主の祈り 神のお名前のために

先週から主の祈りの言葉を聴き始めています。

 

神さまは、天の父として私たちの願いを聴くことを志してくださいます。願いなさいと招いてくださる。何をどう願っていいかわからない私たちのために、願うべきことさえ教えてくださる。

 

その父がくださる最初の祈りが、今日共に聞いています「御名が崇められますように」という祈りです。

 

私たち以上に、私たちの近くにいて下さり、私たちの本当の必要をご存知の神が、これがあなたの最初の願いであるべきだと教えてくださった言葉です。

 

けれども、この願いの言葉の前に、多くの者が驚き、次のような趣旨のことを言います。

 

私たちが主の祈りを学ぶことがなかったなら、このような願いを私たちの第一番目の祈りとして考えることは決してなかっただろうと。

 

主イエスによって教えられた私たちの最初の願いになるべき祈りは、すぐに私たち自身の必要に直結するようには見えない願いです。

 

「神さま、あなたのお名前が崇められますように。」、私たちが主イエスによって祈り願うようにと招かれているのは、自分のためではなく、神のお名前のためです。

 

祈りは対話ですから、私たちに慈しみ深い父としてその実を向けていてくださる神さまのお名前を崇めること、私たちの声を聴きたいと耳を傾けていてくださる神さまを賛美することから始めるというのはもちろん、ふさわしいことです。

 

けれども、それは、私たちの心の動きに沿った祈りとは呼びづらいものです。それは、確かに教わることがなければ最初に口にすることのできない願いだと言えます。

 

私たちは、祈りにおいても、自分の願い事を述べることばかりに気を取られてしまう者です。だからこそ、この第1の祈りにおいて、まず神さまの御名をほめたたえ、祈りが、私たちと神さまの人格的な対話であることを思い起こす必要があるということができるかもしれません。

 

それは、十戒において神が、私たちと隣人との関係を問う前に、前半の4つの戒めにおいて、私たちと神御自身の関係を問われることと一致していると言えます。

 

だから、ある人は、この主の祈りの最初の願いである「御名が崇められますように」という祈りは、十戒の第1戒と深い関係があるだろうと言いました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ということは、実践的に言って、私たちを惑わす世のさまざまな声に惑わされず、ただこの方との間に、父と子の人格的関係があることをまず確かなこととすることを願うことが大切だと言うことができます。

 

けれども、この「御名が崇められますように」という祈りが、神さまと私たちの土台となる関係を築くために、「まず私があなたを礼拝し続けることを大切にすることができますように」という祈りであると捉えるとしたら、この言葉を誤解しているのかもしれません。

 

つまり、第1の祈りは、十戒の第1の戒めによって、神以外を神としないようにと呼びかけられた私たちが、この祈りの言葉によって、自分の心の方向を整え、この私が神を崇めるための祈りだと考えるならば、それはこの第1の祈りを少し誤解していることになるだろうということです。

 

おそらく、私たちは、しばしばそのようなものとしてこの祈りを考えてしまうのです。祈りの冒頭で、自分の願いをすぐさま語るのははばかれるので、まずは、神のお名前を賛美する、神の御名にふさわしい尊敬を表現するための常套句のように考えてしまう。

 

しかし、この祈りの言葉を原語に遡ってみますと、「崇めさせたまえ」というのは、一つの大胆な翻訳であることがわかります。これをもとの言葉に遡ってより忠実に訳すならば、「あなたのお名前が聖とされますように」であります。

 

つまり、必ずしも、人間が主語となって、神さまのお名前を崇めるということが、語られているわけではありません。主語は、神さまのお名前であり、目的語は、人間の崇める行為、礼拝ではなくて、もっと広く、「聖とされますように」です。

 

一体誰が神さまのお名前を聖なるものとするのでしょうか?

 

改革者ルターは小教理問答という文書の中で、この第1の祈願をこういう風に説いています。「この祈りで私たちは、神さまのお名前が私たちのあいだでも聖くなるようにと祈る。…(そこで)、神さまの言葉がしっかりと、純粋に教えられ、私たちも神さまの子供としてこれに従って聖く生活する」のだと。

 

ルターは言います。御言葉を純粋に聞き、教え、それに従っていき、その私たちの生活によって、神さまのお名前を誉れ高いものにしよう。

 

それが、このあなたのお名前が聖なるものとされますようにという第1の祈願の意味だと、考えたのです。神さまのお名前は、私たち人間によって、聖なるものとなるのだと。

 

この改革者の心を大切して訳すとき、なるほど、この祈りは、私たちが自分の言葉と生活の全存在をもって、神さまの御名を聖くすること、すなわち崇めることができますようにという祈りであることになります。

 

もちろん、このような祈りと、願いと、決断が私たち人間のものとなることは素晴らしいことです。

 

けれども、このような理解が、気を付けなければならないのは、神さまのお名前が聖くなるか、汚されるかということが、全く私たちの言葉と行動如何にかかっていると、大げさに捉えすぎてしまうことです。

 

以前、アメリカを旅行した時に、こういう標語を教会で目にしました。「神さまに腕はない。けれども、代わりに私たちがいる。」

 

なるほど、神さまは一人一人のキリスト者、あるいはその群れである教会を通して働かれるでしょう。また、教会はキリストの体だと聖書は語りますから、教会が神の腕だというのは、一面において正しいと思う。しかし、これはどこか聖書とずれている。どこか行き過ぎた言葉だと思う。これは、まるで、私たちが神さまの保護者であり、後見人であるかのような言い方であるように思えます。

 

けれども、主が教えてくださった祈りは、あなたの「み名が、聖とされますように」という言葉であり、それは「私たちが、あなたのみ名を聖とできますように」という私たちの行動を主眼に据えた祈りではないことに気付かされます。

 

そこで私たちは、一度、フラットな心でこの祈りの言葉に向き合いたいと思います。果たして、神さまのお名前を聖とする者は誰なのか?本当に私たちであるのか?

 

私は、私たちの言葉と行いによってなされることは、むしろ、しばしば、神さまのお名前を汚すようなことがばかりではないかと思います。それはいちいち具体例を挙げる必要すらないと思います。

 

それは、その人間が神の民であるかどうかも決定的な違いではありません。むしろ、聖書は、神の民として特別に選ばれ、神のものとなった者によってこそ、神さまのお名前は決定的に汚されてきたのだと、痛みをもって語ります。

 

エゼキエル3622以下にこうあります。「主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが言った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。…」

 

聖書が語るのは、神さまをほめたたえるために選ばれたはずの私たち人間の仲間が、かえって神さまの名を汚すということが起きてしまう。それだから、神さまが立ち上がらなければならなかった。そうして、神さまは、人間によって汚されてしまったご自身の名を聖なるものとするために、力をふるい働いてこられたのだということです。

 

だから、主が教えてくださった第1の祈り、「御名を崇めさせたまえ」とは、信仰の英雄、敬虔な者の、香ばしい薫りの捧げもののような祈りではありえないと思います。

 

むしろ、それは、罪の告白でさえあると思います。「私は、あなたのお名前を汚してしまいました。けれども、私たちには、そのあなたのお名前に塗ってしまった泥を取り去る力はありません。どうか、あなたが、あなたご自身が、あなたのお名前を聖なるものとしてくださいますように。」

 

それゆえ、ある者は、この第1の祈願は、十戒の第1の戒めと関係があるとともに、主イエスの語られた8つの幸いの第1番目の言葉とも響きあっているものだと言います。

 

すなわち、この祈りを祈る者は、心の貧しい者、神の御前に罪以外の何も持たない者なのです。

 

ところで、このような神のお名前を汚し、しかも、それを自分ではどうしても取り返すことのできない者にとって、神がご自身でそのお名前にふさわしい名誉を回復されることは、諸手を挙げて喜ぶべきことだと言えるのでしょうか?

 

普通に考えるならば、神が私たち人間によって汚されてしまったお名前の輝きを取り戻される時とは、神が私たち人間に対する裁きの実行の時を意味するのではないかと思います。

 

ところが、ここでこそ私たちは、もう一度、この祈りの最初の言葉、私たちに表された神のお名前、私たちにご紹介してくださった神のお名前を思い起こすことが許されていますし、その名が私たちの手垢によって曇ってしまったその名が、再び本物の輝きを取り戻すことを望んでくださるのです。

 

それは、私たちのアバ、父、天の父というお名前です。

 

聖書には神さまに対する色々な呼び名が記されています。万軍の主、熱情の神、義の神、しかし、それらすべての名は、イエス・キリストにおいて私たちに明らかにされたアバ、父というお名前に導かれて聞かれなければなりません。

 

ヨハネによる福音書1726において主イエスが、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」と仰った名が、私たち人間に対して示された愛の名が決定的な神さまのお名前です。

 

私たちキリスト者は知っています。主イエス・キリストがこの地上に来られた時、私たち人間の罪は暴かれました。神が私たちのためにお送りくださった神の御子に聞かず、そのお方を十字架に追いやりました。私たち人間の仲間はこのお方を尊ばず、それによって、決定的に神のお名前を汚したのです。

 

私たち人間の仲間は、その方のお名前を崇めることなく、それどころか、十字架にお架かりになる主イエスに向かって、神がそのお名前を聖なるものとしてくださるようにというお言葉を、主イエスに対する侮辱の言葉としてすら用いたのです。

 

すなわち、私たち人間は、神のお遣わしになった方を信ぜず、そのお方を十字架につけた上で、こう言いました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」。

 

これらの言葉は、「御名を崇めさせたまえ」という言葉の、本当に恐るべき言い換えであります。

 

少しも神らしいところを見せず、十字架にお架かりになる主イエスを侮り、「栄光を見せてみろ、それを見せれば信じてやろう」と迫る。けれども、私たち人間の仲間が主イエスに向けて放ったその侮辱の言葉が現実のものとなるならば、それは、願った者の裁き、滅びでしかありません。

 

けれども、神は、主イエス・キリストにおいて、確かにご自身のお名前を聖いものとして、貫かれました。

 

私たち人間に対する父としてのお名前です。御自身を十字架に打ち付ける者たちに対して、「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているかわからないでいるのです。」と十字架で祈った主イエスと、その心を一つとしてくださった私たち人間の父となった神です。御子を十字架につけるほどに、神の御名を汚す私たち人間を、なお、子として選んでくださった神の父というお名前を貫いてくださったのです。

 

神はキリストにおいて、私たちが全く思いもよらぬ仕方で、御自分のお名前を聖としてくださったのです。

 

それゆえ、私たちが、「御名が聖とされますように」と祈るとき、「私たちが汚してしまうあなたのお名前を主よ、その輝きをあなたが回復してください」と祈るとき、私たちは、私たち人間に対する一方的で、徹底的な恵みである主イエス・キリストのできごとを思い起こすのです。そして、そこで、切実には感じられなかったかもしれないこの神のお名前のための第1の祈りが、キリストのゆえに、私たちの願いよりもずっと深く私たちのための祈りであることに気付かされるのです。

 

最後に、この神の御名を聖としてくださるようにと、神の御業として弁えた上で、なお、私たちが日本語で慣れ親しんだ、「御名を崇めさせたまえ」といつも祈るその意義を考えて終わりにしたいと思います。

 

既に引用したエゼキエル書において、御自身の選びの民が、国々の間で、聖なるお名前を汚すばかりなので、立ち上がり、御自分でそのお名前の名誉を回復すると宣言された神さまは、預言者の口を通して、なお、お語りになられました。

 

既に引用したエゼキエル書の続きに、「わたしは、お前達が国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主は言われる。」とあります。

 

無から有を呼び出される神、石ころからでもアブラハムの子孫でも福音の使者でも何でも生み出すことがお出来になる神は、地上で自分の代理となって働く後見人のような民を少しも必要とはされません。けれども、神はなお、御自身のお名前を聖なるものとされる時、御自身のお名前を汚した当の本人であるその民を用いるのだと、この御言葉は語っています。

 

その民が、神のお名前を聖なるものとするのではなく、神がその民を用いてご自分のお名前を聖なるものとされる。主語は神です。けれども、人間は、その神の業に、参加させていただくのです。

 

私は幼いころ、自分の父と釣りに行ったことを思い出します。自分で針も付けない、エサもつけない。魚が食いついたことも見分けられない。釣った魚の口から針を外すことも一人でできない。けれども、ふくらぎを釣り上げて、自分が釣ったと満足致しました。

 

天の父も、一人で事をなされない。子供たちとそれをしたいのです。

 

神は私たちを用いて、世界中の人々に、御自分のお名前を聖なるものとしてお示しになりたい。しかも、私たちを通して、人々に示される神のお名前とは、その者たちにとっても、父である神のお名前以外ではありません。神は諸国の民に、つまり誰に対しても、御自分が慈しみ深い父としてご自分のお名前を表されるのです。私たちを用いてです。それは、まさに、その具体的な一つの現われとして、生きた証として、神の慈しみの事実として、私たちが神のお名前のために用いられるのです。

 

そのことを思うと、この祈りはどんなに広い祈りであるか、どんなに深い祈りであるか。

 

今日、改めてそのことを教えられ、この祈りの言葉を携えて、新しい週へと歩みだすのです。

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