8月15日 マタイによる福音書6章25節から34節 高畠 敬一長老
「幸せそうな顔をした人たちを殺してやりたかった」という思いで35才の男性が見ず知らずの人を10人もナイフで傷つけた事件が先週ありました。それも電車の中でのことでした。この様なニュースを聞きますとおちおち町中をニコニコして幸せそうに歩けそうもありません。いつナイフが飛んでくるかも知れないからです。みなさん、これから電車に乗るときは胸に「私はこんな顔をしてますが本当は幸せではありません」というプラカードをぶら下げて乗ることにしましょう。
この事件を起こした人にはどれだけ欲求不満があったのでしょうか。自分の思いが満たされない、自分の希望が叶えられない、その様な満たされない思いが赤の他人を傷つける行為に走った訳です。他人事ではありません。小さい不満、かなわぬ希望、欲しい物が手に入らない、手に入れたい地位は他人のものになった、名声を望むが夢の又夢。その様な気持ちは誰にでもあると思います。私たちはただその満たされない欲望をそれぞれ我慢をして毎日を過ごしている訳です。心理学的に言うと代償作用とか合理化と言った技巧でその不満を自分に納得させようとすることもあるでしょう。またある人は薬に走るといった行動で自分の欲求不満を満足させようとします。ギリシャ神話ではこの様な私たちの欲望、災い、ねたみ等の渦巻く人間社会をパンドラの箱という神話で現しています。仏教でもこの欲望の人間社会を惑・業・苦という思想で解説しようとしているのではないでしょうか。それでは私たちの聖書はどのように言っているのか先刻司会者に読んで貰った箇所を見てみたいと思います。
「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の身体のことで何を着ようかと思い悩むな。」イエス様は彼を一心に見つめる群衆を前にまず「思い悩むことはない。」と言い切ります。群衆は思ったことでしょう。それじゃ私たちにはいろいろな悩みがあるのにそれをどうすれば良いというのか。勿論、イエス様は人々に悩みが無いとは思っていなかったでしょう。むしろそこに集まってきた人々には多くの悩みがあるからこそ解決を求めて集まって来た事を知っていました。イエス様は続けます。「空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。」そして続けます。「だがあなた方の天の父はその様な鳥たちを養ってくださる。」群衆は思ったことでしょう。そう言われればそうだ。それでは私たちが悩んでいるいろいろなことはいったい何だろう。本当に悩むに値するものだろうか。私たちのイエス様は空の鳥から今度は野に咲く草花に目を向けます。「野の花はどのように育つのか、神は野の花の様に働きもしない、紡ぎもしないものでさえたくましく養い、美しく装ってくださる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」・・・・と続けます。「だからあなたたちは悩まなくて良い。天の父はこれらのものが皆あなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。」何だか少しはぐらかされた様な気もしますが、しかし、今日私は聖書の読み方として素直な読み方を皆さんにお勧めします。聖書には読んでいてもはっきりと理解できないような箇所も多々あります。その為に聖書の解説書を見て聖書をもっと正しく読むのも良いでしょう。旧約聖書、新約聖書の時代背景を知ることもとても大切だと思います。アブラハムから始まるユダヤ民族の神との契約、服従と離反、バビロン捕囚やローマ帝国による理不尽な支配。その様な苦難の歴史を知ることは新約聖書を読む際にはある意味にはとても大切でとても必要な態度だと思います。しかし、今日、この聖書の箇所を読む態度としてはイエス様のお話を聞くため集まってきた人々と同じ気持ちでありたいと思います。いろいろな日常の欲求不満や煩い・悩み・悲しみを持ちながらイエス様のお話を聞くために一生懸命集まってきた人たちはイエス様の言葉を一言も聞き逃さないよう熱心に聞き入った事でしょう。
私たちは今日コロナ感染症の混乱の中にあります。これまで当たり前に思っていたこと、つまり聖日ごとに礼拝を守るため会堂に集まるという当然のことが難しくなっています。それでも私たちは会堂礼拝と共に、家庭礼拝という形でもって場所は違っていても、顔を見せ合うことができなくても共にイエス様のみ言葉を聞こうとしています。遙か昔、イエス様のお話を聞こうと集まって来た人たちと今日の礼拝を守る私たちは全く同じ気持ちです。イエス様はその様な彼らそして私たちを前にして暖かく、きわめて明確に、素直に、説明も解説もいらない話をしているのです。「腑に落ちる」という言い方があります。全く素直にストンと気持ちに収まるという状態を言います。イエス様の「空の鳥、野の花」のたとえ話を私たちはイエス様の話を聞くために集まって来た当時の群衆と同じように腑に落ちる様に聞きたいものです。この「空の鳥、野の花」のたとえ話が終わった少し後の聖書の箇所では人々はこの話を聞き非常に驚いたと書かれています。そのまま受け入れるに足る権威あるお話と思ったのです。私たちも聖書を読むとき驚きを持って読みたいものです。
「私の恵みはあなたに十分である」という(コリントの信徒への手紙 二 12章9節)のみ言葉もあります。もう一度言いますが、今日の聖書の箇所でイエス様がお話しされたのは「思い悩むな、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。」というみ言葉です。今日の聖書の箇所でイエス様のなされたのは人生の生きる知恵、説明・解説ではありません。そのまま受け入れるに足る「宣言」なのです。祈ります。
ある詩人が歌った詩のように、吸う息は苦しみでも吐く息は感謝でありますようにと私にも祈らせてください。
どうぞ、あなたの恵みによって与えられた信仰を育んでいる若者にはあなたの励ましのまなざしが注がれますように。どうぞ、あなたの恵みによって与えられた信仰の生活をこの世にあって実践してきた頭に白髪の冠を頂いている人たちにあなたの恩寵がありますように。ここに頭をたれて共に祈っている信仰による家族の生き様(さま)がすべてあなたの御心のままでありますように。今日、コロナ禍のために会堂に集えずそれぞれの与えられた場所で礼拝に参加している信仰の家族の上にあなたの恵みが限りなくありますように祈ります。今日は8月15日太平洋戦争が終わった日になります。戦争の悲惨な記憶はだんだんと私たちの中から消えていきますがその様な悲しみがこれから又若者たちに降りかかることの無いように導いてください。
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