あなたの声が聴きたい

11月19日(日)召天者記念礼拝 

ヨハネによる福音書18章28節~40節  大澤正芳牧師

本日は、1年に一度の召天者記念礼拝です。

教会では毎週日曜日毎にここで礼拝を捧げ、いつでも、どなたに対しても開かれていますが、今日はとりわけ、在りし日にここで共に礼拝を捧げた教会員のご遺族、親しい方をお招きする礼拝としてお捧げしています。

神さまが定められたそれぞれの人生の行程を走り終えた方々が、この教会に結ばれて、この教会で主なる神様を礼拝することを大切にしていたことを、その故人の思いを思い巡らす年に一度の機会です。

しかし、そのためにすることは、いつも日曜日ごとにこの教会がここでしていることと違ったことではありません。天と地に分かれつつも、生ける者、死せる者を、一つのまなざしにおいて見ていてくださる神さまを礼拝するために私たちはここに集められたのです。そのため、今日お聴きする聖書の言葉も今日の日のためにと、特別に選ぶことはいたしませんでした。日曜日ごとにコツコツと読み進めてきた、ヨハネによる福音書の続きを、久しぶりにこの礼拝堂に集まってくださった方と共に、読み進めていくことにいたしました。

しかし、神さまはもっともふさわしい個所を与えてくださったと、私は感謝しております。

実は、既に、ご家族からお聞き及びのことと思いますが、私は、7年間仕えたこの教会を今年度いっぱいで、辞任することになりました。今日は、私がこの金沢元町教会の召天者記念礼拝で説教する最後の機会となります。そういう私にとっての、貴重な機会に神さまは本当に良い個所をお与えくださったと思っています。

この説教を準備するために、今日の聖書箇所を繰り返し黙想する中で、まだ洗礼を受けておられない教会員のご遺族と、私が膝を突き合わせて、お話したい、お伝えしたいと願っているその言葉がまさに与えられたと感じております。

もちろん、牧師は自分の言いたいことを、この説教壇から語る者ではありません。

聖書に秘められた生ける神の思いを、聴き取らせて頂き、それを教会の言葉として、つまり、先に召された皆さんにとっての親しい方々と共に、声を合わせて、今、私たちに語りかけておられる神の御言葉を届けるために仕えさせて頂くのです。

御子イエス・キリストご自身が、だから、そのお方を通してお語りになる父なる神様ご自身が、今日、ここに集まる私たちに聴かせたいと願っておられる言葉が、ここにあると、天と地にある私たちキリスト教会は、信じます。

主イエスは、主なる神様は、私たち一人一人と向かい合わせになり、私たち一人一人の目を見ながら、私たち一人一人の耳に向かって、この御言葉をお語りになっておられると私たち教会は信じます。

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

主イエス・キリストを裁判する裁判官であるローマ総督ポンティオ・ピラトに、その尋問の最中に主イエスが、ピラトに語りかけられた御言葉であります。

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

裁判官の席に着き、主イエス・キリストに尋問するピラトの問い、彼がこれから判断を決すべき、訴え、罪状とは、次のようなものでした。

「お前がユダヤ人の王なのか。」

すなわち、「お前が、偉大なる我がローマ帝国の一属州に過ぎない、ユダヤ州の王を名乗り、帝国に反旗を翻し、ユダヤ人たちに、武装蜂起と、抵抗を呼びかける危険な革命家なのか?」と問うたのです。

このような尋問中に、主イエスはピラトに語りかけられたのです。

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

この言葉を、私は主イエスが尋問中に語りかけた言葉だと、表現しております。

つまり、ピラトの尋問に対する、それに応答したふさわしい答えには見えない言葉であると、私には聞こえるのです。

確かに、ピラトの言葉が呼び起こした、主の御言葉であります。

「ユダヤ人の王か」と尋問され、言わば、「あなたがわたしをユダヤ人の王と言っているのか?」と、答えたのです。

つまり、確かに、ピラトが、尋問したように、ここでの二人のやり取りは、主イエスがユダヤ人の王であるかどうかを巡るものでした。

ユダヤ人の王を自称し、暴動を扇動したという罪で、裁判にかけられておられるのです。

それにも関わらず、この箇所を読んだどなたでもお感じになることだと思いますが、ピラトと主イエスののやり取りは、どこかちぐはぐ、どこか噛み合っていないようにも見えます。

「お前がユダヤ人の王なのか。」

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

この裁判の結果、主イエス・キリストは、ローマ総督による正式な裁判と判決として、十字架家に処せられることが決しました。

御自分が生きるか、死ぬか、ピラトがそう願ったように、無罪放免となるか、祭司長たちの企み通り、処刑されるかが決する決定的な場面でした。

その観点から言うならば、主イエスのお答えは最善のものとは見えません。

裁判に決定的に不利に働く答えとも言えませんが、かと言って、有利に働く答え出ないことは確かであると思います。

私たちはこんな風に噛み合わない場面を見ると、聖書というのはやはり2000年前の古代人の文書なのだなと思ったり、しかも、アジア人である私たちにとっては、この地中海世界の感覚は、違うところがあるようだなどと、軽くスルーしてしまうかもしれません。

けれども、このちぐはぐさ、違和感、ざらつきにじっくりと留まり、思い巡らすとき、私はあることに気付かされます。

主イエスというお方は、どうも、ここで自分が釈放されるか、処刑されるかなんてことには、大きな関心をお感じになっていらっしゃらないのではないか?

自分の生き死にを思い、慎重に答えようという関心はまるでなくて、ちょっとこんな風に表現すると、この牧師は、不敬虔過ぎると思われてしまうかもしれませんが、主イエスは、考えなしに、ほとんど反射的に、ピラトの言葉に飛びつくように、お答えになっているように感じるのです。

「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

主イエスには、ピラトとは全然違う関心があるのではないか?

そこにいた誰とも全然違う関心をこのお方はお持ちなのではないか?

つまり、この時、主イエスというお方が、集中し、我を忘れるほどに、関心を傾けておられるのは、「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの尋問の言葉が、御自分の裁判のための罪状書きの言葉ではなく、ポンティオ・ピラトというこの異邦人による、信仰の告白の言葉として語られているかどうか、いいえ、この言葉をぜひ、ピラトの信仰告白として受け取りたい、受け止めてしまおうという前のめりな、主イエスの言葉に思えてならないのです。

ピラトよ、あなたがわたしをユダヤ人の王だと自分の口で言ってるんだね。それとも、他の者が語ったその告白の言葉を聴いて、私の元に来てくれたのだね。さあ、答えてほしい。あなた自身の言葉で、もう一度聞きたい。あなたの声が聴きたい。

そういう主イエス・キリストの御言葉のように、私には聞こえます。そして、そのような御言葉として聴くならば、この二人の会話は少しもちぐはぐなものではありません。

こんなにもはっきりとした会話はありません。

こんなにも、主イエスの思いが明確に伝わってくるような会話はありません。

御自身の命の危機に際しても、我を忘れて、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、私たち人間の信仰の告白をひたすら求め、待っていてくださる、主イエス・キリストのお姿が、ここに見えるように思うのです。

37節以下でも、同じです。

「それでは、やはり王なのか」とピラトが尋ねると、主は再び、「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」と、御自分を訴え、尋問する罪状書きを、あたかもピラトの告白として、キリストは数えてしまうのです。

夢中で、ピラトの信仰を探しておられる主イエス・キリストの御姿がここに見えると私は思います。

神はその独り子をたまうほどに世を愛された。

主イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。

このところに至るまで語られてきた聖書の言葉、主イエスの御言葉、その主イエスの御姿と、一つに重なりながら、ピラトを熱心に求める主イエスの御姿をここに見るように思うのです。

そして、このような愛の御姿こそ、真理、真実の言葉です。私たちがどんなに不誠実でも、私たちに誠実を尽くしてくださる神の声、神の御意志、そのものであります。

ピラト自身、この主イエスの思いに気付いていたかどうか?

私は何となく気付いていたのではないかと想像いたします。

なぜなら、35節でピラトは「わたしはユダヤ人なのか」と言い返しているからです。

主イエスが自分に告白を求めていることを感じ取り、「関係ない」って突っぱねているんです。

「わたしはユダヤ人じゃないから関係ない。あなたがユダヤ人の王であるか、どうか、わたしはローマ人だから関係ない。」

実際に彼は本来は自分が関係すべきでない裁判に駆り出されていると感じていました。

これはユダヤ人たちの信仰の問題なんだ。自分が介入するようなことではない。

今日の出だしの28節を見ますと、ユダヤ人の信仰の問題において、異邦人がどれだけ蚊帳の外の存在であるかは、当時、誰もが知っていることであることがわかります。

主イエスを捕らえ、ピラトの元に連れてきた人は、総督官邸に入らなかったと書いてあります。

そこに入れば、汚れてしまい、大切な過越しの祭りに参加できなくなると思っていたからです。

ユダヤ州を統治するローマ総督だろうが何だろうが、彼らの信仰によれば、異邦人は汚れた者、その屋敷も汚れていると考えられました。

触れたくないのです。だから、入りませんでした。

主イエスを有罪にするために訴え出た「ユダヤ人の王」という称号もまた、政治的な称号であるだけでなく、極めて、信仰的な色彩を持った称号であることを、ピラトはよく理解していました。

主イエスをユダヤ人の王と呼ぶことは、そのユダヤ人達の信仰において待ち望まれたメシア、救い主であることを意味することをピラトは理解していました。

それゆえ、「わたしはユダヤ人なのか」と言い返しました。

その屋敷にすら汚れるから入りたくないと、陰では自分たち異邦人のことを思っているユダヤ人の一人である主イエスが、まるで、ピラトがユダヤ人であるかのように、主イエスの元に立ち返るべき神の民の一人であるかのように、「それはあなたの言葉か。あなたがわたしをユダヤ人の王と告白するのか。」と前のめりに尋ねるので、「わたしはユダヤ人なのか」と、言い返したのだと私は読みます。

そうです。主イエスは、ピラトを数えているのです。御自分の民の一人として数え入れようとなさっているのです。

その生涯をかけて、続けて来られたことをここでも続けておられ、その十字架において完成しようとなさっておられることを、ここでも、ピラトに対して始めておられるのです。

つまり、ピラトに出会おうとされているのです。

この一人の異邦人と、顔と顔とを合わせた人間関係を始めようとされておられるのです。

父なる神と子なる神の麗しい一体、麗しい愛の交わりの中に、この異邦人を招き入れようとしておられるのです。

そのことばかりに関心があり、そのことばかりに熱中しておられる裁判の席の主イエスであられます。

36節、「わたしの国は、この世には属していない。」

主イエスがお求めになっているのは、土地ではありません。その土地に生きながらえることではないのです。

ピラトをお求めになっているのです。ピラトと顔と顔とを合わせた人格関係を始めることを、お求めになっているのです。

「あなたがそう言ってくれているのだね。この告白は、あなた自身の告白だ。」

このような主イエス・キリストの出会いを求める熱心は、無駄になることはありませんでした。

十字架によっても、この熱心が挫折してしまうことはありませんでした。

いいえ、この十字架によってこそ、神はその誠実を尽くされ、40節の犯罪人バラバの解放の出来事に象徴されるように、真の罪人を、赦された者、神の愛し子して、数える愛の貫きであることを証しされたのです。

このお方に見つけられ、このお方に解き放たれ、このお方と語り合い、このお方と共に人生を歩んで行く者が次々と生まれて行くために、このお方が誠実を尽くしてくださったのです。

このような主イエス・キリストの出会いの熱心は、その死によっても途絶えませんでした。

なぜならば、これは、不思議にも私たちとの人格的な出会いを求める神ご自身の熱心であり、神はその独り子を死者の中からお甦りになさせ、生ける者と死ねる者との、主となさったからです。

この主の熱心は、主が天に昇られた後も、続けられ、その出会いは、出会った者を同じ熱心へと感染させて行きました。

主イエス・キリストの十字架とご復活と昇天の後の教会の歩みを語った使徒言行録では、このご復活の主イエスと出会った一人の男、パウロという人間が、同じように裁判の席で、自分の処遇に頓着せず、アグリッパという領主をクリスチャンにしてしまおうとして、たじたじとさせたという出来事が記されています。

その主イエスの感染する熱心、生けるキリストとの出会いの連なりの中に、この金沢元町教会もまたあります。

生ける主イエスとの出会いの連なりの中に、召天者記念名簿にその名を連ねる親しい者たちがあります。

しかし、それだけには終わりません。

今年発行されました金沢元町教会135年史の巻頭言の最後に私は次のように書きました。

「私たちの祈りは、アブラハム、ヤコブ、ヨセフの神、またここに文章を収められた一人一人の名前を持って呼ばれる神が、あなたご自身の神であることが、よくお分かりになるようにとのことです。」

ここにいる洗礼を受けたキリスト者たちに、また、もうここにはいない召天者名簿と天に名を移した皆さんの親しいお一人お一人が、ある日、ある時、出会い、呼びかけられ、そして、御自分の言葉で、御自分の声で、生ける神にお答えになったように、神は、今日、呼びかけておられます。

今日、この礼拝で共に歌った讃美、告白した信仰告白、捧げる祈り、それはあなたの告白だね。

あなたの父、母、あなたの祖父、祖母、あなたの夫、妻、あなたの子、あなたの友がしたその告白を、今、あなたはあなたの口でしてくれるんだね。私は待っていた。私の宝であるあなたの声が聴きたいんだ。

身を引く必要はありません。

否定する必要はありません。

答えることに失敗しても、何度も何度も、主イエスは問いかけてくださいます。私たちの不器用な答えを、真の信仰として前のめりに数えてくださいます。

これはあなたの告白だね。待っていたよ。ありがとう。

前のめりに私たちと出会おうとされる、前のめりに私たちを求めてくださる救い主、私たちの永遠に共なる神である主イエス・キリストと、父なる神の言葉の内に、御自分が既に数え入れられていることを、思い巡らし、味わうことだけが、ここにいるすべての者にとって、自然で、ふさわしいことなのです。

祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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