祝福にいたる歴史の始まり

2024年5月26日(日) 松原 望牧師 創世記12:1~3 マタイ1:1~6

4月から旧約聖書の創世記を少しずつ読み進めております。今日は創世記の12章1節から3節を読んでいただきました。創世記1章2章は神様が天地を造られたという出来事が記されており、そこでは人は神に響きあう関係に造られた。また隣人との関係も響きあう関係に置かれた。またその他の被造物との関係も良いものであったということが記されておりました。

3章から11章にかけては人間の罪ということが記されております。罪というのは単なるルール違反として言われているのではなくて、神様のみ心に正しく応えることができなくなってしまった、そして神のようになろうとする、そういう人間の欲望を罪という言葉で言い表しております。ルール違反というのもその結果というふうに言って良いかと思います。とにかくこの聖書が罪という言葉で言い表そうとしているのは神様と私たちとの関係がもう響きあう関係ではなくなってしまった、そのために神様のみ言葉に正しく答えることができなくなってしまった、そして神様を信頼することをせずに、自分自身の欲望のまま、あるいは自分自身が神のようになろうとする、そういうことが全ての最悪となって現れたということが記されていたわけであります。

創世記4章では兄弟が兄弟を殺すという事件が起こっております。そしてその中では復讐の論理というものが出てきます。カインの復讐が7倍ならばでレメクの為の復讐は77倍。単に復讐にとどまることはなく、そしてそれはどんどんひどくなっていく。復讐は復讐を呼んでいくという、そういう私たちの世界で起こりがちなことがそこに記されているわけであります。洪水の出来事、そしてまた11章ではバベルの塔の物語が記されておりました。とにかくこの4章から11章においては人間の罪がどんどんどんどん大きくなっていく、そして人間の生活もまた悲惨なものになっていく。そしてその人間は散らされて全地に広がっていった、というところで創世記11章は終わっているわけであります。

きょう読んでいただきました創世記12章というのは、そういう罪の歴史が描かれているところに新しい展開が始まったということを告げております。厳密に言いますと11章の最後のところにアブラハムに至る系図が記されております。まあ、そこからすでに始まっているということが言えるかもしれません。しかし最も重要なことは創世記12章において神様がアブラハムを選んだということであります。先ほど読んでいただいたところでは、アブラムという名前になっておりました。後からアブラハムという名前に変えられるわけですけれども、今日はもうアブラムという名前のことは一旦置いといて、アブラハムという名前で通して話を進めていきたいと思っております。

このアブラハムが選ばれたということが記されている創世記12章というのは、とても重要なものであります。そこではまず第一に神様がアブラハムを祝福します。そしてそのあとで「あなたは祝福の源となる」ということが言われ、全地のすべての人々はあなたによって祝福に入るというふうに言われております。ここに神様のアブラハムに対する約束が記されており、このことからこの創世記12章の1節から3節をアブラハム契約というふうに呼ばれます。まあ、この後、旧約聖書の中では何度も神様が契約を結ぶということが出てきますので、そのたびごとに学者たちはいろんな名前をつけます。エジプト脱出をしシナイ山において神様が契約を結ぶ。そういう出来事を聖書には書いてないんですけど学者たちの間ではシナイ契約、シナイの、シナイ山において神様が契約を結んでくださったということからシナイ契約といい、あるいは神様がダビデに対して約束をする。契約を結ぶ。そこからダビデ契約というふうに呼ばれます。その他にも数多くの神様の約束が出てきますけれども、特に名前を付けて覚えられるのは今挙げたシナイ契約とそれからダビデ契約があれば充分かと思います。

今日のところのアブラハム契約というのはその中で最も重要なものというふうに言って良いかと思います。まずこのアブラハムに対する契約では神様がアブラハムを祝福するというふうに出てきます。なぜ神様がアブラハムを選んだかということについては何も記されておりません。ノアの時もそうでしたけれども、特にアブラハムがこういう素晴らしい人間だったから、といって選んだというふうには記されておりません。ずっと後の方になりますとアブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められたという言葉が出てきます。これは新約聖書にも引用されているとても大切な信仰の言葉っていうふうに言ってよいかと思います。そこで初めてアブラハムは神様から義と認められた、正しい人間と認められたというふうに出てくるわけです。

しかしこれは今日の創世記12章からするとずっと後の出来事であります。そうしますとこの創世記12章のところで神様がアブラハムを選んだということについて、なぜ神がアブラハムを選んだかというその理由については何も記されていないということであります。この創世記に記されているアブラハムの生涯をたどっていくとアブラハムはそんなに素晴らしい人間だったのか、というとそういう素晴らしい人間だったと評価することも当然できるわけですけども、いや私達と全く同じように失敗もすればまた自分可愛さに妻を売り渡してしまう、売り渡すというのはちょっと語弊があるかもしれませんけども、権力者にさしだすというようなことも起こしておりますので、まあそういうことを見ているとアブラハムといえども決して理想的な人物ではなかったということがあります。

聖書も特にアブラハムは自分たちの父だと高く評価はするもののアブラハムを理想的な人間というふうには必ずしも言っていません。それは後から旧約聖書の後の方に出てくるダビデ王の場合もそうです。王様としては理想的な王のように描かれることもありますけども、しかしそのダビデの生涯においても旧約聖書は決して理想的な王として描いてはおりません。失敗もしますし、残酷なこともしております。そのことについてはまたダビデの話をする機会があったときにすることにしますが、とにかくアブラハムにしろダビデにしろなぜ彼らが選ばれたのか、そのことについては聖書は語ろうとしておりません。

神様もアブラハムをお選びになる時にこうこうこういう理由だから私はあなたを選んだという言い方をしていないのであります。なぜアブラハムが選ばれたのか、それは神のみぞ知るということになろうかと思います。大切なことはなぜ彼が選ばれたかということではなくて、選ばれた彼は何をしたかということのほうが大切なのです。ですから聖書もなぜ彼が選ばれたかについては何も語りません。けれども選ばれたアブラハムは何をしたかということをそこに記しているわけであります。

神様に呼ばれてそして神の民としての第一歩を歩み始めたアブラハムは神の言葉に聞き従っていたということがそこに記されております。もともとの出発地は、ペルシャ湾に近いチグリスユーフラテス川という二つの川が流れているウルという町が出身地であったというふうに記されております。今の中東にあたるところですね。でそこが元々の出発地であり、そこからその川をさかのぼってシリア・トルコのあたりまで行って、そこから南に地中海の東海岸に沿って南の方へ下って、今はパレスチナと呼ばれていますけれども、当時はカナンと呼ばれていた所へと旅を始めていくということであります。

もともとカナンへ行くつもりであったということがまあ聖書に記されているわけですけれども、しかし同時に聖書は神がアブラハムに私が示す地に行きなさいと言ったという風に記し、そしてアブラハムはその言葉に従ってカナンへと向かっていったということをわざわざ書いているわけであります。その前にアブラハムはカナンへ行こうとしていたということがわざわざ書いてあるわけですから、神様の命令を待つまでもなかったと思いますけども、しかし聖書が言いたかったのは、アブラハムは神の言葉に従って行動したということでありました。生まれ故郷であるウルから遠く離れた地に行くわけであります。ですから当然不安もあったに違いありません。しかし彼は神様の言葉を聞いて、神様の言葉に従ってカナンへと向かっていったということであります。

そこで何をするのかということはその時にはまだ明らかにはされていませんでした。しかし神様の御心は今日の創世記12章の1節から3節に記されております。私はあなたを祝福の源とするという言葉であります。私たちの聖書はあなたは祝福の源となるというような表現をしております。もともとの言語で読みますと、私はあなたを祝福の源とするという神様の意志がはっきり現れた形の言葉になっております。

もう少し厳密なこと言いますと、私たちの聖書では祝福の源という翻訳をしていますけども、実はもともとの言葉では「私はあなたを祝福とする、あなたは祝福となる」、まあこういう言葉になっております。

昔、口語訳聖書というものがありまして私が洗礼を受けた時にはまだ口語訳聖書が一般に使われておりました。その時には祝福の源という言葉ではなくて祝福の基、基礎の基ということですね。土台という意味の言葉ですけども、祝福の基というふうに翻訳されていました。もちろんこれも意訳であります。解釈によってまあそういうふうに理解をしてそういう翻訳をしたということであります。

すなわち神様はアブラハムを祝福するだけではなくて、すべての人々を祝福する源、祝福する土台とするという神様の意志がこの言葉に示されているということから、基と言う言葉を付け加えたり、源という言葉を付け加えたりしているわけです。

ずいぶん前になりますけども私が親しくしている牧師が自分の息子に基という名前をつけました。彼もまた創世記12章1節から3節がとても好きで、まあそこから自分の息子に「もとい」という名前を付けた。そういうふうに言っていたわけです。しばらくすると新共同訳聖書が出て「もとい」という言葉がなくなって源という言葉に変わりました。その時彼はプリプリ怒って、息子の名前が消された、まあそういうふうにプリプリ怒ってたんですけど、最近またあの聖書協会協同訳というものが出てますけども、その聖書教会共同訳では口語訳の時と同じように祝福の基という風になっております。やはり源という翻訳が、あるいは評判が良くなかったのかもしれません。これは私は分かりませんけれども、わざわざ口語訳に戻したということはまあそういうことがあったのかもっていう風に勝手に推測しているわけです。

けれどもとにかく源と翻訳するか基と翻訳するか、ともかくもアブラハムは祝福されただけではなくて、すべての人々が祝福されるその土台となる、礎となる、まあそういう神様の意図がここに示されていたということであります。

そして3節のところではすべての種族があなたによって祝福に入る。まさに祝福の基、あるいは祝福の源とはまあこういう意味なんだという説明にもなっているわけです。アブラハムに対して祝福の源となるっていうのが神様がアブラハムを祝福の基とするという言葉です。アブラハムが努力して祝福の源になるのではありません。もちろん努力も必要かもしれません。しかしそれ以上に神様がアブラハムを祝福の源とする、すべての人々を祝福する。そのためにアブラハムが用いられる、という神様の決意がここに示されているということであります。アブラハムはすべての人々を祝福するための神の器として用いられるということであります。大切な役目であります。誰でもできるというものではありません。アブラハムも、ですから彼の生涯の中でいろいろ失敗もするのは、決して彼が特別不信仰だったということではなくて、祝福をするという、その使命がいかに重くそしてまた困難が伴っていたかということを示していると言ってよいかと思います。

彼が神様に選ばれた時、このすべての人々を祝福するという神様のみ言葉を受けたとき、それは彼一人が受けました。彼がその時父親から離れて、そしておいのロトを伴っておりました。そしてアブラハムにもロトにもそれぞれ使用人がいたわけであります。まあそのことは後から出てくるわけですが、しかしこの創世記12章の1節から3節は神はアブラハムにだけこの言葉を語られたということが記されているわけであります。ひょっとするとそばにはロトもいたのかもしれませんけれども、聖書はロトについては全く何も語っておりません。

聖書にとって最も大切なことは、この言葉はアブラハムにだけ語られたということだったからです。アブラハムにだけこの使命が与えられたということです。この使命を与えられたアブラハムはたったひとりでした。たったひとりでこの重い使命を引き受けなければならなかった。彼自身、心細かったかもしれません。もうすでに年老いていて子供もできない状況がはっきりしていました。そういう中でせっかく神様から祝福を受けたけれども、この使命をはたして自分が遂行できるだろうか?自分がもし早く亡くなったら誰がこの使命を引き継ぐのだろうか。さまざまな不安もあったかもしれません。そういう中でアブラハムはたったひとりという孤独をあるいは感じていたのかもしれません。しかし神は決してアブラハムを孤独に旅をさせたわけではありません。神はいつもあなたと共にいると言って、彼を守り支え導いて行ったのであります。ですから彼が失敗した時に、神は彼を助けるために色々なことをしております。そのこともまた創世記の後の方に出てきますのでぜひ皆さんそこを読んでいただけたらと思います。物語としてとても面白い物語だと思いますのでぜひ読んでいただけたらと思います。

表面的にはアブラハムは孤独で旅をし、そして孤独でこの使命を引き受けざるを得なかったということが言えるかもしれませんけれども、しかしたったひとりとは言え彼は決して孤独ではなかったということを聖書は私たちに告げているわけであります。神がいつもこのアブラハムと共におられた、そのことを聖書は強調して私たちに伝えているわけであります。不可能と思われた子供もやがて与えられ、子孫も増えていきます。アブラハムには後から子孫を与えるという約束が与えられます。さらには土地を与えるという約束まで与えられます。アブラハム契約という言葉で表現するときには大抵子孫を与えるという約束とそれから土地を与えるという約束が伴ってアブラハム契約と言われることがあります。

まだ彼には子どもがいなかったとき。まだ彼は何処にも定住せずヒツジやヤギを引き連れて放牧の旅を続けているその時に、子孫を与える、土地を与えると約束されたわけです。皆さんだったらどうでしょうか?彷徨ってる時、子どもがいない時、そのような約束を受けて心から信じますっていう果たして言えるでしょうか?でもその時にアブラハムは信じたんです。だから神様はアブラハムを見て彼の義、彼の正しさを認めたという言葉がわざわざ記されているわけであります。私には子がいない、やがて私の財産も召使いが持ってしまうに違いないと神様こぼすこともあったアブラハムですが、そのアブラハムに夜、外に出るように話しかけ、そして空の星を見なさい、空の星の数を数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫はあれよりも数が多くなるのだ、そういうふうに言ったのであります。そのようにしてアブラハムは神様の言葉を信じたというふうにあります。

町の中に住んでると星空がそんなに星の数が多くは感じないかもしれません。しかし山奥に行くと、一回だけ立山に登ってそこで一夜を過ごしたことがありました。もうランプも消えてそして建物の外にトイレがあるわけですけども、そこへ行くのにも懐中電灯を持って外に出ないといけなかったという思い出があります。その時に懐中電灯を消すと空に満天の星が広がっていたという鮮烈な思い出があります。もう一回はシナイ半島の旅をした時です。シナイ山のふもとに宿を取り、そして真夜中の午前1時か2時頃だったでしょうか、そこを出発して暗いなかを、まだ懐中電灯をつけながら山道を登って日が上る頃にシナイ山の山頂につくという、そういう計画だったわけですけども、その時に宿泊しているところからしばらく歩いた後、ある人から電灯を消しなさいって言われて電灯を消しました。辺りは真っ暗で何も見えない。空を見なさいって言われて空を見ると、天の川が見えました。実を言うと、私、天の川を見たのはあれが初めてでした。天の川があるということは図鑑とかそういうもので知ってはいたんですけど、実際これが天の川だという実感をもったことはそれまでなかったわけです。ヨーロッパの方ではミルキーウェイというふうに言われて、ミルクがこぼれたその流れ、ミルクの流れたあとの様に見える事からそういうふうに言われるそうですけど、本当に白い靄のようなものがずっと帯のように流れている、そういう様子を見て、あーなるほどこれが銀河なのか、天の川なのか、というふうにとても感心したことがありました。その時にアブラハムが神様に言われて空の星を見なさい。数えてみることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫はあれよりもっと多くなるのだ。まあそういうふうに言われた聖書の言葉を思い出しながら、そのシナイ山を登ったという記憶があります。

私たちもまたしばしば孤独になる。しかし決して神様は私たちを孤独にすることはない。神様は一旦約束なさったことをたがえることはない。確実にそれを実行なさる。それがまだ実現していなかった時であっても神は必ず約束どおりその言葉をたがえることなくその約束を実行してくださる、そういう神への信頼こそが聖書は信仰と呼ぶわけであります。彼はアブラハムの信仰をみた、それを彼の義と認めたというのはまあそういうことであります。

とにかくアブラハムは神様から使命を与えられました。全ての人を祝福するその働きをするために私はあなたを選んだ、私はあなたはそのために用いると宣言して、アブラハムをカナンの地へと導いて行かれたわけであります。アブラハムに与えられたこの使命はやがて息子のイサク、そして孫のヤコブへと受け継がれていきます。

なぜイサクであったのか、なぜヤコブであったのかということについてはこれは次週の礼拝でまた話をすることになりますので今日はそこまで深く踏み込みませんけれども、しかしこのイサクそしてヤコブへとこの約束が受け継がれていったということには大きな意味があります。イサクにもヤコブにもアブラハムの時とほぼ同じような言葉が語られました。すべての人々はあなたによって祝福に入る。すなわちこれはアブラハム個人に与えられた使命・約束ということではなくて、イサクにも与えられヤコブにも与えられ、そしてそれはアブラハムイサクヤコブから始まるユダヤ人に与えられた約束、使命であるということを示しております。ですからこれが単なるアブラハムイサクヤコブという3人の人に個人的に与えられた約束というのではなくて、やがて神の民となるその人々に与えられた約束・使命であるということを示しております。

ずっと後になってこの使命・約束を忘れてしまった時、預言者エレミヤが彼らに警告をします。あなた方は悔い改めなさい。そうするならば神はあなたがたによって祝福に入る、というふうに言いました。エレミヤはアブラハムイサクヤコブに与えられた約束をもう一度思い起こせ、あなた方はその神様の約束から離れてしまった、全ての人々はあなた方によって祝福に入るはずではないのか、あなた方はその使命を放棄してよいのか、と言って悔い改めを促したわけであります。結局は彼らは悔い改めることをせず国を滅ぼしてしまいます。いわゆるバビロン捕囚という出来事が起こってしまうわけです。国は破れ、そして民はバビロンへと捕らえ移され、残った人々は方々へと散り散りになっています。

神がアブラハムから初めたその計画は泡と消えてしまったかのように思います。しかし神はもう一度バビロンから彼らを導き出してエルサレムへと帰らせる。そして消えたかと思った神様のご計画をもう一度そこで実行していくっていうのが旧約聖書が記していることであります。先ほど司式者にマタイによる福音書を読んでいただきました。いわゆるイエスキリストの系図と呼ばれるものであります。アブラハムから始まりイエスキリストに続いていく系図であります。昔はよくこれはイエスキリストの血筋の良さを証明するために書かれたというふうに言われましたけれども、よくみますとこの系図はアブラハムからずっと始まっていってヨセフへとつながる。マリアじゃないです。マリアはイエスキリストを産みました。ですからマリアはよくキリストの母、神の母というふうに言われるわけです。この表現がいいかどうかってのはまた別問題ですけど、ヨセフは系図上はマリアの夫でありました。しかし実質イエスキリストの父親とはいえない。マタイによる福音書はマリアはヨセフによってキリストを産んだのではなくて、聖霊の働きによってイエスキリストが生まれたってことははっきりしております。そうするとヨセフに至るイエスキリストの系図は一体何だったのか?血筋ということであるならばもう血筋はそこであんまり関係がなくなってしまっていることになります。ですからこれは血筋の良さということを証明するための系図ではなくて、系図という形で、神様の全ての人を救うというご計画、そしてその神様の計画をこのように進めていっているということを示すことが目的の系図ということであります。

このようにしてマタイによる福音書はイエスキリストの系図から始めました。そしてインマヌエルという言葉がその1章の最後のところに出てきます。「神われらと共にいます」と言う言葉であり、クリスマスの時によく読まれる聖書の言葉であります。しかしそれは旧約聖書から新約聖書を貫く聖書の信仰であるわけで、アブラハムと共に神様がいてくださった、そのことはとても大切なことであります。そしてイエスキリストが神様のご計画によってこの地上に現れた。イエスキリストはなぜユダヤ人の間に生まれたのか。ほかの民族でもよかったのではないかという理屈は出てくるでしょう。しかし神はアブラハムを選び、その子孫から神の独り子が現れて救い主として働くと言うことをお決めになっていたからこそイエスキリストはユダヤ人の間で生まれたわけです。たまたまとか、偶然とかではなくて神様のご計画はアブラハムの時から始まっていたということであります。全ての人々を祝福する、すべての人々を救うという神のご計画がイエスキリストの十字架と復活によって成就しました。復活したイエスキリストは弟子たちの前に現れて、弟子達を各地に派遣します。マタイによる福音書の一番最後のところに「私はすべての権威を授かった。あなた方は出て行って、すべての人々を私の弟子としなさい。父と子と聖霊との名によって洗礼を授けなさい。私はあなた方といつまでも一緒にいる」と言って弟子たちを送り出す。これがマタイによる福音書の最後であります。マタイによる福音書が言いたいことがイエスキリストは旧約聖書から始まるすべての人を救うというご計画の、その成就としてこの地上に現れ、そしてすべての人々を祝福する、救うという神様のご計画の成就として十字架と復活の出来事があり、その十字架と復活による救いを述べ伝えさせるために弟子達を各地に、地の果てにまで送り出す。それがマタイによる福音書が私たちに告げていることであります。弟子たちと共に神様がいてくださる。その使命を果たさせてくださいました。しかしそれは弟子たちで終わるのではなくて、その弟子達から始まるキリスト教会がその使命を受け継いでいくわけであります。イサクとヤコブがアブラハムに与えられた約束を受け継いで、キリスト教会もまたその枝となっている私たちキリスト教会も、全ての人々を救うという神様のご計画は成就した。十字架と復活という出来事によって私たちの救いを完成してくださった。その証し人として私たちを用いてくださるということであります。アブラハムと同じように私たちも完璧な人間ではありません。欠けるところの多いものであります。弱点もいろいろ出てきます。弱り果ててしまう、諦めてしまう、さまざまな困難に出会ってしょげてしまう、しかしその時でも神が私たちを守り導いてくださる。そしてその重い務めを担うことができるように支え守り、そして導いてくださるわけです。皆さんの人生はそのようにして神様にすべての人々を祝福するために用意された人生であります。アブラハムがまず神様から、私はあなたを祝福すると言ってその使命を与えられたように、皆さんにも神は「私はあなたを祝福する」と言ってこの使命を与えてくださっています。私はあなたを祝福するっていうのはそうするかもしれないという言葉ではなくて、私は必ずあなたを祝福する、必ずあなたを守り導くという神様の固い決意の表れであります。ですから私たちは神様のその御言葉をしっかり受け止めて、そして欠けるところの多い者でありながら私たちを選び、そしてこの重い務め、大切な務めにつかせて下さったことを感謝して私たちもその務めを果たすために自分の力、自分の知恵を頼りにするのではなく、この私たちを選び、そして立てて下さった神様を信頼して、神様がこの世に選んでくださったのであればそれに必要な力も必ず与えてくださる、このように神を信頼して、その歩みを進めていくべきであろうと思います。そのようにして私たちは一人一人が神様の祝福を受けて豊かな人生を過ごすことになります。

 

お祈り致します。

主イエスキリストの父なる御神様 あなたの恵みと導きにより5月の最後の主日に私たちを教会に集め礼拝を進めることを許してくださり心から感謝いたします。たったひとり、神様から選ばれ、重い祝福の務めを与えられたアブラハムでしたが、決してアブラハムは孤独だったわけではありませんでした。常にあなたが彼とともにあって守り導き、そしてその祝福の使命を果たさせてくださいました。今イエスキリストの証し人としてて立てられている私たちもまた、自分の力のなさ、また失敗の多いことを思い、果たしてこの重い務めを担いきることができるかと不安を覚えることが多いものであります。しかしアブラハムと共におられたあなたが、今私達と共にいてくださることをみことばを通しておしえられ心から感謝いたします。どうぞ私たちもあなたが共にいてくださるというあなたの恵み深いその言葉に支えられながら、与えられている務めを充分果たしていくことができますように導いてください。ここにいます一人一人を豊かに祝福しその生活の中で与えられるあなたの恵みをしっかり受け取ることができるようにお導きください。またその生活の中で与えられているあなたの証し人としてのその務めを果たして行くことができますように導いてください。言葉にも行いにも力のない私たちです。また人を躓かせることの多いものでもあります。あなたがそのような私たちを選び用いてくださるのですから、必ずあなたがそれを幸いな方向へと導いてくださることを信じます。どうぞ、ただあなたの力のみが、あなたの御心のみが、現わされ、私たちが出会う一人一人を豊かに祝福することになりますよう導いてください。金沢元町教会がこの地に建てられております。あなたが立ててくださった教会です。それゆえにこの地に住むすべての人々がこの教会を通しましてあなたの祝福を豊かに受けることができます。どうかこの地に住むすべての人々が、この教会を通してまことに神はここにおられると知ることができますよう、そしてまたそのひとりひとりがあなたの祝福を求めてこの教会に来ることができますように導いてください。また金沢元町教会に連なるひとりひとりがそれぞれの生活の場で信仰の歩みをしております。その中でもあなたが共にいてくださり、その生活の場においてあなたを証する機会を与えてください。言葉にも行いにも力を与えてください。

どうかあなたが私たちを用いてあなたの恵み、祝福を証することができますように導いてください。病の中にあります者にどうぞ癒しの御手をのべ、心も体も強くしてくださいますよう切にお願いいたします。悩み苦しみにあります者にどうぞあなたが慰めを与え、支えて導いてくださいますようお願いいたします。さまざまな困難があろうともあなたが必ずその困難を乗り越えさせてくださいますことを信じます。どうぞ私たちが互いに祈り合い、共にその困難を乗り越えていくことができますように導いてください。能登半島に起こった大きな地震によって被害を受けた教会、またその地域の人々がおります。今だ完全に復興しておりません。どうかあなたが力を与えて、生活を取り戻させてくださいますようお願いいたします。この能登半島の地域の人々のために全国の諸教会が、全国の人々が、祈り、また支えようと願っております。どうぞその一つ一つのこと、ひとりひとりの心をあなたがしっかり受け止めて能登半島の復興へと導いてくださいますようお願いいたします。

全世界において争いが絶えずまた多くの人々の嘆きがまた悲しみが満ちております。どうぞそのところにあなたご自身が力を振るい平和を与えてくださいますようお願いいたします。平和の神であるあなたを見上げることができますように、その紛争の地域の指導者たち、また戦いの中に置かれているひとりひとりが見上げて平和求めていくことができますように導いてください。

今日から始まります1週間の歩みが誠にあなたのみ心にかなうものとなりますよう、その中で与えられる恵みの一つ一つを数え、日々感謝し祈りの生活をすることができますように。またその生活の中で次の日曜日を迎える充分な備えをすることができますように導いてください。感謝と願い、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 

 

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