クリスマス讃美礼拝 国境なき救い主

12月24日19時30分~

今年は開催が危ぶまれたクリスマス賛美礼拝ですが、何とか、この日を迎えることができました。皆様と共に、礼拝を捧げることができますことを神に感謝いたします。

クリスマスとは、キリストミサ、すなわち、キリストを礼拝する日であります。

この日、ここに集まり、あるいは、ネットで自宅から、心を合わせて、キリストを礼拝する私たちは、クリスマスに最もふさわしいことをしています。神は私たちの礼拝をお喜びになられます。そこで、マタイの伝える最初のクリスマスの物語、神が私たちのためにしてくださった決定的な恵みの業と、その出来事を目の当たりにし、最初のキリストを礼拝した者たちの物語を聞きました。

星の光に導かれて幼子イエスを探しに来た東方の学者たち、マタイによる福音書では、主イエス・キリストを最初に礼拝した、私たちの先達たちであります。

クリスマスの出来事を知る者たちには馴染み深い、羊飼いたちと共に、幼子イエス・キリストの誕生の物語には欠かせない登場人物たちです。

聖書には、彼らが何人であったか、実は記録していませんが、その捧げものが黄金、乳香、没薬という三種類の贈り物であったことから、三人の博士たちであったろうと、考えられるようになりました。

彼らは、星に導かれ、王宮の外にお生まれになった幼子がどなたであるかをきちんと弁え、そのお方にふさわしい捧げものを捧げることができた模範的な人々だと私たちは考えています。

絵画や彫刻の主題にふさわしい美しい光景そのものを私たちは、この物語の中に見ています。

星を頼りに、幼子キリストを探しに来た東方の博士たち、東方からというのは、「オリエントから」という意味です。それこそ、私たちが目にするページェントなどでは異国情緒あふれる衣装を身にまとった子供たちが演じてくれるのです。キリストの誕生に、花を添えるオリエンタルな雰囲気を醸し出してくれる存在です。

ところが、おそらく、この場面に実際に出くわした人、また、最初に聞いた教会の人々にとっては、そのような美しいばかりの出来事ではなかったのです。

神の民イスラエルにとってのオリエント、東方の国々、それは、苦い記憶が刻印された土地でした。

学者たちがやってきた東方というのは、主イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムからすれば、アッシリア、バビロン、またペルシアの国があったところで、このいづれの国も、旧約聖書に登場する巨大国家であり、どの国も、イスラエルの国を脅かし、征服した国々です。癪に障る国々がわだかまる東方でありました。

それだけではありません。この学者たち、占星術の学者であったと書いてあります。

星占いの学者です。ただ星の研究をしている天文学者ではないのです。その星を研究しながら、運勢判断をしているのです。

これらの占星術の学者は、彼らのやってきた東方の地では、尊敬された人たちであったようです。この三人の学者たは、英語では、スリーキングス、三人の王様と表現されることもありますが、王様と言わずとも、母国では、祭祀階級のような人々であったと考えられています。

けれども、それは東方での話です。神の民、イスラエルにとっては、占星術を含んだ占いに関わる者は、皆、忌み嫌われる存在でした。占い師は、法律に触れる存在、死罪にも値するような、神の民イスラエルの内には全く居場所のない存在でした。

なぜ、それほど占い師が嫌われたのか?

それは、人間が人間の分を超えて、神のように人間の運命を支配しようとする思惑のもとになされるものだからです。

何があっても最終的には自分の人生は神の良いご計画によって、導かれているということを否定し、神のくださるものを拒否して、自分で自分の運命をデザインしようとする意志のように見えるものだからです。

真の神を信じる者は、占いなどに、左右されずに、神の良きご計画を信じ、精一杯毎日を生きればいいのです。

神は私たちのためには、その独り子さえ、惜しまずお与えになる方なのです。

それゆえ、神の良きご計画、人間を救おうという神の御心そのものであるキリストの誕生を預言した預言者イザヤも、必然、東方の占星術について、次のような厳しい批判をいたしました。

 「天にしるしを見る者、星によって占う者/新月によってお前の運命を告げる者などを/立ち向かわせ、お前を救わせてみよ」(イザヤ47:13)

占いに頼って諸外国を支配しているバビロンが、主なる神の前に、必ず滅ぼされる。神は神の民を解放される。占いはその時、彼らを救う助けにはならないと、批判されたのです。

しかし、この批判された東方の占星術師が、東方から星に導かれてやってきた学者たちそのものです。マタイによる福音書が、この者たちこそが、イエス・キリストの誕生を祝い、拝みにやってきた最初の人間であると語ることは、これに出くわした人、この物語を最初に受け取った人々にとっては、強い違和感のあることだったのです。 

いいえ、彼らに限りません。もしかすると、今でも私たち教会は、この箇所の全体をそのままには飲み込み切れていないようなところがあると思います。

この人たちを導いた星は、本当の星ではなく、特別な奇跡的な星であった。その意味では、彼らは自分たちの星占いによって、救い主の誕生を見極めたのではなく、それとは別の特別な神の導きがあったのだという説明を聞いたことがあります。

けれども本当にそうか?彼らは、彼らの星占いの中で、救い主の誕生を知ったのだと読んだほうが、自然であると思います。

私はここを読むと、いつも、思い出すことがあります。それは、かつて仕えていた教会の夜の礼拝にある時、占い師の仕事をしているという女性が訪れたことがあったことです。一度だけでなく、二度訪ねて静かに礼拝を捧げられたと思います。

しかし、その方をうまく受け入れることができなかった。ご本人に直接申し上げることはありませんでしたが、占いは聖書が禁じているということが、重く心に留まっていて、心のどこかで歓迎することができなかったように思います。

しかし、マタイによる福音書は、そのような者の礼拝を神が心から喜んでいてくださることを告げています。神は、牧師よりも教会よりも寛容で、私が思うよりももっと多くの人をご自分の民とみなされるのです。

その意味では、彼らを導いた星が奇跡的な星、神の特別な配慮を示す星であったということも正しいのです。占星術が考えるように星の運行は神秘的な世界を紐解く特別なものではなくて、むしろ、それは主なる神からは、遠いものであった。

しかし、主なる神様は、イエス・キリストの出来事において、ご自分の御業を見つけ出すのには最もふさわしくないもの、神を拝むということからは元来は、最も遠いものを用いて、最初の礼拝者を導いてくださったということです。

神は、神から最も遠い、東方の占星術師の星占いをも用いられ、彼らがそのままで、何の矯正もされぬままで、真の救い主、真の神に出会う者としてくださったのです。

しかし、まさに、神の独り子、世の救い主が、ルカ福音書の語るところによれば、家畜小屋の飼い葉桶の中にお生まれになったということは、こういうことではないかと思います。

そして、そのような仕方での救い主の誕生の仕方、真の王の現れ方というのは、この方の待ち望み続けたその中心地においては、すなわち、エルサレムにある神の民とその支配を委ねられた王には、激しい不安を抱かせることであるのです。

ルカによる福音書も、マタイによる福音書も、それぞれの仕方でクリスマスの出来事を語りながら、一致して、教会の扉の内側ばかりではなく、その外側にも、遠い者をご自分の者として数えておられる神のまなざしと配慮について語っているようです。

王宮の外にお生まれになった真の王に出会い、その方を拝んだ占星術の学者たちは、黄金、乳香、没薬を捧げた後、再び、自分の国へと帰っていきました。彼らがユダヤ教徒に改宗したとも、占星術師であることを辞めたとも語られてはいません。

しかし、何もかもが元のままだということはありませんでした。

彼らが捧げた宝物は、真の王に捧げるにふさわしい貴重な宝物でありましたが、ある解説によれば、実は、ただの宝物ではなく、彼らの商売道具であったと言います。

星占いの学者は同時に、まじない師であった。黄金、乳香、没薬はそのまじないの道具であったと言うのです。

生活の場へと帰っていく彼らが、占星術の学者であることを辞めたとは書いていません。けれども、呪術の道具は幼いキリストに捧げてしまったのです。

おそらく彼らの職業を含めた外面は、救い主に会い、その礼拝を受け入れられた後も、すなわち、神によって、神の民と数えられて後も、劇的に変わることは直ぐにはなかったと思います。

けれども、確かに変わったことがあったのではないかと思います。

王宮の外にお生まれになった救い主を知り、星の指し示す貧しき伏屋にお生まれになった方が、真の王であることを知り、もはや、呪いを信じることができなくなった。

これまでであれば、運命に呪われているとしか言いようのない貧しさと苦難の中に、人間の救い主が、共にいることを知るようになった。

そのことを知った星占いの学者ができることは、彼らを頼ってくる人たちに、運命を変える呪術を施すことではなく、まして誰かの利益のために人を呪うことではなく、もう二度と隠れることのない人間のためのに輝く星、イエス・キリストの祝福を告げることでしかなかったのではないかと思います。彼らは彼らのままでありながら、しかし、新しい者として生き始めたに違いありません。祝福を告げる者となったに違いありません。

もちろん、私たちは弱く、このキリストの輝き、祝福が見えなくなることがあります。悲しみと苦しみと不安にまみれて、貧しさの中にこそ輝く救い主を見失なったり、そもそもふさわしくない者にこそ見出されることを待っておられるキリストを見つけられないことがあるかもしれません。

けれども、そうであっても、このお方が、私たちを見失うことはもうありません。

天の御座を捨てて、私たちと同じ貧しく脆い土の器になってくださったお方は、十字架にまでかかり、罪人の友となり、陰府にまで下り、地獄を神の国に変えてしまわれるお方です。

そのお方の前に失われた者などどこにもいないのです。

今日もまた、神から最も遠く離れた者たちを、キリストは招いておられます。あるがままで、ふさわしくないままで、神を拝む者になるようにと招いておられます。

いや、本当は、もう私たちがその方の前に出る前に、その方のほうからこの世界に来られ、私たちと共におられることを選んでくださったのです。そして、この私たちのことを「あなたは私の民だ」と呼んでおられます。

今夜、この教会でこのメッセージを聞いた者たちと共に、キリストの祝福は、共に帰って行かれます。そしてもう二度と離れることはありません。

この教会の扉を超えて、あらゆる扉を超えて、もう二度と沈まない御子イエス・キリストの光が、私たちに付き添っていくのです。

祈ります。

主イエス・キリストの父なる神様、

あなたは御子を思いもかけないところに、お送りになりました。

それは、思いもかけない者、まさか自分のためにと思うことのない者たちの救い主となるためです。飼い葉桶から十字架と陰府に至るまでのキリストの歩みは、全ての者を救いから漏らさないためのあなたの愛の歩みです。この一年の悲しみの中にも苦しみの中にも、御子の足跡がないところはございません。そのあなたの愛にふさわしく、私たちも、今日、私たちの心をあなたにお捧げすることができますように。そして、あなたの祝福を、ここからあなたに伴われ、遣わされていくそれぞれの場所で、見、また告げることができますように。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。

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