隣人を愛しなさい

8月4日(日) レビ記19章17節~18節 ローマの信徒への手紙12章14節~21節  松原 望 牧師

聖書

レビ記191718

17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

ローマの信徒への手紙12921

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

「 説教 」

 新約聖書の福音書の中に、主イエスが律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」と問われた時、第一を申命記にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と告げ、第二が「隣人を自分のように愛しなさい」と答えたとあります。この第一、第二というのは大切さの順番、両者の優劣を言っているのではありません。すなわち、「隣人愛」が「神への愛」に劣っていると言っているのではないということです。二つの愛は切り離すことができない大切な関係にあります。どちらか一方だけで良いということはありません。実際、主イエスは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)と言っています。

 主イエスが言われた「律法と預言者」というのは、いわゆる旧約聖書のことです。この時代には、まだ新約聖書はありませんでした。そもそも旧約聖書という呼び方はキリスト教の立場からの呼び方で、新約聖書を認めていないユダヤ人にとりまして、「旧約聖書」という言い方は決してしません。

 「旧約」というのは「旧い(ふるい)契約」という意味ですが、「新しい契約」が示されたので、モーセによる契約(出エジプト記24章)を「旧い契約」、「旧約」と呼ぶようになったのです。

 主イエス・キリストが十字架にかかる前の夜、弟子たちと過越しの食事をしました。その時、パンとぶどう酒を配り、「これはわたしの体である」、「これはわたしの血による新しい契約である」とおっしゃったことから、新しい契約という言葉がキリスト教の重要な言葉になったのです。

 しかし、これはキリスト教会が勝手にそんなことを言っているのではなく、旧約の中で預言者エレミヤがあらかじめ預言していたことでした。

 エレミヤはかつてモーセを通して結ばれた契約をイスラエルの人々が破ったと告げ、しかし、神はそれに代わる新しい契約を結ぶと宣言したのです。 (エレミヤ書31章31節)。

 さて、話を「隣人愛」に戻します。

主イエスが指摘した隣人愛の教えは、キリスト教の大切な教えであることに異論を唱える人はいないないだろうと思います。しかし、この教えを実践するとなるととてもむつかしいということも、誰もが認めるところではないでしょうか。

 この隣人愛について語ろうとすると、どれほどの時間があってもとても足りません。4月から、主イエス・キリストが私たちのところへ遣わされるために、神がどのような準備をしてこられたかを、旧約聖書をたどりながら見ています。今日の「隣人愛」の教えも、その観点から取り上げたいと思います。

 1、レビ記1918節。旧約聖書に「隣人を愛しなさい」は他には全く出てこない。

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉は、旧約聖書の中ではレビ記19章18節に出てきます。そして、この箇所以外にこの言葉が出てくることはありません。

 レビ記は27章までありますが、その内容のほとんどが祭儀、犠牲の献げ方についての教えで、17章から20章までが生活についての教えになっています。

 19章17節に「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい」とあるように、同じユダヤ人に対するあり方を教えており、その中で「隣人を愛しなさい」と戒められていますので、この戒めはすべての人に対してというより、同胞のユダヤ人を愛するようにという意味であることが分かります。その意味では民族主義的な戒めとも言えます。ただ、後の方で「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。」(レビ記19:33~34)とあります。

ここでは同胞のユダヤ人だけでなく、あなたがたの中に寄留している他国人を、同胞のユダヤ人に対するのと同じように扱い、彼らを愛しなさいと戒められています。

このように見てきますと、隣人を愛することは誰に対しても愛しなさいと言われているのではなく、同胞のユダヤ人やその中に寄留している他国人に限定されていることが分かります。

2、ユダヤ教の歴史の中でも「隣人愛」について教える人はほとんどいなかった。

 ユダヤ人の書いたものを全て確認できたわけではありませんが、旧約聖書の中だけでなく、それ以降のユダヤ人の書いた書物にも「隣人を愛しなさい」という言葉は、ほとんど見つけることができません。一人そのように教えたユダヤ教のラビ(ユダヤ教の教師)がいましたが、1世紀後半から2世紀初頭の人です。

 無数にある旧約聖書の戒めをいくつかの言葉にまとめる努力をした人はいたようですが、私の知る限りでは、その中に「自分自身のように隣人を愛しなさい」という言葉を入れた人はほとんどいません。

 こうしてみると、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉を重んじたのはユダヤ人よりもキリスト教会であったと言ってもよいかもしれません。もちろん、主イエスは民族としてはユダヤ人でしたし、この言葉を多く引用した使徒パウロもユダヤ人です。しかし、「隣人愛」の教えを重んじたという意味では、キリスト教会こそがこの言葉を重んじたと言えます。

3、レビ記に記されている「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えは、それだけで独立した言葉ではなく、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉に続いて「隣人を愛しなさい」と教えられていることが分かります。

 そうしますと、単純に隣人を愛するというだけではなく、ある人から苦しめられて復讐したいと思っているその人を「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言われていることになります。復讐してはならないというだけではなく、むしろ積極的に相手を赦し、愛しなさいと言われているということです。そうしますと、ますます、この言葉を実行することがむつかしく思えます。果たしてそんなことが可能なのでしょうか。

 もし、この戒めを実行することは私たちに無理だと考えた時、私たちはもう自分自身を愛するように隣人を愛する必要はないと開き直るべきでしょうか。

 神がこの戒めを私たちに与えるのは、私たちがこれを実行することができるからということではありません。神は私たちの心の中には復讐心や恨みがいつも渦巻いている事をよくご存じです。そのうえで、私たちに「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と教え勧めているのです。

 レビ記19章2節に「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」とあります。このレビ記にはこのような言葉が何度も出てきます。「神に救われた者にふさわしく生活しなさい」という意味で、このように言われるのです。

そして、隣人愛の教えのすぐ後に「わたしは主である」という言葉が来ています。

 「できたらする。できなかったらしなくて良い」という教えではないのです。たとえ完全に行うことができなくても、少しでもそれに近づき、神に喜ばれるようにしなさいということなのです。もちろん、努力したけれどできなかったということはあるでしょう。そのときでも、神は結果だけを見るのではなく、神の御心に従って行動しようとした私たちの心を見てくださるのです。

4、「隣人愛」と関係の深い聖書の教え

 「隣人を愛しなさい」という教えは、「隣人を好きになりなさい」ということではありません。そういう感情の問題ではありません。では、どうすることが「愛する」ことになるのでしょうか。

主イエスの教えに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)という言葉があり、似た言葉として、使徒パウロのローマの信徒への手紙12章14節があります。

 これらの言葉は、キリスト教の大切な教えとしてよく引用されます。

 主イエスも使徒パウロもこれらの言葉を教える時、私たちすべての人間は神から愛されているということを前提に語っています。「目の前にいる人は神が愛している人だ。その人を憎んだり、復讐するのではなく、むしろ祝福するように」と教えるのです。あるいは執り成しの祈りをすることも必要でしょう。

 主イエスが十字架にかけられたとき、「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と執り成しの祈りをされました。私たちもこのような執り成しの祈りをするべきでしょう。

 隣人愛の教えは、私たちの努力目標というより、私たちが神に愛されており、私たちの周りの一人一人も神に愛されていることに目を留めることから始めなければなりません。

神が愛しておられる人を、神の御心に反して憎んだり、恨んだりしてはならないと教えられているのです。このように、隣人を愛することは、神に愛されていることをしっかり認めることから始める必要があるのです。

5、「神を愛しなさい」

 こうして見てきますと、主イエスが律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」と問われた時、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と告げ、第二が「隣人を自分のように愛しなさい」と答えた理由もはっきりしてくるのではないでしょうか。神に愛され、神を愛する時、たとえ不完全であったとしても、隣人を愛することが神の御心だということです。

6、「祝福の源」となる使命と「隣人愛」

 アブラハムに「祝福の源となる」という使命を、神が与えてくださいましたが、この使命は、主イエス・キリストによって完成し、また新たな使命としてキリスト教会に委ねられています。

 十字架のキリストに示された神の愛を、まず私たちがしっかり受け止め、それに応え、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、私たちの神である主を愛しましょう。そして、神が愛しておられる私たちの周りの一人一人に神の愛を伝えるのです。

 「私を愛し、救ってくださった神は、あなたをも愛し、救ってくださいます」と証ししましょう。

 もし、神の愛を伝える私たちを迫害する人々があるならば、主イエスのようにその人々のために執り成しの祈りをし、また祝福を祈りましょう。

 そのような迫害を受けるならば、それは私たちがこの世の人々に害を与えるからではなく、罪がこの世に満ちている中で、私たちが神に属しているからです。(ヨハネ17:14、ヨハネ 一 3:13)

 「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12:12)、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:21)と、使徒パウロは言います。神に救われ、神に愛されている私たちが、その神の愛に応えて神を愛し、神が空いている私たちの周囲の人々を愛する生き方を教えているのです。

 

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