キリストによる解放・自由・赦し

6月15日(日)主日礼拝 イザヤ書42章5節~7節 ルカによる福音書4章16節~21節  松原 望

聖書

イザヤ書4257

5 主である神はこう言われる。

神は天を創造して、これを広げ

地とそこに生ずるものを繰り広げ

その上に住む人々に息を与え

そこを歩く者に霊を与えられる。

6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び

あなたの手を取った。

民の契約、諸国の光として

あなたを形づくり、あなたを立てた。

7 見ることのできない目を開き

捕らわれ人をその枷から

闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

ルカによる福音書41621

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18 「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

19 主の恵みの年を告げるためである。」

20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

「 説教 」

序、

今日からクリスマスまでの礼拝の聖書個所をルカ福音書から選んでいきます。と言いましても、ルカ福音書の特徴的なところを選んでいきますので、必ずしもルカ福音書の順序通りとは限りません。

新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があります。どの福音書も主イエスの地上の生涯を描いています。しかし、四つの福音書は全く同じというわけではありません。もちろん、同じところも多くありますが、違うところもあり、それがそれぞれの福音書の特徴になっています。

今日のルカ福音書4章には、主イエスがご自分の育ったナザレという村に行かれたことが記されています。主イエスがナザレの村で伝道されたことはマタイ福音書やマルコ福音書にもあり、その故郷の地で受け入れられなかったと記されています。ルカ福音書も、今日は読んでいただきませんでしたが、22節以下を見ますと、ナザレの人々から受け入れられないどころか、殺されそうになったと記しています。

今日のルカ福音書で注目していただきたいのは、主イエスがナザレのユダヤ人会堂で旧約聖書のイザヤ書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたということです。これは他の福音書には出てこないルカ福音書の特徴です。言い換えれば、ルカ福音書が主イエスについて最も語りたかったことだということです。

1、ルカ福音書におけるナザレ伝道の位置

ルカ福音書は、主イエスが荒れ野で悪魔の誘惑を受けた後、ガリラヤ地方のあちらこちらで伝道され、主イエスの評判が高まったと記しています。他の福音書と比べて極めて簡潔です。

そして、ナザレでの伝道の記述になります。それまでの働きがあったはずですが、それらを省略し、ナザレの村で伝道を開始されたかのように記しています。

その理由が、そこで朗読されたイザヤ書の言葉にあります。

2、イザヤ書

ルカ福音書に引用されているイザヤ書は、42章や61章です。

イザヤ書42章は「主の僕の詩(うた)」と呼ばれ、神の僕が神様に召されるという詩です。その中に、「見ることのできない目を開く」とか「捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」という言葉があります。

イザヤ書61章にも「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰める」(イザヤ61:1~2)などの言葉があります。

イザヤ書61章には「主は私に油を注ぐ」とあります。この言葉が「メシア(油を注がれた人)」という言葉の語源になります。これが新約聖書の中で「キリスト」という言葉になるわけです。メシアやキリストは「救い主」と説明されることが多いですが、神から特別に選ばれ、使命を与えられている人のことです。その使命が、人々を救うことですから、「救い主」と理解しても間違いではありません。

このイザヤ書61章には、メシアに与えられた使命が明らかにされています。

3、主イエスのメシア(キリスト)としての使命 ― 解放・自由

ルカ福音書が引用したイザヤ書は、メシア(キリスト)の使命を表しています。特に、「捕らわれている人に解放を」、「圧迫されている人を自由に」という言葉がその使命を表しています。ここに出てくる「解放」と「自由」は日本語では違う言葉ですが、聖書の言葉ギリシア語では、同じ言葉「アフェシス」です。ルカ福音書は、この言葉に主イエスの地上の生涯の意味が示されていると主張しているのです。

伝道活動の始まりとして記されたナザレの村での主イエスの言葉は、御自身の伝道の目的の宣言だとしているのです。

この福音書の中でアフェシスというギリシア語が頻繁に出てくるわけではありませんが、伝道活動の始まりにおいてこの言葉が使われていることは重要です。

4、何からの解放・自由なのか

イザヤ書には「捕らわれている人に解放を」、「圧迫されている人を自由に」とありますが、何に捕らわれているのか、何によって圧迫されているかを説明していません。

このイザヤ書を引用したルカ福音書は、私たち全ての者が罪に捕らわれ、圧迫されているとし、その罪からの解放と自由をもたらすために、主イエスが地上に来られたと言いたいのです。その罪からの救いのために、伝道を開始されたと言いたいのです。

主イエスの地上の生涯そのものが、すべての人々を救う働きであり、救いへ招く恵みの言葉です。そして、その生涯は、十字架と復活に向かっていることをルカ福音書は告げています。

5、十字架と復活

ルカ福音書には、十字架にかけられた主イエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、執り成しの祈りをされたとあります。この主イエスの「赦してください」という言葉は、今日のルカ福音書に出てきた「解放」、「自由」と同じアフェシスというギリシア語です。正確には動詞のかたちになったものです。

また、ルカ福音書には、復活された主イエスが弟子たちに現れ、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24:46~48)と言われたと記しています。

ここに出てくる罪の「赦し」という言葉もアフェシスという言葉で、罪からの解放、罪からの自由、罪の赦しが主イエスの地上の生涯の目的、意味であり、ナザレで開始された活動は十字架と復活へ向かっていることを示しています。そして弟子たちに、主イエス・キリストによる解放と自由と罪の赦しを宣べ伝えさせるのです。

6、異邦人へ伝えられる福音

今日、ルカ福音書は4章21節までしか読んでいただきませんでしたが、その後、主イエスを受け入れないナザレの人々に、預言者エリヤやシリア人ナアマンの物語を引用し、神の救いは異邦人にも伝えられると告げました。それを聞いたナザレの人々は、主イエスを殺そうとします。

神の憐れみは、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶのです。ナザレの人々は自分たちの常識だけで判断し、主イエスを受け入れようとしませんでした。そして、自分たちだけが神の憐れみを受けると頑なに思いこみ、異邦人も神の憐れみの対象であると宣言した主イエスを拒否し、殺そうとまでしたのです。

私たちは神の憐れみを受けています。それと同時に、神はすべての人々を憐れみ、救いに招いておられるのです。その神の御心を受け止め、神と共に、私たちの周囲の人々に対して憐れみの心を持ち、執り成しの祈りをささげていきたいものです。

 

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