聖書:出エジプト記23章1節
マルコによる福音書14章53節~65節
説教題:偽りの法廷
説教者 松原 望 牧師
聖書
出エジプト記23章1節
1 あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。
マルコによる福音書14章53~65節
53 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。54 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。55 祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。56 多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。57 すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。58 「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」59 しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。60 そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」61 しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。62 イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」63 大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。65 それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
「 説教 」
1、大祭司の屋敷の中庭に入り込んだペトロ
主イエスが捕らえられた時、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げてしまいました。ペトロも逃げ出した一人でしたが、少し落ち着くと、主イエスを捕らえた人々に気づかれないよう、後を付けました。人々が向かったのは、大祭司の屋敷でした。意外なことに、先ほどまで主イエスと弟子たちが過越しの食事をしていたところから100mと離れていない場所です。とは言いましても、ガリラヤから出てきたばかりのペトロは、そのことに気づいていなかったかもしれません。とにかく人々を見失わないよう、身を隠しながら付いて行くのに精一杯でした。
主イエスを捕らえた人々が大祭司の屋敷に入ったのを見届けたペトロは、中に入る勇気もチャンスもありません。しかし、ヨハネ福音書は、主イエスの弟子の一人がペトロと一緒にいて、屋敷に入る手はずをつけたと記しています。彼は大祭司の知り合いで、その屋敷で働いている人たちとも親しかったようです。こうして、ペトロは屋敷の中庭に入ることができました。しかも、大胆にも大祭司に仕えている下役たちと一緒に座って火にあたりました。
危険であることはわかっていましたが、そこにいれば主イエスを取り調べる様子を知ることができたからです。マルコ福音書14章66節に、主イエスが裁判を受けているその時、ペトロが「下の中庭にいた」と記しています。夜が更けて辺りも静かな時です。時々人々の荒げる声が2階から聞こえてきます。そこから、主イエスが受けている裁判の様子をペトロはじっと聞いていました。
2、最高法院
主イエスの裁判は、大祭司の屋敷で行われましたが、祭司長、長老、律法学者たちが集まっていました。彼らは最高法院の議員たちです。
「最高法院」と訳された言葉はもともと「議会」という意味で、エルサレムだけでなくいろいろな地方にもあり、その場合は「地方法院」(マタイ10:17、マルコ13:9)と訳し、マルコ14章55節はエルサレムの議会ですから、「最高法院」としています。
主イエスがお生まれになったころ、エルサレムとユダヤ地方はヘロデ大王が支配していましたが、彼の死後は、ローマ帝国はユダヤの王を立てることを許可しませんでした。そのかわり、エルサレムの最高法院にユダヤ地方とエルサレムの町の自治を許可しました。
しかし、ユダヤ地方やエルサレムの治安を維持することができないと判断された場合は、その自治権を奪われ、完全にローマ帝国の支配下に置かれます。このこともあって、祭司長や律法学者たちは、主イエスを捕らえたいと思っていながら、暴動になることを恐れ、過越しの祭りが終わるまで手を出さないと決めていたのです。
この最高法院は70名の議員と議長を務める大祭司の71人で構成されていました。構成する人々は「議員」と呼ばれたり「長老」と呼ばれたりしました。
55節には「祭司長たちと最高法院の全員」が集まっていたとしていますが、70人全員が集まっていたかどうかは確かではありません。「最高法院の全員」としているのは、たとえその場にいる議員が全員でなかったり、ごく少数の反対者がいても、そこで決議された時は、「全会一致」とするという意味なのかもしれません。そうすることで、その裁判に欠席した議員がいたとしても、そこで議決されることは、議会として責任ある行為をしたことを示しています。ですから、欠席したから自分には責任がないとは言えませんし、欠席したからその決定に従わないということも出来ないのです。
とにかく、大祭司の屋敷で行われるにしても、ここで決議されることは、大祭司個人の権威ではなく、最高法院の権威によるということです。
3、不法な裁判
しかし、最高法院の権威によって行われたこの裁判は、異常でした。はじめから、主イエスを死刑にすることを目的に裁判を行おうとしているからです。そういうことなら、裁判の意味はありません。裁判を行わずに、主イエスを殺すこともできたはずです。しかし、裁判という形で主イエスを殺そうと謀ったのです。
この裁判が異常というのは、まず場所です。通常は、最高法院や裁判は、大祭司の屋敷では行われません。第二に、真夜中に招集されたことです。
しばしば現代のユダヤ人は、この聖書に記されていることは、キリスト教の陰謀だと言います。
彼らには、聖書についで大切にしている書物「タルムード」があります。これは、古代のユダヤ教のラビ(教師)が、旧約聖書に関して、特に戒めに関して無数にある解説を集めた物です。その中に、ユダヤの最高法院について解説されている部分があります。それによりますと、裁判では、裁かれる人の権利が守られるように、また、裁判の中で憐れみを実行することが教えられていたようです。
いくつか例をあげますと、裁判において裁かれる者は、最低二人の証人を必要としました。証人は別々に取り調べられ、その証言が一致するまでは、被告人は無罪として取り扱われました。
「ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。」申命記17章6節。
また、友人や、敵である者は、証人になることができませんでした。感情に左右されて、証言が油崇められてはならないからです。
もし、被告人の死刑が確定し、その刑が石打の刑であるならば、まず証人がその被告人に石を投げることになっていました。
また裁判の場は神殿の「祭司の庭」の一角にある「切石の間」でなければならないとされていました。
判決に関しては、重要でない事件はその日のうちに判決を下しても良いが、重要な事件で、特に有罪判決を下す場合は、翌日になるまで、その判決を下してはならないとされていました。
あるいは自白によって、有罪を決めることも出来ません。
また、有罪が確定し、しかもそれが死刑とするならば、一日をおかなければ、その死刑を執行してはならないとされていました。
これらのことは、現代の私たちにとりましても、人道的なあり方のように思われるのではないでしょうか。今から約二千年前に行われていたということは驚くべきことです。
とにかく、このタルムードに記されている裁判制度に照らし合わせてみると、福音書に記されている主イエスの裁判は、あまりにも不当であります。このため、現代のユダヤ人は、ここに記されている裁判は、キリスト教徒のでっち上げであり、ユダヤ人を陥れるための陰謀だというのです。
もちろん、これはでっち上げなどではありません。事実を記しているのです。しかも、当時の裁判制度に照らしても、現代のユダヤ人の立場からしてもおよそ考えられないほどの不法が行われたということなのです。
聖書は、その時のユダヤの最高法院は、主イエスを死刑にするために行われたものであったと記しています。すなわち、裁判を行って、有罪か無罪を決定するというのではなくて、はじめから主イエスを殺す目的で開かれた裁判であったというのです。
4、神の「時」
主イエスを、過越の祭りの時、逮捕したのは、最初から計画したことではありませんでした。彼らは、民衆が暴動を起こさないよう、むしろ祭りの期間は避けようと思っていたのです。しかし、そこへ、主イエスの弟子のひとりが主イエスを逮捕することに協力を申し出てきたので、裁判という形をとるしかなかったのです。なぜなら、ローマから派遣されてきていたユダヤの総督ピラトがエルサレムに来ていたからです。裁判にかけずに主イエスを殺そうとすると、騒ぎが生じ、暴動へと発展する危険があったのです。暴動が起きれば、ローから軍隊が派遣され、ユダヤ人の自治権まで奪われかねません。
民衆が暴動を起こさないように、またピラトが難癖を付けないように密かに、敏速に事を進めなければなりませんでした。そのため、緊急に議員が招集され、裁判を大祭司の屋敷で密かに行い、急いで、ピラトに訴え、死刑を執行させたのです。
人々の思惑とは別に、神の計画が進んでいました。聖書はしばしば主イエスが難を逃れたことについて「時はまだ来ていなかったからである」と記し、捕らえられる場面で主イエスが「時が来た」と言われたという言葉が出てきます。これは神があらかじめ定めておられた「時」ということで、特に主イエスの十字架の死について語っています。それを思いますと、大祭司や最高法院の思惑がどうであれ、すべてのことを導いているのは神であるということです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で律法と罪との関係について次のように語っています。
「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ローマ7:13)
これと同じで、大祭司や最高法院の悪に満ちた謀略は、彼らの罪だけでなく、すべての人間の罪を問題にしているのです。大祭司や最高法院の悪事をとおして、人間がいかに邪悪であり、神に徹底的に逆らう存在であるかを示しているのです。
5、
裁判という形をとった以上、そこには証人が必要でした。複数の偽証する人が用意されましたが、その証言が合わなかったとあります。その中の一つが紹介されています。
「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」。58節
これは偽りの証言として紹介されていますけれども、ヨハネ福音書では、実際に、主イエスがお語りになったと記されています。
「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」。ヨハネ2: 19~22
少なくとも、この言葉は根も葉もないというのではなく、実際に主イエスが語られたというのです。それを、裁判において、主イエスの意図とは全く違う意味で用いたということです。
6、大祭司の問いに答える主イエス
「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。61節
大祭司は、主イエスに対して、「あなたは神の子メシアなのか」と尋ねているのです。それに対しまして、主イエスは「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」(62節)とお答えになりました。
「そうです」という言葉は、聖書協会共同訳では「私がそれである」としています。元々の聖書の言葉は「私はある(英語のアイ・アム)」で、聖書協会共同訳の方が原文に近いです。そして、この言葉は、旧約聖書では、神が御自身を指して用いる言葉なのです。
「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」。出エジプト記3:14。
「わたしの証人はあなたたち/わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ/理解するであろう/わたしこそ主、わたしの前に神は造られず/わたしの後にも存在しないことを。」。イザヤ43:10
この中の「わたしこそ主」という言葉は、直訳しますと、「私がそれである」です。
主イエスが、「そうです」とおっしゃったのは、イザヤ書にある言葉であり、神が御自身を指して用いる言葉であります。すなわち、主イエスは「私は神である」とおっしゃったのです。ですから、この言葉を聞いた大祭司は、自分の衣を引き裂いて「これでもまだ証人が必要だろうか。64 諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」(63~64節)と言ったのです。
7、
主イエスの言葉を聞いて、大祭司は内心喜びつつ、しかし表面では怒りを表して、死刑を宣告しました。
主イエス・キリストを殺そうとした人々は、偽りの証しをしました。それに対し、主イエス・キリストが語られた言葉は偽りだったでしょうか。主イエスが御自身を指して「私は神である」とおっしゃったのは、偽りだったでしょうか。
私たち信仰者は、主イエスの言葉は偽りでなかったことを知っています。主イエス・キリストこそ、神の独り子であり、神その方であります。
ですから、主イエスは御自身のことをそのままおっしゃったのです。しかし、その真実の言葉は、罪人らには、またその心には届かなかったということです。罪ある目には、主イエスは神の子であるとは映らなかったのです。彼らは真実を見ることなく、彼らの耳は真実を聞くこともありませんでした。
神を前にした時、罪人はその罪の姿を露わにします。真実の前に立たされた時、自らの偽りを、その罪を露わにせざるを得ないのです。
大祭司や最高法院の議員たちは、主イエスを裁判にかけると同時に、彼ら自身が神の前に立たされ、裁判を受けていたのです。
彼らは、神の御子を有罪、死刑を宣告しましたが、彼らの言葉そのものが彼ら自身の罪を明らかにし、死に価する者と定めたのです。
私たちは、主イエス・キリストの再臨の時、最後の審判を受けることを知っています。その時、私たちはどのような判決を受けるのか知らないのではありません。なぜなら、主イエス・キリストが、私たちのためにすでにとりなしをしてくださっているからです。それゆえに、私たちは最後の審判を受ける前からキリストに結ばれているゆえに、罪人でありながら恩赦を与えるとの宣告を受けてもいるのです。
主イエス・キリストの地上での裁判は、死刑にするための裁判でしたが、私たちのための天上における最後の審判は、私たちをキリストのゆえに恩赦を与えると宣告するための裁判なのです。
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