聖書:イザヤ書53章7節~8節
マルコによる福音書15章1節~15節
説教題:ローマの権力下での裁判
説教者 松原 望 牧師
聖書
イザヤ書53章7~8節
7 苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
マルコによる福音書15章1~15節
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。7 さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。8 群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。9 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。10 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。11 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。12 そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。13 群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
「 説教 」
序、
先ほど一緒に朗読しました使徒信条の中に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉がありました。
聖書の中では、主イエス・キリストの死との関わりで彼の名前が出てくるだけで、それ以上詳しくは記されていません。主イエスの死に関わっている人物は他にも大勢います。イスカリオテのユダ、大祭司カイアファなどは、ピラトよりも主イエスの死により深く関わっていると言えます。しかし、彼らの名前は使徒信条の中に出てきません。その一番の理由は、主イエスがかけられた十字架は、ローマ帝国が行っていた死刑方法だからです。
ユダヤ人が行う死刑は「石で打ち殺す」という方法で、例えば使徒言行録7章58節に記されているステファノという人が殉教した時が、この方法でした。
十字架という死刑方法については後日改めて話をすることにしますが、使徒信条はローマの権力のもとに、十字架によって主イエスが殺されたことを大切な信仰として告白しているのです。とは言え、「ローマの権力のもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」ではなく、「ポンテオ・ピラトのもとに」となっていることは、大切なことです。
「ポンテオ・ピラトのもとに」ということは、ローマ帝国の権力のもとで主イエスが苦しみを受け、十字架にかけられ、殺されたことは事実ですが、使徒信条は、それを権力闘争の結果ではないということを示すために、ローマ帝国、ローマの皇帝という言葉を出さないで、ピラトの名前を出したのです。すなわち、「ピラトがユダヤ総督としてユダヤに派遣されていた時」ということをはっきり示しているのです。こうすることにより、主イエスの十字架の死が、歴史的に特定されます。主イエスの十字架の死は、信仰の理念を表現しているというより、歴史の中で起きた厳然たる事実だということです。
聖書に登場する歴史上の人物としては、ユダヤのヘロデ大王やローマ皇帝アウグストゥスの名前も出てきますが、主イエスの十字架の死に関わっている人物としてはピラトの方がより重要と言えます。
1、ユダヤ総督というピラトの立場
ピラトは、ローマの皇帝から直々に派遣されたユダヤ総督で、有能な人物であったと言われます。当時のユダヤは、ヘロデ大王の死後、自治を許されていましたが、反乱が起きやすいことから、ユダヤ総督が地中海沿岸のカイサリアに常駐していました。過越の祭りの時は、外国から多くのユダヤ人が集まり、ちょっとしたトラブルから暴動に発展しやすいということで、エルサレムに数百人の兵士を連れて来ることにしていました。ピラトは5代目のユダヤ総督で、歴代の総督の中で比較的長くその務めについていました。
ピラトの役目は、とにかくもめ事が起こらないようにすることでした。ピラトは総督になって間もなくユダヤ人と何度かもめ事を起こしていました。何とか大ごとにならないよう努めましたが、関係は決して良好とは言えません。そういう状況の中、ユダヤの最高法院の議員たちから訴えが出されてきました。
非常に多くのユダヤ人がエルサレムに集まっている過越の祭の時です。暴動が起きやすい状態です。朝一番にユダヤの最高法院の議員たちがやって来たと聞いて、ピラトは嫌な予感しかありません。厄介ごとでなければよいが… 否、厄介ごとに違いない。そう思いながら、ユダヤの議員たちを迎えました。
2、主イエス、ピラトに引き渡される
主イエスは、エルサレムへ来る途中、弟子たちに「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ10:33~34)と告げていました。今日のマルコ福音書15章は、エルサレムに来る前に、主イエスが語っておられたことがその言葉通りに起きたことを示しています。
10章で語られた言葉は、単に未来に起こることの予告ということではありません。主イエスが人々の手によって殺されることは、神の御計画であることを告げているのです。そして、それは主イエスのよみがえりも含んでいるのです。
聖書は、主イエスの逮捕、裁判、十字架の死を語る時に「引き渡す」という言葉をよく使っています。福音書は特にそのような言い方をしています。
まずイスカリオテのユダが大祭司から遣わされた群衆に「引き渡し」、大祭司とユダヤの最高法院はピラトに「引き渡し」、ピラトは兵士たちに「引き渡し」、兵士たちは主イエスに十字架刑を執行しました。こうして、彼らは主イエスを死に引き渡したのです。
3、ピラトの思惑
ピラトが感じていた不安が的中しました。ユダヤ人たちは厄介ごとを持ち込んできたのです。ユダヤ人たちの祭りがまだ終わったわけではありません。それなのに、早朝から裁判を要求してきたのです。ピラトやローマの兵士たちの間では、特に問題にはなっていませんでしたので、突然の裁判を行えとの要求に戸惑いと怒りが起こって来たでしょう。とにかく、話だけでも聞こうと、ユダヤの最高法院の議員たちに会いました。彼らが訴えているのは、どうやらユダヤの宗教問題のようです。しかし、よくよく話を聞いてみると、自分をユダヤの王だと言って人々を扇動しようということのようです。
訴えられた男を見て、ピラトは不思議に思います。「こんなどこにでもいるような男がユダヤの王だと人々を惑わしているのか」。
訴えられている男に、ピラトは尋ねます。
「お前がユダヤ人の王なのか」。
ピラトは、ユダヤの議員たちの訴えを確認しているだけです。
主イエスは、自らユダヤ人の王と名乗ったことはありませんでしたし、訴えた議員たちもそのことは承知していました。彼らのねらいは、主イエスを殺害することでした。ユダヤ人同士でもめることがないようにするために、ピラトの手によって、裁判という合法手段によって主イエスを殺害させるために、あのような訴えを出したのです。
ユダヤの宗教の問題であれば、ピラトは裁判を行いません。ピラトに裁判を行わせ、死罪にするためにはどうしても政治問題でなければなりませんでした。そこでユダヤ人たちが訴えた罪状は、主イエスがユダヤ人の王と名乗り、クーデターを行おうと画策したということだったのです。ですから、ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と確認したのです。ピラトが「ユダヤ人の王」と言ったのは、ただそれだけの理由でした。
ピラトの問いに、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えました。「そうだ」とも「違う」とも受け取れます。
ユダヤの最高法院の議員たちは声を大きくして、ピラトに訴えます。しかし、主イエスは何も答えません。ピラトが促しても、もう何も答えようとしません。
ピラトは何とか事態を打開しようと提案をします。ユダヤ人の祭りを理由に、訴えられている男を無罪放免にすることです。今までに、そういう風にして、罪人を釈放したことがありました。今度もそれで行こうというわけです。
4、「十字架につけろ」との叫び
ところが、ユダヤの群衆は、最高法院の議員たちに扇動され、バラバという人物の釈放を要求しだしました。ピラトにとってはこのバラバの方が重犯罪人でした。
人々をなだめ、主イエスの方を赦そうとしたピラトでしたが、群衆の圧倒的な叫びの前に、これ以上抵抗できなくなりました。この群衆を説得しようとして、かえって暴動が起きそうになるのを見て、ピラトはついに主イエスを十字架にかける決意をしたのでした。
ただ死刑というわけではありません。人々の要求は死刑でした。主イエスが自分をユダヤの王だと人々を扇動し、ローマにクーデターを企てた、と訴えられたのですから、十字架刑に処するしかありません。
主イエスに罪がないことを感じ取っていたピラトでしたが、ユダヤ人たちの強い圧力に屈し、死刑の判決を下しました。ピラトは決して気弱な人間ではありませんでしたが、彼の任務はユダヤに暴動が起こらないように監視することでした。ユダヤ人たちの要求を拒んで暴動に発展するならば、彼の立場は最悪になります。こうして彼の弱みにつけ込んだユダヤ人たちは要求を貫き、主イエスを処刑させることに成功したのです。
5、十字架の意味
主イエスが十字架にかけられたのは、表面的には、ユダヤ人たちの謀略によるものと言えます。しかし、聖書は違う視点からこの出来事を語っています。すなわち、人間の思惑とは全く別に、神がこのことを計画なさっていたということです。過越の祭りという「時」、十字架というローマの死刑方法、これらは神がご計画なさったことだと聖書は告げているのです。
十字架は、ローマ帝国が行った見せしめの刑でした。ローマ帝国に歯向かった人に対する最も重く残酷な刑でした。
しかし、聖書は十字架には、別の意味があることを教えます。それは、第一には、すべての人々の罪に対する神の怒りを、人類に代って、神の独り子に受けさせるということです。使徒パウロはそれを「木にかけられるものは呪われる」(ガラテヤ3:13)と告げ、イエス・キリストが私たちに代わって神の怒りを受けてくださったと告げています。
もう一つは十字架の上で主イエス・キリストが血を流されることにより、すべての人々の罪の贖い、罪の赦しが行われたということです。
この十字架は、他の人間では何の意味もありませんが、まことの人となられた神の独り子だけが為し得ることだったのです。
6、神の人類救済の計画
主イエスは、過越の祭りに間に合うようにエルサレムへと向かっておられました。その祭りの時はユダヤ総督もエルサレムに来ました。ユダヤ最高法院の人々は、暴動が起こらないようにするため、祭りが終わってから主イエスを捕らえようと考えていましたが、主イエスの弟子イスカリオテのユダの手引きで密かに捕らえることになりました。ユダヤ人たちは自分たちの思惑通りに事が進んでいると思っていましたが、実は、神があらかじめ定めておられた計画が実行されていたのです。
神のご計画は、神の独り子がすべての人々の罪の贖いのために血を流すこと、そのために十字架という死刑方法を用いることでした。そして、それは過越の祭りの時でなければならなかったのです。
ピラトは裁判を行い、暴動を起こさないために死刑判決を下しました。正義が忘れ去られ、人間の悪意と打算が全面に現れた裁判でした。人間の罪深さを象徴していると言えます。しかし、神はこの裁判と死刑方法を全人類の救済のご計画に転用されたのです。「あなた方は悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救われました。」は創世記50章20節に出てくる言葉ですが、主イエスの十字架の出来事も同じことが言えます。人間の悪意と悪事が前面に出た主イエスの十字架でしたが、神は、それを全人類救済の出来事に変えたのです。神の全能の力がここにあります。ここに、何としてでも全人類を救おうという神の堅く揺るぐことない決意が示されているのです。
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