2024年3月3日 主日礼拝説教 コリントの信徒への手紙Ⅱ1章3節~11節 大澤みずき牧師
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」
本当に久しぶりに説教壇に立っております。やっとここに立つことができたと思いますのに、元町教会での最後の説教となりました。整えられた状態で語ることが出来ればと思っておりましたが、2週間前から、三女に始まるひどい風邪が我が家を襲いまして、最後に私がかかってまだ咳の影響が抜けておりませんで、少しお聞き苦しいところが出て来るかもしれませんが、ご容赦いただきたいと思います。そうならないようにも、少しゆっくりと話させていただきます。
今、お話ししたようなわけで、先週は1週間、家に3人の子どもがいつもいる状態でした。3人集まると何が起こるかと言いますと、文殊の知恵が出て来るのではなく、喧嘩です。必ず誰かと誰かがもめて泣きながら私の所に飛び込んでくる。もちろん、慰めてもらおうと思ってやってくるのです。「よしよし、痛かったね。くやしかったね。」そう言って頭でもなでてもらっているうちに泣き止んで、またしばらくすると攻撃に行く。こういう繰り返しでした。慰めても慰めても終わらない。しまいには、私が一番慰めてもらいたいと思うほどでした。
辛い思いをしたとき、慰めてもらいたい。誰でも私たちにはそういうときがあります。
教会もまた、そういう私たち人間の集まりですから、何かと問題が起きて、苦しい経験をして慰められたいと思うようなことが起きます。ここ数年の間でも、コロナ感染症によって、教会の活動が困難であったことは忘れられません。社会全体の苦しみでしたが、教会には教会の使命があり、その使命を果たすために、コロナ禍というのはなかなか苦しい決断を何度となくしなければなりませんでした。そのことにも関連して、私たち牧師も、みなさんも大変な疲れを負いました。我が家の子どもたちではありませんが、大変だったね、辛かったねと慰めて欲しいような気持ちを抱えたのではないかと思います。
一緒に顔を合わせて礼拝する、讃美歌を歌う、毎週当たり前にしてきたことが、突然できなくなった苦しみとその影響は、完全に終わったわけではありません。今も日本中の教会に計り知れないほどの影響を残しています。私たちの教会は、神様の憐れみによって、コロナ前とコロナ後では礼拝出席者については殆ど変わりなく来ることができました。しかし、それでも様々な影響が残っています。それ以上に、日本キリスト教団という教会全体から見れば、厳しい状況がまだまだ終息したとは全く言えません。礼拝出席する人が減り続けている教会が多くあります。
これらに加え、今回の能登の震災が起きました。被災地の人々の苦しみ、また、被災地の教会の苦しみは、言葉になりません。
皆、慰めを必要としています。そして、慰めを必要とする声は、この世界に満ちています。そういう、たくさんの苦しみに目を向けるとき、いったいこの苦しみが収まる日は来るのかとさえ思えてきます。
けれども、一方で、どんなに状況が厳しかろうと、今日読まれましたコリントの信徒への手紙のみ言葉によれば、神さまは苦しみと共に溢れる慰めも必ず与えてくださるということがわかってきます。
今日のみ言葉には、慰めという言葉が9回出てきます。繰り返し出てくる。この慰めという言葉は、しわくちゃになった心をアイロンでしわを伸ばすようなことだと以前同じ個所で正芳牧師が語ったことを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。
短い文章の中で9回も慰めという言葉が使われているということは、本当に伝えたい言葉なのだと思います。あらゆる苦難を慰めることができるこの慰めを知ってほしい、経験してほしい。そしてこの慰めを受けたらまた誰かを慰めて、慰めを広げてほしい。そんなパウロのたたみかける声が聞こえるようです。
事実、キリストの教会は、初代教会の頃から、絶えず、パウロの語る慰めに何度となく立ち返り生かされてきました。イエス・キリストを信じる群れは、いつの時代もこの慰めを受け続けてきたのです。
主の教会は、コリントの信徒への手紙が記された新約聖書の時代だけではなく、そのすぐ後にも様々な問題が起こってきました。歴史の中で、何度も深刻な分裂も経験してきました。教会の歴史をひもとくと現代でも起こっている様々な問題が既に経験済みであることを見つけて驚かされると同時に、励まされます。それでも、教会は立ち続けたのだなと。
教会の歴史は教会トラブルの百科事典みたいなものだと思わされます。今の教会で起きている事柄で、過去起きていないものはないというぐらい教会はその歴史の始めから様々な問題に悩まされ続けてきました。
けれども、キリストの教会がそのもろもろのトラブルのために消えてなくなるということはありませんでした。個教会の単位ではもちろんなくなっている教会はいくらでもあります。
けれども、一つキリストの体としての教会が、この地上からなくなってしまったことはないのです。そして、その教会は、今も変わらずにキリストを証し続けています。
2000年近くのときを経て、それでも教会が続いているということは、本当に不思議なことです。繰り返し問題が起きてきました。その度に教会は苦しんできました。苦難によって信じる群れが散らされました。完全に消えてしまってもおかしくなかったのです。
しかし、教会はそこでこそキリストの慰めを受け続けました。そして、そこで慰められたからこそ希望を失うことなく、教会は立ち続けることができました。この営みが続いているのは、決して人間の力でできたことではありません。何しろ2000年ですから。神さまの慰めの凄まじさを見るように思います。いいえ、2000年どころではありません。旧約聖書の時代から、神の民は、滅びを覚悟しなければならないひどい危機の中で慰められ、守られて来たのです。
私は、説教を語るとき、必ず、旧約聖書と新約聖書を選ぶようにしています。元町教会では、中心となるみ言葉が含まれるどちらかだけを読みますけれども、前任地の鎌倉では、必ず両方を読んでいました。2か所選ぶなんて面倒だと初めの頃はちょっとだけ思っていたのですが、今はこれがなくてはならないものになりました。それで、今日も旧約聖書がこの新約聖書の言葉をより確かなものとするので、紹介しておきたいと思います。
イザヤ書40章1節から8節を選んだのですが、2節までをお読みします。旧約聖書1123ページです。「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ彼女によびかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けたと。」
神さまがどれほど私たちの慰めのために心を砕いてくださっているのかがよくわかるみ言葉ですどうしてこんなことがあるのですか神さまと叫ぶ私たちの声を、神様は、聞き逃すことなどありません。
そして、イザヤ書は、続く6-7節でその神の慰めがどのように実現するのかを教えてくれます。弱く儚い人間は乾いた熱い風が吹くと、草のように枯れて跡形がなくなってしまうと預言者は嘆きます。
その預言者に向かって、主なる神様は、しかし、わたしの言葉は永遠に立つというのです。消えることのないわたしの言葉が必ずあなたたちを慰めるのだと、おっしゃいます。
ここで、私たちは神の言葉というと聖書のことだと理解するかもしれません。もちろんそれも間違いではありません。けれども、ここで約束されている神の言葉、また聖書の言葉とは、突きつめて言えば、今も生きて私たちと共にいてくださるイエス・キリストのこと以外ではありません。今朝のコリントのみ言葉の5節の後半が「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」とはっきり語っている通りです。
神さまの慰めは口約束のような曖昧なものではないのです。
神様の言葉、慰めのみ心とは、イエス・キリストこのお方が私たちと共にいてくださるということ、私たちと一つとなってくださること、それが私たちの満ちあふれる慰めそのものなのです。
イエス・キリストは、私たちに満ちあふれる慰めをお与えになるために徹底的に私たちのために生きてくださり、死んでくださったのです。そして、復活して今もなお私たちのために生きておられるのです。イエス様がいらっしゃらなければ、私たちは神様の慰めをよく知ることはできなかったのです。
このキリストは、私たちのために、十字架で死なれました。ここに愛があります。慰めがあります。
また、お甦りになりました。ここに愛があり、慰めがあります。誰一人避けて通ることのできない死は、私たちにとって、大変大きな苦しみをもたらすものであります。けれども、地上の命の終わりが最後ではないことを私たちと一つとなってくださったキリスト自ら初穂となってお示しくださいました。そして、なお私たちと共にいて神の慰めを保証しつづけてくださっています。
この消えることのない慰めの中で教会はどんな時も生かされて参りました。そして、今私たちも生かされています。
パウロは、このイエス・キリストを伝えるために、コリントの信徒たちに今一度思い起こしてほしいと熱い思いをもって手紙を書きました。アジア州での伝道では、命の危険さえ感じる出来事にも出会っていたようです。そのことは8-9節に記されています。
コリントの教会にイエス・キリストを思い起こしてほしいと勧めるパウロ自身も、キリストを死者の中からお甦りにならせた主と出会い直しているのです。ここまでかと自分の命と働きの限界を語るところで、死人を甦らせる主に出会い直している。
人間の力の尽きるところ、それは、私たちにとって普通はそのまま終わりを意味します。パウロもまた、絶体絶命のそこで思い切って力を抜いてしまうように見えます。
けれども、パウロは打ちひしがれて、諦めたのではなく、そこでこそ、いよいよご復活の神に自分を委ねているのです。
あなたたちは死に説得されて、終わりだと思うかもしれない、でも、ご復活のキリストを送って下さった父なる神様に全面的に頼ることがゆるされている。だから大丈夫なんだと語って、感謝を共にしてほしいと言います。
どこまでも、私たちのために共に歩んでくださるキリストがいる、十字架に架けられようが、死んで陰府にくだろうが、どこまでも私たちを追いかけてくださる諦めないキリストがいる、父なる神様がいらっしゃるから、私たちもしぶとく生きることができる。それは、誰かを打ち負かすような強さとは違います。しかし、何よりも強い力なのです。弱いときにこそ強い。弱いままで生きることでかえって主が働いてくださり、弱さにあってもかえってその人らしい歩みを創り出してくださるのです。
この教会で、主にお仕えした7年、様々なことがありました。しかし、何をできたかと言えば、牧師として大したことはできなかったと思っています。私にとって、自分の弱さとひたすら向き合った7年であったのではないかと振り返っています。今日も、ここに立てる自信はあまりありませんでした。この教会でみなさんと一緒にもう一度み言葉に聞きたいという強い願いはありましたけれども、主日礼拝の説教を準備して語ることが、引っ越し作業と子育てと並行でできるのか未知でした。風邪もひきました。先週のなかばには説教題が書かれた紙がいたずらされるというハプニングもありました。とても心が暗くなりかけました。語らない方がいいのかもしれないと一瞬思いました。
しかし、そこで私が金沢に来てから出会った改革者ルターの言葉を思い起こしました。
「信じるなら語りなさい。語るなら苦しまなければならない。苦しむなら慰められる。」
日々、押し迫るトラブルの中で、教会の集会案内看板に掲げられたこのコリントの信徒への手紙の言葉を何度も聴かせて頂きました。慰めたい慰めたい慰めることができるという神さまの声が響いてきました。
その声と共に、イエス様がどこまでもあなたと共にいるじゃないかと復活の主の姿が指し示されました。パウロの言葉、それと響きあうルターの言葉を聞いて、もうついていくしかないんだ。そうやって、イエス様に従って、気が付けばあれよあれよという間に日曜日を迎えました。そして、今ここでお話しています。
この7年間の間、わたしの弱さは皆さんを悲しませたり、苦しませたりということがあったのではないかと申し訳なく思います。私は、言葉数の多い説教者ではありませんし、普段から口のうまい方ではありません。語ってきた説教がどれほど皆さんに届いたのかあまり自信がありません。主日での説教は数えるほどしかできませんでした。
しかし、一方で、キリストにそのままついていく姿はお見せできたのではないかと思っています。牧師の弱さの中に働いていてくたさった神様の力を皆さんも目の当たりにしてくださった。またお一人お一人、それぞれの置かれた弱さの中で、一緒に弱さの中に働かれる神様の力を体験してくださったのではないかと信じています。
7年の間、子ども育てながら、病の回復を待ちながら、み言葉に聞いて参りました。ここにイエス様がいらっしゃいますねと教会の仲間と顔を合わせて確かめ合うということを聖書を一緒に読みながら過ごしてくることができました。このことを、本当に神様に感謝しています。
信仰生活を送るということは、今の苦しみから抜け出して、いよいよ輝く人生を送ることが重要なこととは、わたしは考えていません。むしろ、苦しみを抱えながらも、なおもそこに注がれる神さまの慰めの恵みを知り、どんなときも希望をもって主と共に生かされることなのだと心の底から信じています。そして、その慰めを知った者は、隣人を慰める者としても生きて行きます。そこに人間の本当に健やかな命があります。どうぞ、この神の慰めを一人でも多くの方と共にすることができますように。
神に栄光が限りなくありますように。
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