キリストの証人としての新たな出発

6月1日(日)主日礼拝 イザヤ書44章6節~8節 使徒言行録1章6節~11節  松原 望

聖書

イザヤ書4468

6 イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。

わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。

7 だれか、わたしに並ぶ者がいるなら、声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。

わたしがとこしえの民としるしを定めた日から、

来るべきことにいたるまでを告げてみよ。

8 恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。

あなたたちはわたしの証人ではないか。

わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。

使徒言行録1611

6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

「 説教 」

序、

先週の礼拝では「キリストの昇天と執り成し」という題で説教をしました。キリストが天に昇られたのは、父なる神の右に座し、私たちのための執り成しをしてくださるためという内容です。

今日の礼拝では、主イエスが天に昇られた出来事が記されている使徒言行録1章を読みました。主イエスが天に昇られたこと、そしてその意味については先週既にお話ししましたので、今日は、主イエスが天に昇られた時に語られた言葉に注目したいと思います。

すなわち、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という言葉です。

この主イエスの言葉が使徒言行録の最初にあり、この使徒言行録全体の主題であり、また使徒言行録全体の流れを示す重要なキーワードになっています。

1、使徒言行録とペンテコステ

来週の日曜日は、教会の暦では「ペンテコステ」になっています。聖霊が弟子たちに降ったことから「聖霊降臨日」とも呼ばれます。

「ペンテコステ」という言葉は、ギリシア語で「50日」という意味です。元々ユダヤの祭りの日で、旧約聖書では「七週の祭り」となっています。過越しの祭りの日から数えて七週間後に行われることから、このように呼ばれました。七週間は49日です。これをギリシア語に翻訳した時に、「50日」を意味する「ペンテコステ」と呼ばれるようになりました。

使徒言行録2章に、ペンテコステ(新共同訳聖書は「五旬祭」と翻訳しています)に聖霊が弟子たちに降った出来事が記されています。聖霊が下ったことによりキリスト教会が誕生したと理解され、「教会誕生の記念の日」として、キリストの降誕を記念する「クリスマス」、キリストの復活を記念する「イースター」と並んで重んじられてきました。

ペンテコステの出来事については、次週の礼拝で扱いますので、その説明はこれくらいにしておきます。

2、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」

主イエスは、弟子たちに「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と告げられました。

「エルサレムから始まって、地の果てにいたるまで、キリストの救いが宣べ伝えられて行く」というビジョンが示されたのです。

このキリストの言葉は、マタイ福音書の最後にある「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18~20)の言葉と同じく、弟子たちに与えられた使命です。その場にいた弟子たちだけでなく、彼らの後に続く弟子たち、キリスト教会にも与えられたのです。

使徒言行録は、このキリストの言葉の通りに、弟子たちがキリストの証人として、歩んだ姿を描いているのです。

「使徒言行録」という表題は、キリストから使命を受けた弟子たちが忠実にその使命を果たしている様子を伝えているのです。

実際「使徒言行録」は、ペトロを初めとする弟子たちのエルサレムでの働きを記しています。その後、エルサレムから少し離れたユダヤとサマリアでの伝道の様子が、そして、13章から最後までで、使徒パウロが今のトルコ、ギリシア、ローマへと伝道する様子を記しています。

使徒言行録は、パウロがローマに到着し、捕われの身でありながら伝道を続けたところで閉じられています。しかし、キリスト教会はその後も数々の困難、迫害を受けながらも伝道を続けて行きました。長い年月をかけながら、エルサレムから遠く離れた日本にもキリストの救いが宣べ伝えられてきたのです。私たちがこの日本の地でキリストを信じ、その救いを宣べ伝えているのは、キリストが示してくださった神の御計画が実現している証です。

3、聖霊の働き

使徒言行録は以前「使徒行伝」と呼ばれていました。「使徒の言葉と行動」という意味では同じです。

昔、「使徒行伝」を「聖霊行伝」と呼ぶことがありました。正式な使徒言行録のタイトル名ではありませんが、使徒言行録は単に使徒たちの働きだけが記されているのではなく、聖霊の働きが多く記されているということからそのように呼ばれることがありました。

たしかに、主イエスは「聖霊があなたがたに降るとき」とおっしゃいましたし、ペンテコステの時聖霊が降った様子が記されています。その後も、聖霊の働きが記されており、「聖霊行伝」と呼んでも違和感を感じないほどです。

使徒言行録に聖霊の働きが繰り返し記されているのは、使徒の働きは神の計画であり、神ご自身が働いてくださっていることを示しているのです。神の働き無くして、使徒の働きはありません。「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩編127:1)とあるとおりです。

4、キリストの証人

使徒言行録の主題とも言える言葉が最初にも言いましたように、「キリストの証人」です。特に使徒言行録によく出てくる言葉は「主の復活の証人」です。必ずしもこの言葉通りではありませんが、ペトロを初めとする弟子たちがたびたびこの言葉を口にしています。

弟子たちは使徒言行録の中で「使徒」と呼ばれていますが、その使徒を補充する選挙(使徒言行録1:12~26)の際も「いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」とあります。また、ペトロは「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」と人々に語りました。また、「ほかのだれによっても救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)とも告げています。

彼らは確かにキリストの復活を目撃しましたので、「キリストの復活の証人」と呼ばれるにふさわしい人々でした。

彼らのように、直接の目撃者でなくても、キリストの復活を信じ、復活されたキリストによって救われたと信じる人々も「キリストの証人」です。

キリストが弟子のトマスに「見ないのに信じる人は、幸いだ」(ヨハネ20:29)と言われた通りです。

5、イザヤ書4468

「あなたたちはわたしの証人ではないか。」(イザヤ44:8)

旧約聖書の時代から神の民であるイスラエルは、神を証しする民であると繰り返し告げられていました。

新約の神の民、キリスト教会も神を証しする民として立てられています。証しするのは、キリストの復活は当然ですが、キリストによってすべての人々を救うという神の御心を証しすることが教会に与えられている使命なのです。

6、多くのキリストの証人に囲まれている

新約聖書のヘブライ人への手紙は11章で旧約時代の数々の信仰者たちを取り上げ、12章1節で「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と勧めています。

私たちは無数の神の証し人たちに囲まれて、信仰へ導かれ、支えられてきました。しかし、彼らを通して、私たちを導き、支えてくださっているのは神なのです。

私たちも後に続く人々のための神の証人として立てられています。その私たちに力を与え、その務めを全うさせてくださるのは、神です。その神を仰ぎ見ながら、与えられている務めを全うしていきたいと思います。

 

 

 

コメント

この記事へのコメントはありません。