2023年2月5日 主日礼拝 ヨハネによる福音書10章7節-70節
以前、輪島教会の牧師であり、また富山二番町教会の牧師でもあった逗子教会の小宮山先生をご存じの方も少なくないだろうと思います。
私の家族は、現在、その教会、所属なので、個人的に親しみを感じている先生ですが、北陸で過ごされた経験がきっかけとなり、浄土真宗から学ぼうという姿勢をお持ちになっていると、伺ったことがあります。
浄土真宗の他力本願、絶対他力の信仰を学んで、プロテスタント教会も、徹底的に、恵みのみの、宗教改革の信仰を学び直そうということであったと思います。この浄土宗、浄土真宗と、プロテスタントの信仰がかなり似ているということは、以前からしばしば指摘されてきたことです。
悪人こそが、阿弥陀仏の本願によって救われるという他力本願の信仰は、行いではなく、キリストの十字架によって罪人が救われるという我々プロテスタントの信仰と、相通じるものがあります。
20世紀最大の神学者と呼ばれるカール・バルトという人も、当時の宗教学者達の論文によって、このことを知らされ、その主著『教会教義学』の中で、浄土宗、浄土真宗のことを「日本的プロテスタント主義」とさえ呼びました。
またその後も、北陸出身の哲学者、西田幾多郎の紹介によってバルトのもとへの留学を勧められた滝沢克己によって、この驚くべき類似は意識され続けました。
更に遡って言えば、実は、既に、16世紀のカトリック教会の日本への布教の際に、フランシスコ・ザビエルが、浄土宗、浄土真宗の中に、プロテスタント信仰への類似を見て取り、警戒していたという古い歴史さえあります。
これらのことは、知られているようでいて、案外、知られていないことかもしれません。
けれども、この驚くべき一致にも関わらず、既に、バルトという人が、徹底的に、強調したことがあります。
両者には大きな違いがあり、決して一つになることはないと、滝沢との対話においても、言い続けたことがあります。それは、イエス・キリストのお名前です。イエス・キリストというお名前の固有名詞であることが、決定的に大切であるということです。イエス・キリストというこのお名前は、阿弥陀仏に取り換えることも可能な単なる記号のようなものではないのです。
私たちキリスト教会の信じる罪の赦し、滅びからの救いが、単に人間一般の運命に対する救いを語ろうとするものではなく、この私の救い、他の誰でもない、歴史上、後にも先にも、たった一人しか存在しない、この私、固有名詞である私の救いであるのと同じように、イエス・キリストというお名前は、取り換え可能な記号ではないのです。
私たちの救い主には、独自の匂いがあります。この方だけの声音があります。この方だけの、目の色があり、鼻の高さがあり、髪質があり、声の高さがおありになります。つまり、私たち一人一人が人間一般ではないように、このお方も神一般でもなければ、救い主一般でもないのです。
そうでなければ出会えません。そうでなければ、救われません。
なぜならば、この方のくださる救いとは、この方に出会うこと、この方を私の友達として得ること、この方を、私を決して見捨てない味方として、兄弟としての生涯に渡るお付き合いを始めることだからです。
以前にもお話したことがあります。イエス・キリストのイの字も知らなかった、そういう所で育った古い古い日本人、ちょんまげを結ったお侍さんであった明治時代の日本人が作った旧賛美歌356番にこういう歌詞があります。
「我が君イエスよ、君いまさずば、我は上らじ、天つみ国に/いかに楽しき住まいありとも」。
天国に行けるから、神さまを信じるんじゃありません。楽しい天国での永遠の命を約束してもらえたから、イエスさまに従って行くんじゃありません。我が君イエス・キリストが、「あなたはわたしのものだ」とそのまなざしで、この私の目を見て、仰ってくださったから、天国の約束でなく、永遠の命の価値でなく、その声に、この方にどうしようもなく捕らえられてしまったから、この方にお従いするのです。
つまり、出会ってしまったのです。
私の羊飼いに出会ってしまったのです。その声を聴いてしまったのです。私の、私だけの名を、後にも先にもないわたし自身の名を呼んでくださる、その独特の声、オンリーワンの主人の声として聴いたのです。
その声だけが、私を本当に突き動かせるのです。本当に突き動かすのです。
救い主一般ではありません。私の名前を呼ぶことのない、私の目を見てくれることのない救い主一般のためには、天国を諦めるほどではないのです。そんな歌は、決して歌えないのです。
ここに我々の信仰の排他性があります。
バルトが指摘する前から、最初の日本人キリスト者たちが既に知っていたことです。
この讃美歌の作者だけではありません。
私たちの教会にも親しい植村正久という日本のプロテスタント教会の初代に属する牧師もまた、法然の信仰に敬意を表しつつ、しかし、そこには、主イエス・キリストの人格、つまり、その固有名詞が欠けていることが、決定的なことであることに、気付いておりました。
イエス・キリストだけが私たちの命の門です。もう少し、際立った言い方をすると、他の誰かにとってということをいったん置いておいて、イエス・キリストだけが、この私の命の門です。
長い長い間、教会は誤解されてきました。いいえ、教会自身が、誤解していました。信じた私が救われるとは、裏返して言えば、信じない者は救われないとセットだと誤解してきました。あるいは、どんなに言い方を変えたところで信じた者への報酬として、イエス・キリストの救いに与れると、思い込んできました。もしかしたら、まだまだそんな風に理解しているキリスト者は多いかもしれません。
けれども、それは、誤りです。キリストの救いを根本的に誤解していることだと、私には思われます。
なぜならば、キリストの救いとは、このお方を信頼している、このお方を信頼することができる、そういう人間関係を、このお方と始めているということだからです。
つまり、イエス・キリストの福音とは、常に、この耳に響くときには、この私の名を呼ぶ羊飼いの救いの呼び声であり、隣人への滅びの宣告として語られるものではないからです。
もう少し、言い換えます。
救いという言葉を、あまり、宗教的な言葉の使い方に押し込めないで、まずは、当たり前の日常生活の中の言葉として捕らえ直してみれば良いのです。私たちがとんでもない誤解の中に入れられるとき、救われるのは、どんな時も、私のことをわかってくれる家族の顔、友の顔を思い起こすことができることではないでしょうか?ああ、あの人だけは味方になってくれる。あいつだけは、支え続けてくれる。私たちが、厳しい病の中に入れられるとき、きっとあの人は、私の手となり、足となってくれる、そう思える人の顔が浮かぶということが、救いなのではないでしょうか?もちろん、誤解が解けること、病が癒えることも、救いです。
けれども、絶望に落ちそうになっている私を見捨てず、人生のどん底にあっても、私のことを見捨てない、傍らにあり続けてくれる家族を見つけること、友を見つけること、仲間を見つけることが許されること、一体全体どっちが本当の救い、本当の救い主と言える存在でしょうか?
時と場合による。あるいは、得ることの許されたその味方との繋がりの深さによると、私たちは答えるでしょう。
イエス・キリストという味方、友を得た時の、心強さ、かけがえのなさとは、一人のお侍であった古い古い日本人の証言によれば、楽しい天国の住まいにはるかに勝るものであります。
キリストの救いは、このような救い主と出会うこと、そのものが救いそのものである救いなのです。
この時、その救い主の名前は余計なものでも何でもありません。名前がなければ困る。その救い主に名前がある。顔がある。匂いがあるということが、本当にかけがえのないことなのです。
つまり、主イエス・キリストこそが命の門であるとは、顔と顔とを合わせた出会いを求めてくださる、そのために、天から降られ、人となってくださった、私たちのこの手で触れることのできるからだを備えてくださったイエス・キリストと、顔と顔とを合わせながら、聴かせて頂く御言葉であり、この方と目が合わないままでは、声ではなく、風の音と変わらないものなのです。
主イエスのまなざしを失うならば、主イエスの声の響きを失うならば、喜ばしい知らせではなく、冬の隙間風のように不快な雑音にしか聴こえなくなってしまうものなのです。
私たちキリスト教会は、「わたしは羊の門である」「わたしを通って入る者は救われる」という、この私の固有の名、私たちの固有の名前、私たちと共に生きる隣人のその固有の名前を呼びながら、招いておられる、この救い主のはっきりとした御声、人格的な声、肉声を、隙間風の金切り声のように響かせてしまったことがないと言い切れるでしょうか?どれほど長い間、どれほど多くの人に向かって、雑音を発するだけではなかったか?
もしも、聴かれなかったとしたら、それは正しかったのです。生けるキリストのまなざしを失った聖書の言葉、その羊一人一人の名前を呼ぶキリストの息遣いを失った聖書の言葉は聖書の言葉でありながら、それは盗人の声であり、強盗の声です。
私の友人がセンセーショナルな動画をYouTubeにアップしました。
センセーショナルと言っても、本当は、冷静な試算をそのまま報告しただけのものです。2050年に、日本基督教団という教会は、消滅するという内容の動画です。過去から現在のデータをもとに、毎年の減少幅を試算していくと、2050年にゼロになると言うのです。今から30年弱、先のようで、先ではありません。
もう、主イエスの声に魅力がないからでしょうか?私は私たち牧師が、私たち教会が、聖書は重んじているかもしれないけれども、そこに主イエスの息遣いを聴き損なっているからではないかと、自分自身を戒めます。
世にある一人一人の名前を呼んでおられる主イエスの声を、響かせることのできていない我々、説教者、我々キリスト教会ではないかと、思わされるのです。しかし、翻って考えるならば、主の羊であることを自他ともに認める私たち自身が、洗礼を受け、自他共に認める消えないキリストの焼き印の押された私たち自身が、主の生ける声を、見失っているからかもしれません。
それは、単なる想定です。主イエスの生ける御声はなお、覆われることなく、はっきりと、全国の諸教会で、一人一人の名前を呼ぶ主イエスの声として、語られ続けており、羊の頑固さを打ち砕かれるのを、今か今かと待っているだけに過ぎないのかもしれません。
けれども、そうでないならば、主よ、憐れんでください。その腸を焦がし、私たち教会の目と耳をお開きください。この貧しい説教者の耳と口を、キリスト者たちの心をお開きくださいと、祈らざるを得ません。
主イエスは仰います。主イエスは、断言されます。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも、豊かに受けるためである。」
この方は来られ、ご自分の使命を必ず成し遂げられます。現に我々は連れ戻されたのです。その業は、最後の一匹に至るまで続きます。
今日の聖書箇所を思い巡らしながら、厳しい悔い改めへと招かれながら、けれども、私は、少しも暗い気持ちになっておりません。
既に、このように行きつ戻りつしながら、迷っているようでありながら、キリストの教会は、私達金沢元町教会もまた、その使命を果たしていくのだと信じています。
9節で主は仰います。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
教会とは、戸の閉ざされたノアの方舟ではありません。主イエスがここでご覧になっている教会の姿は、少なくともそのようなものではないでしょう。それは、出入り可能なのです。出入りしながら、羊は牧草を見つけるのです。このキリストの門は、たいへん風通しが良いのです。出たり入ったりできるのです。自由に出入りしながら、羊は、命の牧草を得るのです。
それどころか、この門であるお方は、動かず、どしんとそこに構えているのではなくて、「わたしは来た」と仰るお方、来られる方、動くお方なのです。
まるで足の生えた門、旅する門です。
だから、私たちもまた、今あるところに安住いたしません。いかに楽しき、居心地の良い場所であっても、私たち教会は、このキリストの進まれるところに、従ってまいります。出たり入ったり、道を外れたりしながら、この方の進まれるところに参ります。
なぜならば、この方のお側以外で、本当に楽しい場所、本当に慕わしい場所は、この私には、私たちには、もう、どこにもないからです。
祈ります。
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