5月7日主日礼拝 ヨハネによる福音書12章44節-50節 大澤正芳牧師説教
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たのである。」
主イエス・キリストは、このようにお語りになりました。
そして、このイエス・キリストの言葉は、49節、「自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった」言葉であると仰いました。
あなたたちを裁くのではなく、あなたたちを救うために来たと語るわたしの言葉は、御父の意思、御父の言葉そのものであると、仰いました。
その際、この方の言葉というのは、単にその言葉だけでなくて、語ったこと、為したこと、主イエスの存在丸ごとのことです。
この方の一挙手一投足、全てが天の父の言葉なのです。
しかも、イエス・キリスト、このお方の全身全霊において露わになった父なる神さまの心は、断片的な御心でも、不完全な御心でもないと仰います。
なぜならば、44節、45節にこのように語られているからです。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
主イエス・キリストは、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのだと仰います。
わたしを信じる者は、主なる神ご自身を直接信じることだ。
わたしの言葉を聴く者は、主なる神ご自身の言葉を直接聴いているのだ。
この方の存在丸ごとにおいて、私たちに露わにされる神の言葉、神の意志は、それ自身、神の心の100%だと仰るのです。
主イエスを見た者は、神を見たのだと。
もちろん、この場合の「見る」とは、この肉体の目で直接見るということではないでしょう。
なぜならば、その意味では、私たちは、イエスさまを見ることもできないからです。
しかし、ヨハネによる福音書の特徴は、いつでも、今、ここに私たちと主イエスの出会いが与えられると語るところにあります。
だから、この場合、主イエスを「見る」ことが許される者は、十字架におかかりになる前の主イエスと共に生きた人たちにだけ限定されません。
今日の聖書箇所は、主イエスがユダヤ人の前から身を隠されたという言葉に続くものです。
だから、一つの言い方をすれば、物語の時間の流れから一旦離れて、お甦りの主イエスが、この福音書を読む者に、直接お語りになっている言葉として聴くように招いている言葉だということができます。
「今、わたしを見るあなたが神を見るのだ」と。
だから、この私たちが今、この時、主イエスを「見る」のです。
けれども、それは、特別な神秘体験に招くものではないと思います。
この場合の主イエスを見るとは、この肉眼で主イエスを見るということではなくて、今まで分からなかったことが分かった時、ぼんやりにでも知るべきことがわかって来たときに、英語で、”I see”、「見えてきた、見えてきた。なるほど、わかった。」というのと、同じようなことだと理解すれば良いと思います。
主イエスのことが見えるようになるとは、主イエスの心が理解できるようになること、すると、神さまの心が見えてくるのです。
もちろん、このお方のことがわかるようになるというのも、単なる知識、情報としてわかるということではありません。
聖書が一貫して語る、神様の本当の知り方、分かり方というのは、「ああ、わかった。しみじみと分かった。肚に落ちた。」という深い分かり方のことです。
歳はいくつで、どんな学校を出ていて、職業は何で、家族は誰で、どんな賞罰を持っていて、、、
そういうことではなくて、「ああ、この人がどういう人かしみじみと分かった」と、自分の肚の底から分かったと言えるような分かり方です。
私たちが誰かに対して、そういう分かり方ができる時は、結局のところ、この私と、あるいは私の大切なものと、その人がどう向き合ってくれるか、そのことが分かった時ではないかと思います。
この私に向けられたある言葉や、ある行動を通して、その心の根っこ、その本音が伝わってくるのを感じた時ではないかと思います。
だから、主イエスのことが分かったというのは、私に向けられたこの方の本音がわかったという意味で、イエス・キリストのことが分かるということです。
そうすると、神さまの心が100パーセント分かったんだというのです。
もちろん、神はその本音をお隠しになりません。
御子をこの世にお遣わしになる前から、天の父は、預言者を通して、ご自身の心をお語りになりました。
創世記から黙示録に至るまで、聖書の神様は方便をお使いにはなりません。本音しかお語りになりません。
しかし、様々な状況において、個性豊かな預言者たち、聖書記者たちによって証言された神の言葉は、広く深く豊かでありますから、すべては神さまの本音だとは言っても、その全体像を把握するだけで、骨の折れることです。
聖書の言葉の、一場面、一断片、一つの言葉や、出来事だけ取り出せば、私たちに対する神の思いを誤解してしまうということもあるでしょう。
それに、また、たとえば、使徒パウロという人は、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分」(Ⅰコリント13:9)とも語りました。
どんなに長いと言っても、一日一章づつ読めば、三年程度で読み終えてしまう聖書の言葉が、永遠なる神さまの御心の全体なのかと問うこともできます。
神様の本音をわかったと言える難しさはそれにとどまりません。
そもそも神の言葉を聴く私たち自身が罪で歪んでしまっているために、神さまの言葉を、その心を正しく受け止めることができません。
それが、ヨハネによる福音書のここまでのまとめと言える前回の箇所の指摘ではなかったかと思います。
ところが、神さまの言葉、神さまの心の受け取り手である私たちの側の様々な制約にも関わらず、主なる神さまは私たちにその御心をお示しになることを諦めようとはなさいません。
そのために、わたしは送られてきたのだと、イエス様は仰るのです。
神の御心が、私たち人間に高くて届かないならば、思い切り身を屈めて、届くようにする。
その御心が広すぎるならば、全体が隈なく見えるように小さな小さな形に凝縮する。
たくさんの預言者を遣わしても、なお、神の心の全体を語り尽くすことができないのなら、人間の分際のために神の心を理解しきれないならば、あなたにも、わかるようにしようと、神は身を屈められるのです。
それが、わたしだとイエス・キリストは仰るのです。
この世界の秘密、この私たち一人一人が存在しているその本当の意味が明らかになる、そういう神さまの本音中の本音がわかるようにする。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
わたしに聴きなさい、わたしを見なさい、わたしを信じなさい。そのとき、あなたたちは、神の本音にぶつかったんだ。神に出会ってしまうんだ。そこで、神と共に生き始めるんだ。
そのように主イエスはご自分を、神の心そのものとして私たちに差し出しておられるのです。
既に、主イエス御自身がヨハネによる福音書の初めの方で、仰ていました。
5:39です。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」
このイエス・キリストという神の本音中の本音が、神の100%の御心であり、聖書66巻の豊かな言葉を読み解く鍵です。
そのお方が47節で仰います。たいへん大切なことを仰います。
改めて、ご自分の存在丸ごとの言葉が、何を語っているかを、私たちが誤解なきように、ここでこそもう一歩踏み込んでお語りくださいました。
「わたしの言葉を聴いて、それを守らない者がいても、わたしはそのものを裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
49節、50節、「わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになった…父の命令は永遠の命である…」。
これがわたしに命じられた言葉だ、これがわたしに託された神の言葉だ。
世を裁くためではなく救うためだ。世を裁くためではなく、永遠の命に生かすためだ。
それが、天の父によるわたしの派遣だ。
聖書には神の裁きを語る部分があります。旧約だけではなく、新約にこそ、決定的な裁きを語る言葉があります。
まさに今日の聖書箇所の直前の箇所で、福音書記者ヨハネは、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」という預言者イザヤの裁きの預言が、主イエス・キリストを受け入れず、信じなかった人々の上に、決定的に実現したのだと語っていました。
もちろん、これも神の本音です。しかし、先週も申し上げましたように、これが神さまの御心の最終的なものではありません。
神は、真実で真剣な裁きの言葉を包み隠さずお語りになりながらも、それで、ご自分の御心を語り尽くしてしまったのではなく、それはまだ、途中なのです。
そこには句読点が打たれています。だから、それ自体が独立した、完結した神の一つの御心を語っているように見えることがあります。
しかし、それは、あくまでも、息継ぎのための句読点、つまり、読点、カンマ、これから語ることの背景となるためだけの文の途中の息継ぎのためのカンマです。
神の厳しい裁きの言葉は、区切られた独立した言葉に見える時でも、必ず従属文、副文なのです。
ピリオドが打たれる主文、メインセンテンスは、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」であり、「父の命令は永遠の命である…」なのです。
主イエスがここで仰っているのはそういうことです。
二つ目の言葉、「父の命令は永遠の命」という言葉は、実に、味わい深い言葉です。
命令というのは強い言葉です。厳しい言葉です。それが、「永遠の命」という恵みそのものの言葉と結びついて、主の口から語られました。
永遠の命、天の父と、御子と、この私たちが、深く深く心を通わせる命、天の父を我が父とし、キリストを我が兄弟として生きる今、ここで始まる命です。
この親しい神との人格関係を意味する「永遠の命」と結び付けられた「命令」という言葉は「掟」とも訳せます。神の戒め、神の律法を思い起こさせる言葉です。
律法と言えば、聖書を読む者は誰でも、主イエス御自身がユダヤ人たちの律法主義を厳しく批判されたことを思い起こします。
しかし、そのお方が、ここでは天の父のご命令、律法を、永遠の命であるとお語りになりました。
ここで主イエスは、神の掟、神のご命令はどんな厳しいものでも、救うための言葉、永遠の命を目指す言葉だという律法の本当の読み方を教えて下さっているとまずは聴くことができるでしょう。
私たちがここまで聞いてきたことと一致することです。
しかしまた、こういう読み方もできるのではないかとも思います。
すなわち、この命令、掟とは私たち人間に対する神の命令のことではない。
そうではなくて、天の父が御子イエスにお語りになった厳命、これだけを語るようにと託された父の心の中の心、それこそ「永遠の命」だという読み方です。
天の父と御子イエス・キリストは、天の父と心を一つにしながら、天の父よりの命令として救いに熱中されるのです。私たちを御父と御子の永遠の命の交わりに迎え入れることに集中していらっしゃるのです。
主ご自身が、御自分に厳しく銘じておられる。
「この罪人を救う。このわたしに逆らう世を愛する」と。
いずれの読み方にしろ、誤解の余地はありません。
聖書のどこを読む時も、神様のどんな言葉を聴く時も、また、この人生にどんなことが起ころうとも、誤解の余地はありません。
神の本音、本音中の本音、要するに、結局、煎じ詰めれば、「あなたを救う。あなたと生きたい。」これが、神様の心です。この神の思いは、いかに人間の罪が深くとも、それを突き破って飛び出ます。ピリオド。
ある人は、今日の聖書箇所を読みながら、言います。
直前の43節までが、ヨハネによる福音書の一つの結論であった。
人間たちは、神からの誉れよりも人からの誉れを好んだ。だから、主イエスを信じず、主イエスを立ち去らせてしまった。
主イエスの言葉を聞かず、主を立ち去らせたことによって、彼らは、神との深い交わりを拒否し、自らを永遠の命から切り離した。
しかし、このような人間からの断絶に出会った時、そこから立ち去ってしまったはずのキリストが、突然、唐突に、叫ばれた。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来た」であり、「父の命令は永遠の命である…」
この叫び、この大声は、人間を救おうとするキリストの心の渇望である。
突き破って飛び出るキリストの、また天の父の心の渇望です。
キリストの言葉が死せる言葉となって私たちを裁く時、聖書の言葉が裁きの言葉とだけ聞こえてしまう時、この方は、来られます。
生ける方として来られます。そして、私たちを永遠の命の中に、捕らえに来られます。
その方の姿を今、ここで見るならば、今、ここにその方の熱い心のほんの一端にでも触れたならば、その時、私たちは神を見たのです
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