心の清い人は、幸いである!

 私たちの教会には、週一回、朝晩と祈祷会があります。聖書を読み、参加者が自由にそこから聞き取ったことを語り合う有意義な時です。夜の祈祷会の方は、こじんまりとしていまして、ひとりひとりが発言できる時間がたっぷりありますから、昼の祈祷会以上に、自由に脱線してほとんどその日の聖書個所に関係ない愉快な話になる傾向もあります。もちろん、脱線した話ばかりではなくて、その日読んだ聖書個所について素朴な疑問を、率直に自由に言える場所ともなります。

 特に、夜の祈祷会では今、旧約聖書を読んでいまして、新約とはまた一味も二味も違うその言葉に驚いたり、どう理解すればよいのかと、あーでもない、こーでもないと、わいわいと読んでおります。是非、興味のある方は一回でも参加していただければと思います。先週ちょうど読み終えたばかりの民数記第4章にも、新約聖書とはまるで異質に感じる記述があります。神の契約の箱や祭具を運ぶレビ人が、不用意に、それらのものを見て、死を招くことのないようにという配慮が語られている箇所です。イスラエルの民は、荒野を40年間旅をしたと言いますが、その間、契約の箱を納める神の幕屋という礼拝するためのテントを作ってその神の幕屋も一緒に旅をし続けました。この契約の箱の内には、神がシナイ山でモーセに授けた十戒の板などが入っており、神さまがイスラエルの民と共におられる象徴そのものでした。

 普通、当時の中東の神々は、日本の神社のように特定の土地と結びつき、その神固有の領地を持つものですが、イスラエルの神さまは、特定の土地と結びつくことをせずに、奴隷状態であったエジプトから脱出したイスラエルの民に付き合って、彼らが進むところどこでも一緒に旅をする神さまでした。その人間と共に旅をされる主なる神さまの象徴が、契約の箱であり、神の幕屋と呼ばれる移動可能なテント式の神殿のようなものでありました。イスラエルの民が、移動するときは、このテントも一緒になって移動し、それによって、主なる神さまは、人間のそば近くに、住まわれる不思議な神さまであることをお示しになりました。それは、とても心強いことであると思います。一つの特定の場所に行かなければ会えない神さまではないのです。一つの土地から出てしまえば、その神さまのご加護の外に出てしまう人間ではないのです。その民が進むところ、どこにでも、神さまが共に進まれる。いつも神さまと一緒です。

 ここには、主なる神さまの謙遜、遜りが見えています。人間が神の元に行くのではなく、神が人間の元に来られ、その困難な旅の同伴者となられる。主イエスは、「だれかが、1キロ行くように強いるなら、一緒に2キロ行きなさい。」との謙遜を教えられましたが、その背後には、40年間、荒野の旅を人間と共に歩まれた主なる神御自身の姿が、思い起こされていたのではないかと想像いたします。

 ところが、御自身の身を思い切り屈めるようにして、一つの民のさすらいに付き合う低さを選ばれる神さまですが、これはその民にとって、いつも神さまが共にいてくださるという驚くべき恵みであると同時に、とても危険なことでもあったようです。民数記第1:51以下を読むと、むやみにこの神の幕屋に近づくと、神さまの怒りを招いて死んでしまう。だから、そのイスラエルの人々を守るために、イスラエルの一部族レビ人が特別に選ばれて、幕屋の周囲を取り囲み、民が神さまに打たれないように、神とイスラエルの民の間のクッションのようにしていたというように描かれています。しかし、民数記を第4章まで読みますと、このレビ人も、むやみに近づく者に対して下される神さまの怒りから例外ではなかったことがわかります。荒野の旅で、全民族が移動する度に、神の幕屋を折りたたんで、次の目的地まで、運搬していくわけですけれども、その運搬の任に当たる人々が、さてどれを運ぼうかと、幕屋の祭具を不用意に見て回ると神の怒りを招き死んでしまう。だから、そうならないようにレビ人の中でもまた特別な任務を与えられている祭司アロンとその子供たちが、十分注意して、誰が何を運ぶべきか指示しなさいという記述があります。

 こういう個所を読むと、私たちはとても不思議な思いに駆られます。わざわざ奴隷であった弱小民族を選び、その人々を奴隷状態から解放し、その民と一緒に、40年間荒野を旅をすることを選ばれるような謙遜で遜った神さまが、なぜ、ご自分が熱烈に愛するその民をご自分に不用意に近づいたという理由で打たれるのだろうか?それはちょっとひどくはないだろうか?と思うのです。

 しかし、人間と旅するほどに遜る神様の姿と、近づく人間を罰さずにはおかない神さまの姿という矛盾するような神さまのお姿は、聖書の中のほんの一部の記述ではなくて、どちらも、旧約聖書全体を一貫して表れている神さまのお姿であるように思います。旧約聖書には、神さまを見た者は死ぬという考えが一貫してあります。たとえば、モーセは出エジプト記3311で、神とその友のように顔と顔とを合わせてお会いしたと語られる一方で、その直後の出エジプト記3320では、その言葉を厳密に訂正するように、モーセに対して「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしの顔を見て、なお生きることはできないからである。」と言われ、モーセもただ、神の後姿を見ただけであったと書かれています。また創世記3231では、神の人という謎の人物と夜通し格闘をしたヤコブが、夜明け前にその人から祝福をもらった時、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言いますが、実は、そこでも、ヤコブは夜の暗闇の中にあり、その神の人の顔を直接見たわけではなかったことが暗示されているように思えます。その徹底ぶりは、夜の祈祷会で読んでいる民数記の記述に極まり、神の幕屋の祭具を不用意に見ただけで、死を招く可能性があるのです。

 なぜ、神さまの顔を見ると死んでしまうのか?裁きが下ってしまうのか?それは、預言者イザヤが神さまに召し出されたときのことを見れば、よくわかってきます。イザヤ書第6章の冒頭に、祭司イザヤが、天の会議を垣間見たという記述があります。彼の上に、天が開け、主なる神さまが玉座に座っているそういうイメージをイザヤは見ました。その時、イザヤは叫ばずにおれなくなりました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」すると、玉座の周りにいた天使の一人が、祭壇から取ってきた炭火をイザヤの唇に触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」この一連のやり取りが、なぜ、神を見ると死んでしまうと言われているのか、なぜ、神の民が神の幕屋に近づくことができないのか、なぜ、契約の箱に触れたり、見たりすることが死を招くことになるのかを説明しています。神の御前に人間が汚れているからです。人間に、罪があるからです。それは、神の臨在に触れた人間が認めざるを得ない自分の汚れです。本当に神の臨在に私たちが接するならば、近づくものにしを与える神様はひどいとは言わないのです。疑問の余地なく、災いである自分を見出すのです。イザヤはそう感じました。

 この金沢にゆかりのある室生犀星の書いた「寂しき魚」という童話があります。一つの沼があり、そこに、年を経た大きな主のような魚が一匹住んでいます。夜になると、数キロ離れた街の明かりがその沼までぼんやりと届きます。この魚はその光が気になって気になって仕方がありません。そして想像します。「あそこには何もかもある。おれが永い間考えとおしたふしぎな国がある。そこには一切が光でみたされているのだ。この沼のような暗闇や水垢や塵芥があそこには一つもない。」そして、煩悶します。「おれのまだ見ないところがある。この岸さえ攀じのぼってゆけば、それがはっきりわかってくるのだ。…おれはそれを考えるとたまらなくなる。…おれは一日も早く明るい地上に出てゆきたいのだ。」、「この岸つづきに何かがある。おれにはわからないが何かが行われている。おれたちの世界にはないものがそこにはあるのだ。」けれども、もちろん、魚はいくらあがいても、地上に出ることはできません。それをすれば死んでしまうのです。魚には、地上の空気が濃すぎるのです。水垢や塵芥に混じった水の中にわずかに溶けた酸素がちょうど良いのです。

 私は、聖書の語る神の御前における人間というのは、この地上の光を憧れる魚のようなものだと思うのです。自分では決してそこに行くことはできない。しかし、その世界の方から近づいてきて、その世界の支配者であられる神の御前に置かれたとしても、生きることはできない。滅びてしまう。それが、旧約聖書の民が意識していた神さまと人間の違いであると思います。深い深い隔たりです。それほどに深い隔たりがあることを知るからこそ、主なる神さまが幕屋において、彼らの本当ににそば近くに歩んでくださったということが、法外な恵みであることがよくわかります。けれども、その近さにも限界があり、その限界とは、実は神さまの側から引かれたものではなく、自分自身の問題性であることにもやがてイスラエルの民は気付かざるを得ませんでした。自分たちは、神さまを見て耐えるほどの清さを持たないということです。神の御前に出ると、祝福されて当然の自分ではなく、災いである自分であることに気付かないわけにはいきませんでした。

 そして、このような前提に立って、主イエスの御言葉を見るならば、それがどんなに非常識な言葉であるかわかってまいります。

 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

  「神を見る」という約束が、確かに祝福であることは私たちにもわかる部分があります。神さまを見たい。神さまにお会いしたいということは、苦しみと悩みの中にある者にはよくわかる心だと思います。神さまにお会いして、神さまにお聞きしたいことがある、いや、この私の苦しみ、神さまにお会いして、そのわけをおたずねしないわけにはいかないと感じるこの苦しみは、神さまに一目お会いすれば、多分、消し飛んでしまうと思う。だから、神さまにお会いしたい。切実に神さまを見たい。けれども、旧約聖書は神さまにお会いすることはできないと言います。神さまを見ることはできない。このことは一度、きちんと腰を落ち着けて考えてみなければならないと思います。神の民と呼ばれ、神のごく近くに生きたイスラエルの民が、ありのままの人間には、神さまのお会いする資格がないんだ、レビ人、祭司、モーセも含めて、そこには例外がなかった、それが人間だと理解していたということを、よく受け止める必要があると思います。私たち人間には、その清さがありません。

 主イエスは、心の清い者は神を見ると仰いました。なるほどと思います。誰か、神さまを見ることができる者がいるとすれば、心が汚れた者ではなく、清い者であろうと納得できます。だから、神さまにお会いしたいと思う者は、悪い思いや、汚れた欲望を退けて、心を清めていかなければならないというのは、とても、宗教が語るにふさわしい言葉であると聞こえます。けれども、どのようにして、どこまで清くなれば、神さまにお会いするふさわしい清さが身についたと言えるのでしょうか?ファリサイ派くらい?律法学者くらい?あるいはマザー・テレサくらいでしょうか?聖書は、モーセも、神の顔を見ることはできなかったと言います。

 この主イエスのお言葉を聞くときに、しばしば思い起こされる言葉があります。それは、マルコ1014のお言葉です。そこには、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」多くの人は神を見る約束を頂く心の清い者がどういう者であるかを考える時、この聖書個所を思い出して言います。「そうだ。私たちの清さが、小さな子供のような者であれば、私たちの純粋さがそのようなものであれば、神は私たちの心を喜ばれるだろう。」

 今日は、幼児祝福式です。私たちは、この礼拝の中で、子どもを前に招き、主イエスの祝福を告げます。天国はこのような者たちのものであると仰った主の言葉をそこで繰り返すのです。そして、この主イエスのお言葉によれば、子どもたちはわたしたち大人の模範でさえあります。子供も天国に迎えられるというのではないのです。子供のようでなければ、誰も天国に行くことはできないというのです。

 けれども、私たちはやはり、こういう風に言わなければなりません。それは無理なことです。私たちは、聖書のニコデモのように、古いままでいてはいけない、新しく生まれなければならないと仰った主イエスに対して、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と、いう他ないのではないでしょうか?つまり、私たちは、主イエスの祝福の言葉の前に、「子供のような素直さ純真さを決して持つことのできない私には神は見れない」と途方に暮れる他ありません。

 ところが、これは小さな子どもへの主イエスの祝福の本質を少しとらえ違えているのです。先日、二番目の子が布団の中で、絵本を読んでいるとき、突然、「神さまを信じる」と言い出しました。私は驚きまして、けれども、とても嬉しくて、冗談ですけれども、妻に、「1年前に小児洗礼を受けたばかりだけれども、今年のクリスマスには、信仰告白式だ」などと言いましたが、この彼女の信仰は、私の信仰よりもよほど純粋であると思います。けれども、私は、神さまは小さな彼女の告白をどんなに喜んで聞いていてくださるかと信じますが、私たちの信仰もこういう清く、純粋な信仰でなければ神さまにお会いできない、天国に行けないと仰っているわけではないと思います。主イエスが語る天国を受け継ぐと言われる小さな子どもへの約束は、子どものようになれとの勧めは、私たちが決して立ち戻ることのできない純真無垢への勧めでは絶対にありません。そのことがはっきりとわかるのは、同じ物語を扱うルカによる福音書1815以下の記述です。そこで、主イエスの元に連れて来られた小さな子どもとは、まっすぐで濁りのない清い目で、「神さまを信じる」と語る幼子ではありません。乳飲み子です。どんな簡単な言葉を理解することもできない、だから、信仰とは一切無縁な乳児です。その乳児を指して、主イエスが仰いました。「はっきり言っておく。この乳飲み子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」いったいこの場合、乳飲み子のように神の国を受け入れるとは、どういうことになるのでしょうか?それは、自分で自分をどうすることもできないということです。乳飲み子のようであるとは、神の御前に手も足も出ないということ、自分で自分をどうすることもできない者と認めるということ以外ではありません。陸上に打ち上げられた魚のように、そのままでは滅びる外ないのです。乳飲み子のように、自分はただ泣くことしかできない、自分で自分の命を守ることはできないということです。乳飲み子になれとは、自分で自分をどうすることもできない貧しさに気づくこと、その貧しさに生きることです。

 けれども、それは、そもそも人間が置かれている状況に他なりません。イスラエルの民がそう理解したように、神の御前におけるふさわしさを持たない災いばかりの人間の姿そのものに他なりません。それは、絶対に徳としての清さを持つ人間ではありません。神の御前に自分の力では立てない無一物の人間です。しかし、その時、神の御前に、何も持っていない私、神に褒めていただく何物もこの手にはない、そういう意味で、きれいさっぱり何もない、クリーンな人間だと言えると思います。その清さとはもう一度言いますが、徳でもなんでもなくて、誇る何物も持っていないということに過ぎません。しかし、ここでこそ、主イエスの祝福の言葉は、主イエスの純粋な祝福の言葉、恵みの言葉として響いては来ないでしょうか? つまり、これは、神の御前に自分の力では立てない、何も持たない災いで、滅び他ないはずの私たち人間を捨てないという神の宣言です。

  「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」とは、「私の前にマイナス以外何も持たないあなた方を捨てない。あなた方が私のそばで生きられるように、その罪咎を私が取り除く」という神さまの宣言です。旧約聖書において、神さまが幕屋に不用意に近づかないようにと仰ったのには、いつでも、たった一つの理由がありました。「あなた方が死なないように、あなた方が滅びないように」です。旧約以来、神さまは私たち人間の滅びを願われないお方です。私たちを守ることをその御心としてくださるのです。そのお方は、私たちとご自身の間を隔てていた私たち人間の罪という壁をそのままにしておくことはありませんでした。この罪の壁を取り除き、災いであった人間を祝福に生かすために、どんなに大きなことをしてくださったか。神は、ご自身と私たち人間を隔てていた罪の壁を、御子イエス・キリストによって完全に突き破られたのです。受肉と十字架に極まるそのお方の完全な遜りによって、罪は廃棄されたのです。私たちはこの主イエスの上に、神を見るのです。

 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」

 私たちは、あの歴史を生きた主イエスより、このお言葉を聞かせていただくことによって、自分が本当に赦されて生きているのだということをはっきり知ることになるのではないでしょうか?私たちがこの言葉を自分への言葉としてきちんと聞くならば、それは、赦されている者として生きるということです。赦しに自分の基盤を置くということです。それは、全然卑屈なことではありません。この赦しに生きる者は、卑屈には生きません。本当に強いと思います。自分にも少しは良いもの、良いところがあると思っている人よりも、ずっと強くて、明るい歩みをするに違いありません。自分の力に頼らずしがみつかず、ひたすら神の赦しの中に生きる者は、おなか一杯になった乳飲み子のように、明るい顔つきになるものだと思うのです。そのように生きることが許されているのです。

 

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