12月24日クリスマスイブ礼拝 マタイによる福音書2章1節~12節 大澤正芳牧師
クリスマスおめでとうございます。
主の日の日曜日の夜、こうして、共に礼拝堂に集い、クリスマスの礼拝をお捧げできますことを心より感謝いたします。
私にとって金沢元町教会牧師としての最後のクリスマスメッセージとして、是非、神様が、今日ここに招いてくださった皆さんと共に、まだ洗礼を受けていない方も、多くいらっしゃる神に招かれた皆さんと共に、お聴きしたいと願ったのは、有名な東方の博士たちの物語です。数年前にも、やはり、この場で共に聞いた箇所です。
しかし、実は、この物語は、この2023年のクリスマスの時期ではありません。この数年の間、ずーっと、ずーっと、私の心に留まり続けている聖書の物語の一つです。
ずーっと、私の胸に留まり、たとえば、教会の中の人、外の人、どんな人と話している間も、ずーっと、去来し続けている聖書の物語なのです。
2023年、そのクリスマスの物語をもう一度、聴きたい。
有名な物語です。
ページェントと呼ばれるクリスマスに行われるキリストの降誕劇の一部として、必ず、演じられる場面の一つです。
ユダヤ人たちから見て東方の世界からやって来た占星術の学者たちが、ユダヤ人の王さまの誕生を知らせる星の出現を母国で発見し、はるばるユダヤの地までその幼子を拝みに来たという物語です。
今年もわが家の子どもたちが、キリスト教主義の保育園と、小学校で、それぞれページェントを演じてきました。
年長児の三女は、東方の学者の一人を、二年生の次女は、二年生全員で、その学者たちを導いた不思議な星を、演じました。
ユダヤ人の王の誕生を示す夜空の星に導かれた東方の星占いの学者たちが、クリスマスにお生まれになった幼子であるイエスさまに、黄金、乳香、没薬を捧げ、礼拝する忘れがたい場面の一つです。
私はこの聖書の物語を巡って、いつも思い起こす出来事があります。
私たち夫婦がまだ子どもも与えられない内に、最初に伝道師として仕えた奈良の教会で経験した一つの出来事です。
それは、いつの時期であったか、正確には覚えていませんが、もしかしたら、クリスマス近辺の季節であったかもしれません。
毎週行われていた日曜日の夕礼拝に、一人の若い女性が、訪れました。
2回、3回と、回数を重ねて、奈良の教会の小さな夕礼拝に出席されました。
その静かな夕べの時間を、その方は、喜んでおられたと思います。
朝の礼拝ではなく、夕べの礼拝に来られたのは、日曜日の昼はお仕事をなさっているからだと、最初に自己紹介してくださいました。
小さな礼拝ですから、礼拝が終わった後も、出席者は、牧師たちと少し立ち話をしてから帰って行かれます。
夕礼拝2回目か、3回目くらいの出席の時であったように思います。
その若い女性は、御自分の職業は、占い師であると、教えて下さいました。
自分の得意とする西洋の占星術には、キリスト教のシンボルが、色々用いられているから、親しみを覚えて、教会の礼拝に来てみたのだと、礼拝後の立ち話でお話しくださいました。
私は西洋式の占星術にどれだけキリスト教的なシンボルが実際に用いられているか知りませんが、そのとき、キリスト教会と星占いは、それほど関係がないかもしれませんとお茶を濁すようにお答えしたのを覚えています。
しかし、正直に言えば、「キリスト教会と星占いはそれほど関係していないかもしれません」という私の答えは、お茶を濁すような曖昧な表現であったと思います。
当時の私の思いとしては、全く何の関係もない。いいえ、キリスト教会と占いとは決して相容れるものではないと思っていたと言った方が、本当は私の心にぴったりでした。
旧約聖書の中、占いは、主なる神さまの厭うものであるから、行ってはならないと繰り返し、繰り返し、戒められています。
たとえば、申命記18:14には、「あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」と、命じられている通りです。
なぜ、聖書は、主なる神さまが占いを禁じると言われるのでしょうか?
占いは、聖書が私たちを招こうとしている神信頼とは、真逆の行為だからです。
それは、主なる神さまが私たち一人一人にご準備されている秘められた計画を先回りして知り、それを自分の思うままに操作しようという誘惑に基づくものであるからです。
しかも、真の神様の目をかいくぐって、真の神ならぬ力によってそれを覗き見ようとすること、悪霊の力と内通することによって盗み見ることだと、聖書は語るので、キリスト教会と占いは全然関係ないと、言うべきなのです。
手相占いも、血液型占いも、おみくじも、星座占いも、洗礼を受けたキリスト者は、関わるべきではない。
いいえ、もっとポジティブに言うならば、方角とか、お日柄とか日取りとか、そういうものから自由にされている、どの日も神さまの用意された日だと信じているのが、クリスチャンの強味だと言えるのです。
やがて、その方は、教会に来なくなりました。
教会の信仰とはこういうものだから、自分の職業とは、やはり、あまり関係がないと、ご自分で判断されたのかもしれません。
けれども、ここ数年、私は、このことをよく思い出します。
今日、共にお読みしている聖書の物語、東方の占星術の学者たちの物語を思い起こしながら、あの時の自分の考えは、とっても正しいけれども、同時に、とっても間違っていたのではないかと思い起こすのです。
なぜならば、東方の占星術の学者たちのキリスト礼拝を神はお喜びになり、それだから、その物語がクリスマス物語として、聖書に記録されたからです。
東方の占星術の学者たちが、その星占いによってです。
ユダヤ人の王、救い主の誕生を知り、その方を拝みにやってきたのです。
その出現した星は、彼らがエルサレムに到着した後は、普通の星であることを止めました。
その星は、彼らが、ヘロデの宮殿を出た後は、神の御手に直に導かれる星として、彼らに先立って進み、占星術の学者たちを、幼子イエス・キリストのいらっしゃるその家にまで、導いたのです。
そして、その占星術の学者たちは、幼子をひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬の宝を捧げました。
彼らを幼子の元まで導いた星は、彼らが東方で見た星のままではありませんでした。しかし、やはり、その星が、用いられ、占星術の学者たちを、主イエスの元へ、導いたのです。
主なる神さまは、ユダヤ人の王を救い主として拝むはずの者から、最も遠く時離れた者であるはずの、異教の、がちがちの占い師の、星の運航に導かれてきた占星術師の礼拝を、お求めになり、また喜ばれたのです。
全くその正反対として、この同じ物語の中にはヘロデ王がいます。ユダヤ地方の領主であり、自分とは違うユダヤ人の王の誕生を喜ぶことができず、面従腹背で、「見つけたら知らせてくれ。拝みに行くから」と言いながら、もう既に、その幼子を殺すことを心に定めていた者です。ヘロデは、その権力を、キリストに返す気がありませんでした。思い通りにできる力を握りしめて放す気がないのです。
けれども、たいへん不思議な記述であると言えますが、ユダヤ人の王の誕生を喜ばないのは、この明らかな権力者である王様だけではありませんでした。
3節の、「これを聞いて、『ヘロデは不安を抱いた』」という言葉には、たいへん意味深な記述でありますが、「エルサレムの人々も皆、同様であった」と続くのです。
民の祭司長たち、律法学者、エルサレムの全住民、すなわち、ユダヤ人の真の王の到来を最前列で待ち望んでいたはずの、神の民が、ヘロデと全く同じ不安を抱いたのです。
この神の民たちもまた、その権力を自分の手から放し、キリストにお返しする用意がないままでいるのです。
ヘロデほどあからさまで、分かりやすい力を握っているわけではありません。
しかし、その神の民たちも、ヘロデと同じように、自分の握っているもの、自分がコントロールできていると思っている、小さな範囲でしかないかもしれません。
けれども、ヘロデと同じように、その自分の人生の主導権を自分の手に握りしめたままなのです。
ある説教者は言います。これが神の民の姿だ。これが、私たちの姿だ。
教会が、ここに自分の姿を見ることなく、たとえば、良い気になって、この聖書の物語から、時の権力を批判をしているような説教をしているだけならば、それは神の言葉を聴き損なったのだと。
神の民と呼ばれながら、異教の占い師たちを心の底では軽蔑しながら、けれども、幼子のもとに、自分を差し出し、ひれ伏すことができないでいる神の民です。
私は、私の心の内に、私たちキリスト教会の内側にこそ、いつのまにか、このような罪が入り込んでしまうことがあることを認めないわけにはいきません。
いつの間にか、神の御前に自分の握りしめている力を手放せなくなってしまう、それを脅かす真の主人の到来の足音に不安を抱いてしまうのです。
占星術の学者たちが捧げた黄金、乳香、没薬、これらは、ただの宝ではなかったとある学者は言います。
大きな財産でした。しかも、彼らの商売道具、占いと魔術の道具であったと説明されます。
彼らの礼拝は、ただ異国の王を軽く拝んだということではありませんでした。身を投げ出すようにして、生活を投げ出すようにして、幼子の前にひれ伏したということが、この捧げものからわかるのだというのです。
神の御用意されているご計画を捻じ曲げることを辞めたのです。
東方の学者たちは、握ったものを手放したのです。自分で自分を支配することを辞めたのです。それは、ヘロデとエルサレムの住民とは対照的な姿です。
けれども、なぜ、この異教の占星術の親玉のような人が、自分の人生を自分の思い通りにデザインして行けることこそ、素晴らしいことだという価値観を持っていたはずのこの人たちが、このような大転換を行うことができたのでしょうか?
もちろん、彼らが偉かったからではありません。
9節後半の言葉をある聖書学者は次のように訳しています。
「そして見よ、その昇りゆくのを見たあの星が、彼らに先立ちゆき、ついに、あの幼子のいた場所の上にまで達し、そこにとどまった。そしてその星を見た時、大いなる喜びが彼らをとらえた。」
そうです。「大いなる喜びが彼らをとらえた」のです。
大いなる喜び、いいえ、正確には、星が留まった家の中にいたもうイエス・キリストが彼らをとらえたのです。彼らが、真実をとらえたのではなく、彼らこそ真実にとらえられたのです。そこに、喜びが生まれ、自分の握りしめているものを手放し、捧げ切ってしまう献身が生まれたのです。
イエス・キリストこのお方に出会った時、この学者たちは、キリストにとらえられ、ユダヤ人の王としてお生まれになったお方が、この自分自身の王、支配者であることが、わかったのです。だから、自分の商売道具を手放し、身を投げ出して、自分の真の主であるキリストを拝むということが彼らの身に起きたのです。
そのことが起こらなければならないのです。生まれながらの神の民であるか、そうでないか、神に今まで近かったか、遠かったか、そんなことは関係ありません。
大いなる喜びがやって来て、キリストがやって来て、私たちをとらえるということが、ここに起きなければなりません。
そうすれば、私たちは握りしめていたものを手放せます。そうすれば、私たちは、安心して神への献身に生きることができるようになります。
そして、クリスマスの礼拝とは、このようなイエス・キリストと人間の出会いが、2000年前の東方の学者たちの身に起こっただけの過去の出来事ではなく、その出来事がこの礼拝の中で繰り返し語られる時、今、ここに、そのような私たちをとらえるキリストとの出会いが、今、ここに現実に起きるのだと信じ、その約束の内に、捧げられるものなのです。
さて、このようなキリストとの出会いがもたらす大転換によって、占星術の道具、呪いの道具を捧げてしまったと、聖書学者たちが解説する、この東方の学者たち、これで、自分の生業を捨ててしまったのか?
そうかもしれない。そういうこともあると思います。しかし、そうでなかったかもしれない。それでも良いと、私は思います。
キリストとの出会い、キリストにとらえられるという大転換が、彼らの身に起こった後に、彼らが、占星術の学者のままであったとしても、それは少しも問題ではないのではないかと、最近、私は思うのです。
彼らは、故郷に戻り、そこで、占星術の学者であり続けたのではないか?そして、彼らの元を訪れる人々の相談に乗り続けたのではないか?たとえば、そう想像したとしても、少しも問題ないと思うのです。
けれども、もう、この占い師たちには、その占いのために、占いのための道具も、まじないのための道具も、何も必要はなくなったのではないかと思うのです。
彼らの占いにとって大切なのは今やただ一つの星の運行、いいえ、そのただ一つの星がその上にとどまった、一人の幼子であり、その方が、彼らの占いのすべてのすべてとなったのではないか?そう想像することは、許されるのではないかと思うのです。
それ以来、どんなに悪い星の巡りが空に現れても、彼らは言うのです。大丈夫、救い主がお生まれになった。どんなにひどい手相が現れても彼らは言い切るのです。大丈夫、あなたの救い主がお生まれになった。たとえ、東の空で見たあの星が、ユダヤ人の王の十字架を示したとしても、ますます言い切るのです。
その十字架のキリストの姿こそ、いよいよ我々と共にいてくださるキリストだからです。
大丈夫、あなたの救い主はあなたと共におられる。
彼らのその後の占いには、いつも、いつも、インマヌエル、神が私たちと共におられるという言葉が語られるようになったのではないか?
このように想像するのは愉快なことではないかと思うのです。
キリストにお会いした者、キリストを拝む者として生きるということは、全然違った自分にならなければいけないということではありません。
日本人は日本人のまま、カナダ人はカナダ人のまま、ロシア人はロシア人のまま、ウクライナ人はウクライナ人のまま、ユダヤ人はユダヤ人のまま、パレスとな人はパレスチナ人のまま、そのありのままのあなたが、キリストと出会い、キリストが伴ってくださるあなたなのです。
いいえ、正確に言えば、わたしはわたしのまま、あなたはあなたのままなのだけれども、それなのに全然違うのです。
私のために救い主がお生まれになり、私は一人きりではない。自分の人生を自分の力で何とかうまくやっていかなければならないのではない。
なぜなら、クリスマスにお生まれになった御子は、どこまでもどこまでも、貧しい飼い葉桶から十字架に至るまで、どこまでもどこまでも私たちに伴ってくださる方だからです。
私たちの人生は呪われていません。少しも呪われていません。
大丈夫、安心して良いのです。
私とキリストは、あんことそれを包むお饅頭の皮のように、混ざってしまうことはありませんが、離れがたく一つなのです。
キリスト抜きのあなたはなく、あなた抜きのキリストは、もうどこにもないのです。それがインマヌエルです。
わたしはわたしのままで、あなたはあなたのままで、この救い主に出会い、この方と、永遠を共にし始めるのです。
このような救い主誕生の知らせをこの世界に告げる東方の占星術の学者たちは、占星術の学者のままで、しかし、今や、彼ら自身が、不思議に輝く星となります。
人々を御子の元にまで導く星です。出会う全ての人に、出会う全ての人の生涯が、神に祝福された人生であることをお語りくださる御子イエス・キリストを、指し示す輝く星となるのです。
神はあなたを星として用いられます。どんなに小さなあなたでも、神は、あなたを、あなたのままで関東人は関東人のまま、北陸人は北陸人のまま、キリストの祝福を知らせる使者として用いられるのです。
東京神学大学という牧師養成の神学大学で、旧約聖書を教えた松田明三郎という人が書いた『星を動かす少女』という散文詩があります。
これを2023年のお一人お一人へのクリスマスプレゼントとして、お贈りします。
「星を動かす少女」
クリスマスのページェントで、/日曜学校の上級生たちは/三人の博士や/牧羊者の群れや/マリアなど/それぞれ人の眼につく役を/ふりあてられたが、/一人の少女は/誰も見ていない舞台の背後にかくれて/星を動かす役があたった。/「お母さん、/私は今夜星を動かすの。/見ていて頂戴ね-」/その夜、堂に満ちた会衆は/ベツレヘムの星を動かしたものが/誰であるか気づかなかったけれど、/彼女の母だけは知っていた。/そこに少女の喜びがあった。
2023年のクリスマスイブの夕べの礼拝、不思議な星に導かれ、つまり、星となった東方の学者たちのような、家族、友人、知人に導かれ、不思議にもこの礼拝へと招かれたお一人お一人が、今、ここで、不思議にも、礼拝しています。不思議にも、キリストを拝んでいます。
インマヌエル、神は私たちと共におられます。自分で自分の生涯をコントロールしようとしなくて良いのです。祝福の主が共におられ、ここにいるお一人お一人の生涯を、良き御心の内に導かれます。
この礼拝の後に、皆さんは、それぞれの場所に戻りますが、このインマヌエルの主と共に、戻るのです。
共にいるそのお方の約束が、お一人お一人の顔に輝きを与えます。お一人お一人の言葉に力を与えます。
私はこれを何度でも何度でも、皆さんと共に分かち合いたい。
今日、この言葉を聴いたお一人お一人が、あなた自身が、人生の思い煩いをこのユダヤ人の王、そして、この私たちすべての人間の真の王に委ねて、自由に生きて良いのだと、解放の知らせを告げる不思議な星の輝きとなるのです。本当に小さな輝きかもしれない。救い主との出会いの後は、あなたの働きは忘れられてしまうかもしれない。しかし、神は、そのように生きる皆さんのことを、本当に本当に喜んでくださいます。
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