思い悩む必要はない

ある人は言います。主イエス・キリストが、「思い悩むな」と仰るとき、主イエスというお方は、まさに今ここで、この言葉を聴いた私たち目掛けてそれをお話になっていらっしゃるのだと。

なぜならば、思い悩むことから全く自由な者は私たちの内に一人もいないかです。だから、主イエスが「思い悩むな」とお語りになる時、そのお方は、わたしたち全ての者との関りを求められ、そのお言葉に耳を傾けることを求めているのだというのです。

確かに、私たちは、誰もが大なり小なり、思い悩みの中にいます。思い悩みというのは、私たち人間にとってたいへん身近なものです。この主イエスのお言葉を聴くとき、私たちは、自分と無関係な言葉とすることはできず、自分が主イエスのお言葉の射程圏内にここでこそ捉えられていることに気付かざるを得ません。

このように私たち全ての者にとって思い悩むということが身近であるのは、それぞれに生きることの重荷を抱えているからだと思います。それぞれに何らかの足りなさや不幸を抱えているからだと思います。私たちは、それぞれに心にかかるたくさんの課題を抱えています。

自分は置かれた環境の中で、今何をなすべきか、どの方向が一番、自分の生き方として合っているか、自分はその働きにふさわしいものを受け取り、損をしていないだろうか。また、一緒に生きるあの人、この人をどう扱うべきか、いかにその人たちを我慢すべきか、いかにその人たちを助けてあげられるだろうか。思い悩みの種は尽きません。

しかし、あらゆる思い悩みで心を騒がせている、思い悩みに忙しくしている全てのわたしたちに関り、その私たちを目掛けてイエス・キリストが語り聞かせたいと願われるのは、「思い悩むな」という言葉です。

これは、今日私が事前にお知らせした説教題、「思い悩む必要はない」という言葉よりも、もっと強い言葉です。主イエスが、思い悩む私たちに「思い悩む必要はないよ」と優しく提案するのではなくて、はっきりとした口調で、「思い悩むな」と命令されるのです。

自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。彼らは、あなたがたと違って種を蒔かず、刈り入れず、糸を紡がない。けれども、それだからといって思い悩んでなんかいない。神が養ってくださり、装われるままに、神に与えられたあるがままの生を、ひたすらに生きているじゃないか。だから、あなたたちも自分の命のこと、体のことで思い悩むな。

ここで「自分の命」と言われている言葉は、単に肉体的な命のことだけではありません。ここで使われる命という言葉は、「魂」をも意味する言葉です。だから、ここでその魂と体が見据えられながら「思い悩むな」と命じられているのは、体であり、魂である人間の全体です。食べ、飲み、着る、体ごと生きている人間、そして、空の鳥や野の花とは違い、明日は一体どうなるか?自分の一生は、衣食住に困らず、幸せにやっていけるかと想像力を働かせる能力を持った魂ごと生きている全体的人間です。

その人間に向かって、主イエスが空の鳥、野の花をお示しになりながら、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むなと仰るのは、いったい何を意味するのでしょうか?

たとえば常識的に理解すれば、主イエスのご命令は、空の鳥や、野の花とは違って明日を思う力を持ったまさに霊長類である人間が、その唯一無二の力を、衣食のことの心配で用い尽くしてしまうのは、もったいないことだと仰っているように考えることができるかもしれません。高級な能力で低級な心配をするなという具合です。だから、たとえば、衣食のことを思い悩むなという主イエスのお言葉は、神が人間に明日を思う力を与えられたのは、空の鳥、野の花でさえ、思い悩んでいない衣食のためではないと仰っていると捉えることもできます。

けれども、おそらく、そのような知恵深く見える精神的理解は、主イエスのお心には沿わないだろうと思います。というのも、主イエスは、御自分が弟子たちに教えられた祈りのど真ん中で、まさに、パンのために祈ることを教え、人間の内の誰よりも、食卓を大切にされる方だからです。

だから、ここで命と体を持った人間に主イエスが「思い悩むな」と命じられているのは、フィリピの信徒への手紙4:6が、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」と言ったことと同じことだと思います。低級な悩みと高級な悩みを分け、一方を禁じ、一方を奨励するのではありません。どんな思い悩みも禁じるのです。それをここで主イエスは、人間にとって最も基本的な思い悩みの種である衣食の心配によって、すべての思い悩みを代表させているのだと思います。ある人は、人間の存在目的は何かという深刻な悩みを抱いたって、一週間はどうってことない。けれども、衣食が無くなれば、三日も経てば、死を意識するだろうと言います。つまり、食べるもの、飲む者、着るものの思い悩みは、最重要課題だと言えます。けれども、命に直結するような食べるもの飲むもの、着るもののことすら思い悩んではいけないよと命じられます。そうであれば、どんなことも思い悩んではいけないと仰っているのです。

しかし、空の鳥や、野の花とは違って、体と魂を備えた者であるからこそ、私たちは思い悩みます。昔ある人が、自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろうと言いましたが、空の鳥野の花を見ながら、明日への悩みがちっともなさそうなその姿に癒されつつも、私たち人間はどうしたってそういう風には生きられない被造物だと思います。むしろ、明日を思うことができるというところにこそ、人間の人間らしさがあるように思えます。

明日、明後日のことを思い、その為の備えをする。そうやって、神に与えられた人間らしさを用いるように造られているのではないか?

けれども、また、そのような体と魂を持った全体的に人間であるゆえにこそ、主イエスのお言葉は、心に響きます。

自分の明日の命を思い悩むことができる人間、自分の貯えの量を計算することのできる人間、その明日を思う力によって、万時を思い悩む人間です。自分は置かれた環境の中で、今何をなすべきか、どの方向が一番、自分の生き方として合っているか、自分はその働きにふさわしいものを受け取り、損をしていないだろうか。また、一緒に生きるあの人、この人をどう扱うべきか、いかにその人たちを我慢すべきか、いかにその人たちを助けてあげられるだろうか。毎日毎日飽きることなく、思い悩んでいます。その私たちに向かって、主イエスはあえて、空の鳥、野の花を示して、「思い悩むな」とお命じになります。

そのようにありとあらゆることを正しい位置へと必死にマネージメントしようとしている私たち人間に向かって、主イエスが語る「思い悩むな」という命令は、単純に、「休め」という命令として語られているのです。

つまり、明日を思う力が与えられている人間が、しかし、神を見失い、制御を失って、すべてのことを自分で思い悩み、自分で管理し、うまくやっていかなければならないと思い込んでしまっている。そういう私たちの、すべての切迫感、焦りに対して、私たち人間の真子能登の主権者として主イエスがやって来られ、ここで、単純に、「あなたは、これらすべての問いに自分で答えを出し、自分で処理するよう求められてはいない。あなた自身の幸せを作り出すこと、それは全くあなたのやるべき事柄ではない。そんなことはやめなさい。あなたの仕事の良しあしについても、自分で判断することを止めなさい。さらに、あなたと生きる隣人に対して、責めるか、助けるか、あなたが決着をつけるべきではない。最後に、あなたが自分に我慢できるか、生きることに意味はあるのか、あなたに価値はあるのか、それらもあなたが判断すべきことではない。」と仰っているのです。

ある神学者はこういう趣旨のことを言います。思い悩むということは、人間が自分の人生の大きな深刻な問題にたいして、自分で答え、自分で解くことができると考えるほどに、自分自身を重大に考えすぎることに由来するのだと。大きな重荷も小さな厄介事も、自分が背負わなければ誰が背負うのかと気負って全部背負い込んで、それを自分で解放し、自分で救ってやろうとしていることに他ならない。

なるほど、そうすると私は、主イエスが、空の鳥、野の花を見よと仰った意図が、よくわかってくるように思います。

私たちが明日のことを思い悩み、ああじゃない、こうじゃないと作る日々の営みは、空の鳥、野の花とどれだけ違ったものだろうか?私たちは、人間として、鳥や草花よりも、自分の人生を自分の手でうまく処理できると思い込んでいるけれども、本当はそれほど大きな違いはないのではないか?

いくら明日に備え、思い悩んだところで、自分の力を過信している私たち人間もまた、寿命をわずかでも伸ばすことができないじゃないという主イエスのお言葉どおりの命ではないか?

本当のところ、私たち人間は、自分で思い込んでいるほどには、自分のことも他人のことも、環境のことも思い通りにはできないのではないでしょうか?

倉いっぱいに一生分の食糧を蓄えても、預金通帳に、退職後の生活費を十分に貯めても、明日死んでしまうかもしれないような私たちです。それは誰にも分りません。

自分の人生に対して自分の力を過信するからこそ、思い悩みが生まれます。コントロールできると思うからこそ、思い悩みます。コントロールできないことは、思い悩んだって仕方がありません。なるようになるだけです。晴れれば耕し、雨になれば家に戻り、嵐になれば身を屈めるだけ、空の鳥、野の花とそれほど変わらない。

けれども、主イエスが「思い悩むな」と仰るのは、そういう世の無常と諦め悟りきった心、悪く言えば、開き直りの自嘲に生きよと命じられているのではありません。

私たちが、自分の力を重大視せず、自分がコントロールしたい、何とか切り抜けたいと思っていた事柄に対する支配権を手放し、思い悩むことを止めるのは、明日、何が起こるかわからないという運命に、降参するというのではありません。

そうではなく、種まかず、刈り入れず、糸を紡ぐことをしない空の鳥、野の花を、なお養い、装ってくださる天の父の支配に服従する、信頼するということです。

今日の私たちに与えられた御言葉に深く関連するだろうマタイによる福音書10:29以下にこういう主イエスの御言葉があります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛の一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

3年ほど前、品川キリスト教会の吉村和夫先生を私の前任地の教会にお招きし講演をいただきました。私も所属する説教塾の指導者の一人で、都会のど真ん中の幼稚園がある教会で働いている牧師です。そこで吉村先生が園長として、いつも、入園してくる子供の保護者たちに一番初めにお話をする話があると仰いました。

こう育ってほしいと思う通りには、子どもは絶対に育たない。その意味で、あなたがたの子育ては100パーセント失敗する。例外なしに100パーセント失敗する。けれども、思った通りには絶対に育たないけれども、必ず、その子だけのユニークな、素晴らしい者に成長する。それを信じてほしいと仰いました。私も、自分の子供を育てながら、思い通りにならず、がっかりするとき、その言葉を思い出しています。

私たちが、思い悩むことを止めるのは、具体的に言えば、こういうことだと思います。

私たちが思い悩むのを止めるのは、私よりももっとよく私たちと私たちの人生の深刻な問題をうまくやってくださる天の父なる神さまの支配を信じるからです。

主イエスが思い悩むのを止めて、神の国と神の義を求めなさいと仰ったのは、まさにこのことです。私の支配ではなく、神が支配してくださいますように、私の正しいと思うことではなく、神さまが正しいと思うことが実現しますように。

それゆえ、主イエスが「思い悩むな」と仰るとき、主イエスは、もしも、あなたの人生の困難を思い悩む必要があるのならば、それは、あなたではなく、天の父である神があなたに代わって思い悩むのだと仰っているのだと思います。

今私が思い悩んでいることを、神が私以上に、思い悩まれるということは、信じがたいことであるかもしれません。私たちの大きな思い悩みの一つは、神さまがちっとも私の方を見てくれない、気に留めておられないと感じる故に、思い悩みは膨らむものだとどこかで思っているからです。

けれども、主イエスにおいて、神さまは、私たちの思い悩みを十分に知っておられます。主イエスを見れば、いかに神が私たちのために思い悩んでおられるかがわかってまいります。

ある人は言います。思い悩むなと命じられた主イエスのみ顔にこそ、この世についての思い煩いに満ちてはいないか。悲しみに満ちてはいないか。主御自身が、明日のこと、明後日のことのために、思い悩んでおられるではないか。しかし、その思い悩みこそ、神が私たちに代わって私たちの思い悩みを担われた証拠ではないか。そこで、イザヤ書53:4の言葉を引用します。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」

主イエスが、私たちに向かって「思い悩むな」とはっきりと、断固として、お命じになるとき、病気で身動きできない者に向かって、「立て」と命じられるのではありません。

あなたの思い悩みは私が負った。あなたを押しつぶしている責任は、私が負ったゆえに思い悩むなと語ってくださっているのです。主イエスは、すべて疲れている者、重荷を負う者はわたしの元に来なさい。私の元に荷を下ろしなさい。休ませてあげようと仰いました。その方の元に荷を降ろして良いのです。

今もなお、私たちは、荷を担い続けているかもしれません。私の元に荷を降ろせと仰った主イエスも、二度と荷を担がせないとは仰いませんでした。むしろ、私のくびきを負いなさいと仰いました。だから、主イエスの元に降ろした荷を、やはりもう一度、担ぐことになるかもしれません。

けれども、はっきり言いますが、一度主イエスの元に降ろした荷は、私だけの荷ではなくなりますし、責任者の欄に私の名前が記されている荷でもなくなります。

主イエスは、私たちが負うべき荷は、主イエスのくびきだと仰います。それは、あなたが担い直したその荷は、もはや、あなたのものではなく、私の荷だと仰るのです。だから、それは私の荷でありながら、既に主イエスの荷です。私たちは、一日、それを預かるに過ぎません。私たちは、その荷を、夕ごとに主の御前に降ろし、朝毎に主から預かるに過ぎません。

私たちは、すぐにそのことを忘れます。それゆえ、信仰の薄い者だと何度も主に叱られます。

けれども、信仰が薄いからと言って、決して、見捨てられることはありません。同じ物語を記す、ルカによる福音書において、主イエスは、同じく薄いという言葉、小さいと訳されるこの言葉を用いながら、小さいのは、私たちの信仰どころか、私たち自身だと言います。けれども、その小さな者に向かって主は言われます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

私は、マタイによる福音書もまた、このことを前提としていると思います。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

時には、たった一日分の労苦も重いと感じることがあるかもしれません。神からお預かりした一日の働きを、中途半端で無様なものとして、お返ししなければならないことがあるかもしれません。けれども、その結末も、神にお任せすることが許されています。

あなたはもう十分だ。あとはわたしに任せなさい。最終責任は、あなたではなく、私がとる。一日、一日、キリストはそのように私たちに仰ってくださるのです。そうであるならば、空の鳥、野の花と同様に、神の被造物である私たちに人間に与えられた明日を思う力とは、思い悩むための力ではなくて、私たちの罪と失敗にもかかわらず、神が作り出してくださる御心に適った未来を、信じ見続けるための、賜物だということがわかります。

そのように私たちを重んじてくださる神とは、私たちと私たちの生涯と、私たちと共に生きる者たちを、喜んでその御手によって治めてくださる私たちの慈しみ深い父であられる神なのです。その時、「思い悩むな」との命令、その戒めは、やはり、「思い悩む必要はない」という私たちのための神の良き知らせ、福音そのものなのです。

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