7月半ばに入ると、夏期学校がいよいよやってくるという少しお祭り気分になってきます。ロビーに張り出された奉仕表、献品表が週ごとに埋められていく様を見ながら、やはり、夏期学校はどこの教会にとっても力のいる、一大行事だなと思わされますが、しかし、普段は教会学校に関りの少ない方々もこの時ばかりは、その奉仕表、献品表に、名を連ね、これは教会にとって楽しみとやりがいも多い、こども伝道の時間であると改めてわくわくする思いがいたします。
また、この教会に赴任した昨年からは、夏期学校がやってくるということは同時に、私の夏休みもやってくるということを意味するようになりました。3週間、説教の任務から解かれ、牧師は充電期間を頂きます。
その三週間は、十分なリフレッシュの時間と、また、普段はなかなか手のつかない原稿依頼をこなす時間として集中して過ごすことができるので、とても助かっています。
昨年は、この貴重な時間を頂き、私の神学校時代の恩師である朴憲郁先生の引退を記念した献呈論文の執筆に、力を注ぎました。おかげさまで無事提出でき、他の方々の論文と共に出版できました。
私の神学研究に興味がある方がいらっしゃれば、やがて、教会でもそういうお話をする機会も与えられることと思いますが、私が神学校でも、そしてまた、その昨年書いた論文においても、問い続けているのは、子どもへの伝道というテーマであります。
さらに狭めて言えば、今の関心は、教会学校でどういう説教をするかということです。しかも、これは、子どもとか教会学校の教師でなければ関係のない課題ではないと思っています。
教会学校の説教というのは、だいたいにおいて、洗礼を受けていない、あるいは洗礼を受けていても、まだ信仰告白をしていない者への説教、つまり、自分の口で明確に信じているわけではない人々に対する説教であります。
だから、教会学校の説教の課題には、未信者にどう説教するのか?まだ信仰を与えられていない者に、何をどのように語るのか?という大人への伝道にも通じる問いが含まれていて、この課題をやり過ごすことはできません。むしろ、子どもにも分る印象深い物語を選ぶとか、わかりやすい言葉遣いを研究するということでなくて、教会学校の説教の研究というのは、福音伝道の根本にかかわる課題を考えるということが大事だと思っています。
だから、私の関心の領域というのは、教会学校の教師だけでなくて、日本という伝道地で、自分以外は、キリスト者でないし、教会に通っていないという状況に生きる者であるならば、切実な問いであると思っています。
子どもの伝道、子どもの説教に対する私の関心は、そういう部分に通じています。たとえばそこで、具体的に問いたいと思うことは、子どもに対する説教が、しばしば、簡単に道徳化してしまうということです。
子どもへの説教の結びは大人への説教の結びよりもしばしば直接的に、「だから、~しましょうね。」という風に閉じられます。「信じましょう」という信仰の決断を促す招きでも同じことです。その招きが、暗黙の裡に、「信じれば、救われる」という論理を持っているとすれば、信じない限り、その日語られた神の言葉は、聞く者にとって、無関係な言葉になってしまっているからです。
100パーセントそうであるとは言えませんが、単純に言えば、「~しましょうね」という言葉で結ばれる説教は、キリスト教的色付けがなされた道徳のお話し、いわば、律法主義的説教になりがちです。
けれども、それでは、説教の課題を果たしたことにはなりません。説教は、祝福を告げること、しかも、その祝福とは、罪の赦し、神との和解、神との関係修復を告げる恵みの言葉、無条件の言葉だからです。
今日の個所は、神がキリストを通して、私たちに告げてくださる赦しの言葉が、無条件であることをよくわからせてくださる個所だと思います。
今日共に読みました聖書の言葉は、教会学校で特に愛される聖書の出来事だと思います。4人の男が中風、体の麻痺している仲間を担いで主イエスの元に来たという有名なお話です。
その人たちが、主イエスの元にこの体の不自由な人を連れて行こうとするのですが、主イエスのお入りになっていた家は、黒山の人だかりでどうしても、お側に連れて行くことができませんでした。
どうしたものか、しかし、絶対にこの人を主イエスの元に連れて行きたいと決心した仲間たちは、屋根に上ると、主イエスはこのあたりにおられるだろうと見当をつけ、わらと土でできていた当時の家の屋根を、剥がして、大きな穴をあけると、屋根からこの中風の人をつり下ろし、主イエスのお側に降ろしたという印象深い物語です。
2.3年に一度は、教会学校の礼拝で話され、10何年に一度は、夏期学校のテーマとなるような聖書の話だと思います。それだけ、子どもから大人まで多くの人に愛される聖書の物語であると思います。
けれども、既にお気付きのように、マタイによる福音書は、この物語を私たちに語り聞かせるに際して、だいぶ、省略して語ります。
この物語を思い浮かべる時に誰もが、そのハイライトの一つと思うような、屋根を引き剥がして、病人を主イエスの元につり下ろすという描写が欠けているのです。
そのようなドラマチックな場面の代わりに、マタイはそっけないほどに、「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスの所に連れてきた。」とだけ、伝えます。
マタイは、マルコによる福音書を下敷きにしながら、その福音書を書いたと言いますが、マルコによる福音書には、その場面が生き生きと描かれていますし、マタイと同じようにマルコによる福音書を下敷きにしたルカ福音書も、これは大事なことと、屋根からの病人のつり降ろしを描きます。
しかし、マタイという人が、このような中風の人を連れてきた仲間たちのドラマチックな行動を省略するとき、たとえば、マタイには文学的センスがないと思う人があるかもしれませんし、あるいは、マタイが手にしていたマルコによる福音書は、今私たちが手にしているものとは違い、そのような記述が初めからなかったと想像する人もいます。
けれども、私は、そのどちらでもないだろうと思います。
マタイには、もっと、際立たせたいこの出来事の中の驚くべきことがあった。その驚くべき事柄を伝えようとするとき、この印象的でドラマチックなエピソードすら吹っ飛んでしまった。それが消えざるを得なかった。マタイはマタイなりにそういうメッセージを、神から頂いたのだろうと思います。
そこで、マタイの独自性を大切にしながら、その出来事を読んでみる時に気付かされることは、マタイの視点からこの物語を見ると、この出来事は、何よりも主イエスを中心に回っているということです。
屋根を引きはがしてまで主イエスの元に仲間をつり降ろす人々の印象深い行動が省略されることにより、物語の軸は、主イエスの言葉であることがはっきりとし、読む者、聞く者は、自然と、その主の言葉に集中していきます。
「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
この福音書の物語が私たちに語りたい言葉はただこの一点に集中するのです。「あなたの罪は赦された。」
教会に託された使命とは、説教と牧会だという言われ方がすることがあります。教会にはいろいろな奉仕があるけれども、それが集約し、教会がこの世界に遣わされている意味、それは、説教と牧会をすることだというのです。
しかも、教会の使命が説教と牧会だと言う時、二つは全然別々の働きを意味するのではありません。
ある古典的な定義によれば、牧会とは、説教で語られた神の言葉を、一対一の関係で改めて、人に語りかけることだとされます。
私たちは、牧会と言うと、牧師が、教会員を訪問したり、手紙を書いたり、電話をしたり、牧師がする配慮、お世話のことを牧会だと考えることがあるかもしれませんが、そうではありません。
説教で語られたことを、説教壇から下りた一対一の場面においても、語ることが牧会です。
同じ言葉を、どの場面で語るかが、説教と牧会の違いであると理解することもできます。
それでは、その語るべき、同じ言葉、説教と牧会という二つの働きにおいて、しかし、結局は教会に託されている人から人へと手渡されていく一つの言葉とは何なのか?
それは、今日聞いた主イエスの言葉に他なりません。「あなたの罪は赦される」この一言です。教会が担い、教会自身が聞き、また語るように召されている言葉、それは、罪の赦しを告げる主イエス・キリストの言葉です。
しかも、この「あなたの罪は赦される」という言葉は、今は赦されないけれども、やがて赦されるということではなくて、現在形で、今この瞬間に「赦されている」という言葉遣いです。
主イエスが語り、教会が聞き、また教会が語るように呼び出されている説教と牧会におけるただ一つの言葉、それは、私たちが出会う全ての人、また、一対一で出会う一人一人の人に向かって、「あなたの罪は、今、この瞬間、赦されている」と告げることです。
これはただ、牧師にだけ託された業ではありません。私たちプロテスタント教会が、告解室という懺悔と罪の赦しを告げるための特別な部屋を持たないのは、告解を捨ててしまったからではありません。
万人祭司、全てのキリスト者は、祭司なのだという考えに基づくものです。教会に来て、牧師と面談して、そこでしか、罪の赦しという特別な賜物を頂けないとは考えません。万人祭司として、全てのキリスト者が人と出会い、そこで何気なく交わされる会話においても、罪の赦しが告げられ、聞かれ得る。キリスト者がなす全ての会話が、罪の赦しを告げる牧会的対話になるから、特別な部屋を必要としないのです。
三つの福音書が共にこの主イエスの赦しの言葉、私たちにも聞かれ、託された赦しの言葉を伝えながら、しかし、マタイだけが、それにつけ足した最初の言葉を、私は、新しく心惹かれる思いで読みました。
「元気を出しなさい。」という言葉、これを「安心なさい」、「勇気を出しなさい」と訳す人もいます。
罪の赦しの言葉は、元気を与える言葉なんだ。ほっと一息つかせる言葉なんだ。勇気を与える言葉なんだ。そのことに改めて気付かされます。
主イエスは、私たちに罪の赦しを告げることによって、私たちに元気を与え、ほっと一息つかせ、勇気を与えることを望んでおられます。
「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は、今この時、赦されている。」
「あなたを元気づけたいんだ。あなたにほっと一息つかせたいんだ。」
最初に主イエスのこの言葉を聞かせて頂いた中風を患う人は、確かに元気がなかったと思います。脳梗塞や脳溢血のため、体が麻痺して動かなくなってしまっていたのです。体だけでなく、心も立ち上がる元気を失っていました。そのことは、この人の信仰については一言も語られず、ただ、この人を運んできた人々の信仰だけが主イエスに見られ、語られているということからも明らかであると思います。
心が萎えていました。いっそ死んだほうがましだという底なし沼にはまっているような思いであったのかもしれません。絶望に捕らえられているのです。どうしても、主にお会いしたいわけではありませんでした。主イエスにお会いすれば立ち直れるという信仰は少しも持ち合わせていませんでした。だから、ただ、人々の信仰が語られるだけで、この人の信仰に関しては、言うべきことは何もなかったのです。
けれども、主は、この人に仰たのです。「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」
考えてみれば、これはとても不思議なやり取りであるように思えます。体が動かない絶望に生きている人に向かって、「元気を出しなさい。私はあなたを元気にしたいんだ」と願われるお方が、その体も心も萎えた人を元気にするために、語られる言葉が、「あなたの罪は赦される」ということなのです。
この時、主イエスは、この男の麻痺を即座に癒されたんじゃないんです。「あなたの肉体を癒し、再び立てるようにしてあげるから、元気を出しなさい。」と仰ったのではなく、ただただ、「あなたの罪は今、赦されるのだから、元気を出しなさい」と、仰ったのです。
罪が赦される。ただ、それだけが、あなたを本当に元気にするのだと主イエスは、仰っているのです。
主イエスが、私たち人間が、元気を出して生きるために必要なことは、本当のところ、病が癒され、健やかな体、あるいは健やかな精神をもってはじめて可能になることだとはお考えになっておられないようです。
私たちが、元気を出して生きていくために本当に必要なものは、私たちの罪が赦されること、罪の赦しだけだと、主は見ておられるのです。
これはもしかしたら、既にその罪の赦しを自分のものとして受け取っている者にしかよくわからない恵みであるかもしれません。洗礼を受けたキリスト者であれば、そのことがよくわかる。
自分になくてはならないものは罪の赦しだ。その罪の赦しさえあれば、やがて迎える死すらも、恐ろしいものではない、たとえ死に直面しても、元気でいられると思っています。
たとえば、私たちの信仰を語るハイデルベルク信仰問答の有名な問い1とその答えを思い出してみれば良いのです。私たちの生きている時にも、死ぬ時にもただ一つの慰めは、「私が、身も、魂も、生きているときも、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」ことだと語ります。そして、その私をご自分のものとして所有してくださるキリストの恵みとは、キリストが、「わたしのすての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださ」ったことだと告白されています。
キリストの償いによる罪の赦しこそ、生きる時も死ぬ時も変わることのない私の慰めである。それによって、私たちが今は、キリストのものであり、神のものとなり切っているそれが私の慰めだと、キリスト者たちは言えます。罪を赦されて生きることの素晴らしさ、心強さを、私たちは、今は知っています。
ところが、この赦しの言葉を最初に聞いた中風の男はどうだったのか?嬉しくなかったかもしれません。こんなに苦しんでいる俺の罪とはいったい何だ?と訝しく思ったかもしれません。
たとえば、私たちキリスト者に任されている言葉とは、ただ、この罪の赦しの言葉に尽きる。この言葉を人々に手渡すためにこそ、私たちは存在するということを聞くときに、私たちが、その場面を想像してみるのです。
私たちもまた、あの人、この人を教会に連れて行きたいと思う。私が聞き、私が生きているこの罪の赦しをあの人、この人にも聞いてもらい、元気を出してほしいと思う。
けれども、その人たちは、「あなたは罪人だ」という言葉に、教会でぶつからなければなりません。「あなたの罪は赦されなければならない」と告げなければなりません。
中風の人はその主イエスの言葉を一体どういう風に聴いたのか?私たちがこの言葉をたずさえて出会う人々は、この言葉をどういう風に聴くのか?
自分が望む救いとは、恐らく違うことが起きたのです。的外れだと感じるかもしれません。
しかし、大切なことは、この罪の赦しは、その言葉を聞いた人が、それを受け取るかどうかという反応によっては、この赦しの言葉の力は押しとどめられないということです。
人間を本当の意味で立ち上がらせ、生かすことを可能とする罪の赦しは、その言葉が、告げられる時には、もう済んでしまっているのです。
その言葉を聞いて、人が反発を覚えるかもしれない、その人を捕らえている罪、その人の内にある罪は、これから、自分で認め、懺悔し、それによって、赦しを頂く備えをしなければならないのではなく、もう、赦しは、無条件に与えられてしまっているのです。
だから、罪人だと言われたから、腹を立てると言うのは、見当違いです。キリストはあなたは悔い改めなければ赦されない救いようのない罪人だと迫るのではなく、「あなたの罪は赦された」と既に済んでしまった赦しを告げられるのです。
教会もまた、そのことを思い違いすることがあります。
教会は、罪の赦しを告げることこそ、ただ一つの使命として与えられているにもかかわらず、キリストの赦しをあまりに安い赦しにしないためにと、かえって、罪の赦しを、難しいものにしてしまいます。
自分が罪人であることを受け入れているのか?その罪を悔い改めているのか?主イエスが罪を赦す方であると信じ、主イエスに頼ろうとする信仰はあるのか?それから初めて、あなたの罪は赦されると告げることができると教会は、思い違いをしてしまうことがあります。
今日聞いた主イエスの赦しの言葉は、そのような条件を踏んで、はじめて語られ、人に聞かれ得るものではありませんでした。
そもそも中風の人の信仰は一切語られていませんし、この人を運んできた人々の信仰も、ドラマチックには語られないのです。屋根は引きはがされないし、寝床は、つり降ろされないのです。
ただ、主イエスの言葉に集中します。主の赦しの言葉のきっかけとなった人々の信仰は、罪の赦しは、中風の人の信仰を前提とするものではないということを語るためにこそ、言及されます。
無条件です。説教と牧会が委ねられている罪の赦しの言葉は無条件に語られるものです。
牧会学の古典とも言うべき書物を書いたトゥルナイゼンという人は、私たちの今日聞いている物語に呼応するように言います。
今の教会の牧会が全体的に力強さがなく、助けにもならないのは、教会が罪の赦しを知っていながら、それに条件を付け、約束事のもとでそれをしようとしているから。人間を無条件に、神の者とする、罪の赦しをあまりに大胆に伝えるならば、それは不謹慎なことになりはしないかと恐れているからだという趣旨のことを言います。
そして教会の軽率さは、赦しをあまりに大胆に告げることにではなく、赦しを条件付きで、抑制するところにこそあると言います。
すると、罪の赦しの福音は、祝福の言葉ではなく、道徳の言葉になってしまいます。
あなたには罪がある。あなたはそれを認めなければならない。それを悔い改めなければならない。キリストを信じなければならない。そうすれば、罪の赦し救いが与えられる。
そもそも、自分が罪人であることの自覚がない人に向かって、その何段階にもわたる手続きを必要とし、ようやく頂ける罪の赦しは、元気を与える言葉足り得るでしょうか?
けれども、主イエスにおける事実は、すべて、同じ道を通ることになるけれども、道順は全く逆です。
「あなたは罪人だ」と告げる所からは始まらないのです。「あなたは赦された」と、赦しが既に、与えられているということから出発するのです。
心も体も萎え切って立ち上がることができないでいるあなたには、もう、救いが与えられているんだ。
主イエスに出会って、この言葉を聞くときに、はじめて罪の自覚が生じてくる。そこで、はじめて自分の罪深さに気付く。罪の自覚と救いの順序というのは、ふつう、私たちが考えるのとは、逆の順序で起こります。
だから、ある人は言います。「この中風の人は、これから後の誰もがイエスにお会いするとき、どのようにお会いするのかを示すモデルになっています。その原型を示してくれています。もっと正確に言えば、主を求める者に思いを越えて恵み豊かに近づき、出会い、赦しの権威の言葉をかけてくださる主イエスとの出会いを典型的に示す出来事がここに起こっています。」と。
私たちには、そのことが今はよくわかるのではないでしょうか。自分は教会の定めるもろもろの手続きを踏んで救われたのではない。主イエスに救って頂いたから、もろもろの手続きを踏んで、その恵みに応えるようにして教会員となったのです。
主イエスの救いが私たちの信仰を生み出したのです。その逆ではありません。それゆえ、主イエスが見てくださる私たちの信仰とは、中風の人の赦しに表れているように、主が全く信仰のかけらも見えない私のこの友を、しかし、恵みによって、赦し、救ってくださるという信仰に他なりません。
今まで、集中して、最初の1、2節の言葉を説いてきました。
3節以降、律法学者の心の中の批判にこたえて主イエスが、問われた「『あなたの罪が赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」という印象的な言葉を丁寧に読み解く時間は残念ながら、もはやありません。
けれども、それは、主イエスにとって、同じほどたやすいことであったろうと思います。
けれどもまた、それは、主イエスにとって、大きな支払いを要することであったとも言えます。
なぜならば、この無条件の罪の赦しが私たちのものとなるために、主イエスは十字架にお架かりになられたからです。主は、私たちに「あなたの罪は今赦されるのだ」という言葉を、確かなものとするために、十字架の上で血を流してくださったのです。
だから、ある人は次のように言います。私たちが、この赦しの言葉を聴き、また私たちがこの赦しの言葉を携えて出ていくために、主は、この言葉に、「血判を押して」くださったのだと。主は、十字架で血を流し、「あなたの罪は赦された。これは、真実の言葉だ」と保証してくださったのであると。
それゆえ、私たちは、この言葉を受け入れる何の用意もない人々に、しかし、その人に100パーセント妥当する言葉として罪の赦しを語り続けます。
どんなに私たちが、上手くそのことを伝えることができなくても、そのことだけを手渡すために、教会は存在します。
生きている時にも、死ぬ時にもただ一つの慰めは、「私が、身も、魂も、生きているときも、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである。主は、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださ」った。
「これは、あなたのことです。だから、元気を出してください」と告げるのです。
教会は、大人にも子供にも、信じる者にも信じない者にも、立ち上がることができなくなっている者にも、自分の力で立っていると今はまだ思い込んでいる者にも同じように告げます。「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」
そこにこそ、既に与えられている人間に本当の元気を与える唯一つの命の源があるからです。
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