉であると思います。

これは、少し意外な言葉として響くかもしれません。挑戦的な言葉とすら言えるかもしれません。

私たちプロテスタント教会の者にとって、行いが神の恵みを頂く条件にならないということは常識と言って良いでしょう。

神の救いに与るのは、行いによらず、ただ信仰によるというのが私たちの信仰です。

改革者ルターが、パウロを読む中で、明確に読み取り語りました信仰義認の教えです。少し遠回りになるかもしれませんが、まずはこのことを確認しておきたいと思います。

神の戒めに従って善い行いをしなければならない。良い人間にならなければ、神の恵みを頂くことはできないというのは、おかしい。ただ、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、それだけで、神の救いの恵みを頂くことができる。

これが、私たちプロテスタント教会の信じるところです。ルターは、これを教会が立ちもし、倒れもする教えであると言いました。ルターが聖書から再発見した教えです。

数週前に、既に読んできましたヨハネによる福音書1:12にも、こうありました。

「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

ここで言う「言」とは、イエス・キリストのことであると、ヨハネによる福音書は書いています。

イエス・キリストの名を信じる人には、神の子となる資格が与えられると、この福音書は、最初に語ったのです。

信仰というものが、どれほど尊いものであるか、どれほど大切なことであるか。

もちろん、信じるという行為そのものが尊いのではありません。イエス・キリストの名を信じるということが大切なのです。

他の誰でも何ものでもなく、イエス・キリストの名を信じるというのでなければ、神の子となる資格などという類まれな資格を頂けるような尊さは、私たちの信仰心自身にはありません。

信仰義認を重んじると言っても、何を信じているか?誰を信じているか?という内容こそがとても大切だと、私たち教会は、きちんと弁えているつもりです。

その意味で、本日、この後に持たれます教会の定例総会において、私の準備した原案の元、長老会で話し合った末、新年度は教理の学びを意識して行こうという基本方針を皆さんに提案することにいたしました。

もう一年は、コロナの影響が続くでしょう。コンサートを開催したり、伝道集会を開いたり、そんな形で、人を積極的に教会堂に招くことはもう少しの間、しにくいかもしれません。

けれども、ただ漫然と一年の間、我慢して待つのではなく、このような時を利用して、私たちが伝えるべき信仰の内容、これだけ信じれば良いのだと語り伝える福音の中身そのものに対する理解を深めて行こうという趣旨の提案です。

教理というと、難しく聞こえてしまいますが、簡単なことです。

自分達が信じる神様について、筋道を立てて、理解できるようにすることです。

あやふやであるところをすっきりとさせることです。

それによって、誰かに問われた時、イエス様のこと、神様のことを、少しでもご紹介できるようになることを目指したい、伝道のための備えをしたいということです。

もちろん、伝道のためだけに役立つことではありません。自分自身の信仰の養いにも、大きな益があると思います。

教理に親しむことは、イエス様の愛について、恵みについて、聖書が要するに何を言っているかと、くっきりと理解することですから、神様への感謝が増します。そして、信仰の確信が増して行きます。

ぜひ、新年度の基本方針に賛成して頂ければと思います。

しかし、教理の学びをこれから志して行くに当たり、今日読みましたイエス様の御言葉も、決して忘れてはならないと改めて思わされます。厳しい戒めの言葉が与えられたと感じています。

23節後半からの御言葉です。

「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」

ここには、ヨハネがその冒頭で、神の子となる資格が与えられると約束した、イエス様のお名前を信じた人々の姿が語られています。

しるしを見て信じたとありますから、この信じた人々は、イエス様のなさった奇跡ばかりを信じて、イエス様のことを信じたわけではなかったと読みたい思いに誘われます。

けれども、福音書は、この人たちは奇跡を信じたと言わないで、はっきりと、「イエスの名を信じた」と言ってます。

名前というのは、有名無実というのではありません。名前は、古代社会では、その人の存在そのものをあらわすものでした。イエス様を信じたのです。この方こそ、神がお遣わしになったその人だと、エルサレムの人々は、イエス様を信頼したのです。

ところが、イエス様の方では、ご自分のことを信頼する人々を、信じることはなかったと言います。

なぜならば、イエス様は、「すべての人のことを知っておられ」、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」からだと言います。

ここでは、間違って信じてるような人たちだから、信用できないというのではありません。

もちろん、おそらくは、間違って信じているのです。たとえば、次回読みます3:1以下に出てきます、ニコデモのような信じ方をしているのです。

ニコデモは、主イエスの語る言葉にたじろいで言います。「どうして、そんなことがありえましょうか。」

彼は、イエス様の仰ることがよく理解できない。だから、飲み込むことができない。否定してしまう。

ニコデモは、イエス様を信じ、訪ねてきたユダヤ人の代表です。十字架で亡くなった主の遺体の処置に訪れるほどに、イエス様を深く受け入れた人です。けれども、そんなニコデモであってま、今の私たちに比べれば、イエス様について、このお方がどのようなお方であるかについて、知るべきことをまだ、きちんと知ってはいないのです。

その意味では、ニコデモを始めとする、しるしを見て信じたというエルサレムの多くの人々に関しては、まだまだ教理教育の余地があるのです。

イエス様のお名前を信じたと言っても、信仰生活は始まったばかりです。

けれども、この方に付いて行くことによって、あるいは後には弟子たちから教えられることによって、きちんとイエス様について、知るべきことを知ったら、教理教育を終えたと言えるようになったら、イエス様は、その人たちを信用なさるのだろうか?

イエス様というお方が、自分たちをローマ帝国から解放し、自分たちの理想的な国を作ってくださる政治的な解放者ではなくて、十字架によって、私たちの罪を贖い、永遠の命を与えてくださるという意味での救い主だと知るようになれば、信用に値する人間になったと言ってくださるのか?

おそらく、そういうことではないのです。

イエス様が私たち人間を信用なさることはないのです。

ここで多くの人が注目するのは、イエス様がその心を知っていたので信じなかったと、福音書記者が語るのは、しるしを見て信じた人々のことではなく、「すべての人」と言っているという点です。25節の「人間」という言葉もまた、全ての人間という意味だと、学者は指摘します。

イエス様が信じないのは、私たちがそう読みがちなように間違った信じ方をしている人を信じなかったということではなく、全ての人間だというのです。

だから、ある説教者は、このような厳しい厳しい言葉を書き記した福音書記者自身が、この言葉から、自分を除外することはなかったろうと言います。

そしてまた、これを読む私たちもまた、この自分についても言われていることだと、理解することを求めているだろうと言います。

もう一度、申し上げます。教理をきちんと理解していない者たち、イエス様がどのようなお方であるか、まだ、はっきりと理解していない者達に対してだけの言葉ではありません。

出来る限り正しくイエス様を理解し、そのお方を信頼する者たちに対しても、同じように語られているのです。少なくとも、福音書記者は、「すべての人」という時、自分たち教会を除外することはなかったのです。

正直、申しまして、私は自分でこのように語りながら、少し悲しい気持ちになります。

イエス様が私たちのことを信じてくださることはない。

私たちがどんなに深くこのお方を信じても、このお方の方が私たちを信頼してくださることはない。

こう語っていて、自分自身、ショックを受けているようなところがあります。

そこまで、信じて頂けないのかと、残念に思う気持ちがあります。

しかし、同時に、今既に、この聖書の言葉を、ここから、どんどん掘り下げて行くきますと、当然、私たち人間はイエス様の信頼を頂くにはふさわしくない者たちだいう結論に改めて至らざるを得ないだろうとも、わかっています。

それだけに、ある人は、今日読んでいる箇所は、有名なエピソードとエピソードの間に挟まれた、幕間のナレーションのような何気ない文章であるけれど、「聖書の中にこんなに厳しい、ある意味で恐ろしい文章はない」と言います。

「主イエスの澄んだ目が私たちをその心の深奥までも見透かしておられる。脳天から唐竹割に切り下げられたように己の正体を曝されて、私たちは主の前に立ちすくむ」と言います。

このことをきちんと弁えているか?これを弁えていないと、私たちは、自分の信仰にいつまでも、しがみつくことをやめることはできないと思います。

3金読書会の本の著者である中村穣牧師が、「神を信じることは、とても尊いことです。しかし信仰を自分の力で信じることだと理解してしまうと、どうしても出発点が『自分』になります。自分には確信をもてないのが人間です。だから自分から始まると確信がないので不安になり、苦しむのです。それは神を信頼しているようで、実は神より自分を信頼している姿なのです。」と言う時、それは、私たち人間の側が、この聖書の厳しい厳しい言葉に応じる人間の言葉ではないかと思います。

 

主のまなざしに晒されて、自分の信仰心にきちんと絶望しなければなりません。どんなに私たちが信仰深く、神学的に深く、正しくても、私たちの信仰も、私たちの正しい神学も、それが私たちのものであるならば、私たちを救うほどには、確かなものではないのです。

もちろん、主イエスは、私たちの信仰を喜んでくださる。このことは、間違いのないことです。しるしを信じる信仰、主イエスがもたらす利益を信じる信仰から、主イエス御自身を愛するようになる私たちの信仰の成長を主はお喜びになります。このことも間違いのないことです。

自分勝手な信仰、自分の理解したいように理解する信仰から、聖書に忠実な信仰、教会が2000年かけて、一所懸命に、聖書を読んできたその精髄である正しい教理に即した信仰を私たちが知るようになることを、主は必ず喜んでくださいます。

けれども、私たちの信仰を喜んでおられる主が、私たちの救いにおいて、私たちのその信仰や、私たちを頼りにすることを決してなさることはないということです。

私たちの救いは、行いによらず信仰によるという、ルターの信仰義認という教えを私たちは大切にします。

しかし、もしも、この教えを、私たち人間の救いが、私たちの信仰にかかっていると理解するならば、それは、間違っています。主イエスが決して、信用なさらなかったものを、頼りにし始めてしまっているのです。

これは、ルターや、カルヴァンという人たちの改革が中途半端なものであったから、もう一段、改革を進めて、信仰であっても、私たち人間の側から発せられるものに、救いの条件、神の恵みを頂く条件となるものを完全に取り除く必要があると言うのではありません。

なぜならば、実は、以外かもしれませんが、改革者ルターもカルヴァンも、人間の信仰を神の恵みを頂くための人間側の条件とはそもそも理解してはいなかったからです。

代わりに、一人の人の心に信仰が引き起こされること、それは、神の恵みの業であると信じたのです。

このことは、特にカルヴァンにおいて、はっきりとしています。カルヴァンは、いつでも選びを強調したというのは、長く教会に通う人は、何度も聞いてきたと思います。

 

カルヴァンの語る救いへの選びとは、神の救いは、私たち人間がまったく関係することのない、神の一方的な恵みによって私たちを救われるという、神の絶対の恩寵を語る教理の言葉です。

それは、カルヴァンが、神さまの選びが、信仰に先立つと、いつでも語ったということなのです。

誤解されることが多い選びの信仰ですが、これは、とても慰め深い教えです。

 

私たちの信頼ではなく、私たちの信仰ではなく、私たちの認識ではなく、主イエスだけが生命の源泉であり、主イエスだけが救いの錨であると力強く語っているのです。

 

既に一方的な選びによって私たちを捕らえていてくださる神への感謝の応答として、私たちの信仰が続くのです。

 

私たちの信仰は私たちの救いの源泉ではありえないのです。けれども、だからこそまた、十分に自分たちの信仰を吟味することも、できるでしょう。

 

私たちの信仰が究極的なものではないのなら、何度でも、最初から検証し直すこともできるのです。その際、たとえ、ずれた道に進んでいることが明らかになったとしても、その間も、神の恵みから外れてしまっていたと考える必要はないからです。キリストにある神の愛は、信用ならない者を愛しぬく愛、その独り子を賜るほどに、ふさわしくない者を愛しぬく愛だからです。

 

このキリストの愛の勝利は、将来のものではなく、2000年前のキリストの十字架において、既に打ち立てられたものです。

 

どんなに暗闇が深く見える時も、闇は光に追いつかず、闇は光に打ち勝たないのです。

 

この後に持たれます教会総会は、昨年度を振り返り、また新年度を展望するものとなります。

 

この時代、この教会に生きることを任された私たちの歩みは昨年度も、決して順調なものではありませんし、新年度も、雲一つないということはありません。

 

けれども、私たちの歩みがどんなに貧しく、欠けの多いものであったとしても、私たちがどうあろうと、私たちを見棄てることのない十字架とご復活のキリストが、先立って進まれる歩みです。

 

安心して、貧しきこの身を、お献げするのみです。

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