人間の意図を超える神

3月26日 ヨハネによる福音書11章45-57  大澤正芳牧師

今日は、これまで4回に渡って聞いてきたラザロの復活の出来事の結びに当たる部分を司式者に読んでもらいました。

ここには、主イエスの御言葉も甦ったラザロの姿もなく、その出来事に接した者たちの反応、また、その知らせを受けた権力者たちの反応が基本的には記録されています。

続く第12章には、高価なナルドの香油を自分の髪で主イエスの足に塗ったというラザロの兄弟マリアの有名な出来事が語られています。

そのことを踏まえると、今日私たちが聴いている個所というのは、「ラザロの復活」と、「マリアのナルドの香油の捧げもの」という忘れがたい有名な二つの物語の谷間にある幕間のような記事であると言えるかもしれません。

もちろん、そうは言っても、ラザロの復活の出来事と、マリアの捧げものによる主イエスの葬りの備えの出来事を繋ぐような、ユダヤ人の重要な決定が記録されていることも確かです。

53節にこのような記述があります。

「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」

この決定を下したのは、47節を読みますと、最高法院と呼ばれるユダヤ人最高の議決機関です。

今日お読みしている聖書箇所は、分量的にも、ヨハネによる福音書の真ん中くらいにあたりますが、内容的にも、今日の箇所は、分水嶺となっていると言えます。

それまでは、神の民であるユダヤ人の指導者層は、主イエスという人間がどういう人物であるか、観察し、見極めようとしていました。

基本的には、初めから疑いのまなざしを向けていましたが、この時からは、もっとはっきりとした方針を持つようになりました。

この日から、「彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」のです。

ある人は、57節の「祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた」という言葉は、今で言えば、逮捕状であると言います。

ユダヤ人の最高議決機関である最高法院、サンヘドリンの出した正式な逮捕状です。

主イエスが墓に葬られたラザロを引き起こされて以来、この出来事を境に、主イエスへの処刑の判決は下り、ひたすら逮捕の機会を窺われていたのです。

このことを語る聖書の言葉を丁寧に読んでみますと、たいへん驚かされることがあります。

これまでも主イエスのことを疑いのまなざしで眺め、それでも、神からの者か、ペテン師か、悪魔の手先かと、色眼鏡をかけながらも、見極めようとしていた人たちでした。

そして、今日の個所で、その判断を終え、判決を下したわけですが、驚くべきことに、47節には、「この男は多くのしるしを行っている」と、語っているのです。

彼はしるしを行っている。神から遣わされた救い主であることの驚くべきしるしを行っている。

ペテンだとか、悪魔の業だなどとは言わないのです。

このイエスという男の呼びかけによって、死者が甦った。この奇跡は「しるし」だと判断したのです。神より遣わされた者であるという「しるし」です。

ところが、続けて言うのです。

「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

たいへん不思議な展開です。サンヘドリンは単なる権力者の集いではありません。

信仰も道徳をないがしろにして、権力を恣にしようという議会ではありません。祭司長、ファリサイ派などの極めて宗教的な人々から成る最高法院です。

その人々が主イエスが偽者の自称救い主だから、処刑しようというのではありません。

病む者を癒し、目の見えない者の目を開き、死者を甦らせたという前代未聞の奇跡、これを置いて他に、神より遣わされた者のしるしを求めることができないような、はっきりとしたしるしとしての奇跡を行ったから、困り果てているのです。

「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。」

何が困るのか?皆が信じて、着いて行くようになるならば、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と、心配しているのです。

祭司長、ファリサイ派の人々、そして、ユダヤ民衆には、一つの希望、一つの願いがありました。

国が滅ぼされてしまった自分たちの民族です。今は、ローマ帝国という巨大な軍事国家に、ある程度の自治を認められている属州に過ぎません。

けれども、やがて、神がお遣わしになるメシア、救い主が来られ、自分たちを解放し、もう一度、自分たちの土地、自分たちの国を持つようになる。

もう一度、出エジプトが起こり、神の民は自由になる。

このような希望を信じて誰もが生きていました。

それならば、死人を甦らせるほどのしるしを行い、ユダヤの民の誰もが納得して、説得されてしまうような主イエスの登場に何を困ることがあるのか?

それは、祭司長、ファリサイ派の人々自身の希望でもあるはずだからです。

けれども、論理的には確かにそう言えたとしても、やはり、彼らの至った結論というのは、本当に人間らしいと言うか、本当のことを言えば、不思議でも何でもなくて、私たちにもその気持ちが痛いほどよくわかる恐れに取り付かれていたのではないかと思うのです。

ローマ人の力、ローマ帝国の力、この世の力そのものの象徴であるような、その暴力的な力に圧倒されているのです。もうすっかり飲み込まれ切ってしまっているのです。

神を信じています。神の存在を信じています。神が生きて働いておられ、この私たちの生きている生活、この日々の歴史に触れられ、影響を与えられることを信じています。神の実在を、神の臨在を信じています。

けれども、それ以上にローマ人の力を信じています。帝国の力を信じています。

イエスという人物に、今、この時、たしかに働いていると認めざるを得ない生ける神の働きを信じながら、しかし、それ以上に、ローマ帝国の暴力の力、圧倒的な支配を信じています。

イエスという人物に現に表されている前代未聞の神の力よりも、ローマの方が強いと信じ切っているのです。民が主イエスを担ぎ上げて、帝国に反旗を翻すようなことがあれば、神殿も、国民も滅びてしまうと信じ切っているのです。

この気持ちよくわかります。わからないはずがありません。

それが人間というものです。それが恐れや不安、疑いという消極的な形で出るのか、「建前ではそうだけど、でも、本音はこうだ」という、自分の信じる信仰への積極的な裏切りという形になるのか、時々でしょうが、その気持ちはよくわかります。

けれども、私たちも立ち止まって考えるならば、誰もがわかってしまうこの人間らしい気持ち、これこそが、罪なのです。

宮台真司というカトリックの信仰を持つ社会学者が、たいへん面白いことを言います。

旧約の語る原罪、オリジナルシンについて、こういう趣旨のことを語ります。

旧約の創造物語というのは神のなす区別について語る。光と闇を分け、海と陸を分け、そうやって神がご自分の判断で世界を造られていく物語が創造物語です。そして、その神が神の判断によって造られていくその世界は、極めて良いものとして造られます。

原罪の物語というのは、神が素晴らしい世界を造って行く時になした判断を、人間がなすようになる。

蛇の誘惑で人間が知恵の実を食べてしまってからというもの、人間はあたかも神のように善悪の区別をするようになる。けれども、人のなす区別は、神のなす区別とは違い、必ず間違う。

それにも関わらず、人は、区別なしには生きられない。区別しないと決めても、区別しないと決めたのは、当の人間なので、どうしても、判断から逃れられない。

人は、区別、判断から逃れられない。しかも、その区別、判断には、必ず間違いを伴う。これが原罪物語が語ろうとすることだというのです。

私は、今日の47節、48節の言葉を読みながら、この社会学者の聖書解釈の言葉を思い起こしていました。

私たち人間という者は、どうあがいても神の思いよりも、自分の思いを優先する。

単にうまい汁を吸ってやろう、自分の欲望を優先しようというのではありません。

今日の聖書箇所というのは、祭司長や、ファリサイ派の人々に対する私たちのステレオタイプを打ち壊すようなところがあると思います。

既得権益を守るためではありません。主イエスへの彼らのねたみだけが引き起こしたことではありません。

神のため、神の民のためになした決断です。

神殿と国民を滅びから守るためであり、また、50節の大祭司カイアファの言葉によれば、一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が効率が良いという合理的判断に基づくものであったのです。

ちなみにこの合理的判断は、次週読むことになる、マリアの無駄遣いと比べて、ずっと、説得力を持つものであります。

しかし、これがどんなに神のため、神のためになされたその時代を任されている権力者達による合理的な判断であるにせよ、神の御心を見極めながら、なお、それを建前として、無視するような、神を越えた神の位置に自分を置く人間の恐るべき罪の姿です。

鎌倉雪ノ下教会の川﨑牧師が、いつも、いつも語る一つの言葉を私は、忘れることができません。

祭司長たち、ファリサイ派の人々が、主イエスを十字架に付けて殺したという聖書の記憶は、彼らが、特別に偽善的な悪者だったということではないんだ。

そうではなくて、当時、一番真面目で、一番宗教的な人間、つまり、一番ましな人間であっても、人間は、神を神とすることができないんだ。そのことを語っているんだ。

言い回しは正確ではありませんが、そういう趣旨のことを度々語られ、私の心にすっかり刻み込まれてしまいました。

しかし、そう考えると、実は、彼らが選び取らなかったもう一つの可能性、多くの群衆がなびいてしまうと心配した、主イエスを救い主として担ぎ上げ、ローマ帝国に逆らう可能性もまた、もっともっと程度の低い罪の決断に過ぎないとも言わなければなりません。

現代の社会学者が語るように何を選んでも、誤りを含んでしまうのです。どうあがいても、主イエスを十字架へと追いやることになるのです。これが、原罪と呼ばれるような私たち人間の貧しさなのです。

私は今日の説教を、谷間のような、繋ぎのような読み飛ばしてしまうような聖書箇所だけれども、じっくり読むと驚くべきことが書いてあると申し上げて語り始めました。

その驚くべきこととして、この如何ともし難い人間の罪が現実化していく姿をここまで語り続けてきました。

けれども、今日の箇所には、実は、もっと驚くべき言葉があります。

これまでお話したことは、どんなに私たち人間のどうしようもない不自由さ、私たちの強い不安、不信仰、罪深さ、傲慢さを、私たちに突きつけるものであったとしても、それがもたらす、耳の痛さ、やるせなさ、居たたまれなさ、失望は、暫定的なものです。

もっともっと驚くべき言葉、強く輝く光の言葉、私たち人間の原罪の放つ深刻な暗さを、単なるバックにしてしまう光が、今日の聖書箇所から放たれています。

49節後半から‐52節です。

「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのである。

神の神殿のため、神の民のため、すなわち、神のため、隣人のためと言いながら、知らず知らずの内に、神の上に立ってしまう私たちです。

神のため、隣人のためと、神の独り子を殺してしまう私たち人間の正しさです。

その罪深さに少しも気付けない。自分の正しさ、罪から、どうあっても抜け出せない。

けれども、神の思いをも捻じ曲げて、必ず間違う、間違えずにはおれない自分の判断を押し通すその罪深い我々の判断を、神は、その御子において、丸ごと、引き受け、飲み込まれるのです。

「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だ」という、悪気のない純粋な罪の言葉、神殺しをしようとする人間の史上最悪の罪の判断を、ヨハネによる福音書は、神は引き受け、ここで、それを大祭司による預言の言葉、神である私の言葉、私の思いだと、お引き受けになってしまわれたと語るのです。

もしも、独り子を殺すならば、主人は帰って来て、雇人たちをみな殺しにするのが当然だろうと、共観福音書の中で、主イエスはお語りになっています。

民と神殿を守るため、政治的リアリズムを貫いたつもりかもしれませんが、何もわかっていなかったのは、カイアファの方です。

人間の目は曇っており、全てを見通すことができず、大祭司でさえ、ローマ帝国のご機嫌よりも、主イエスへの態度の方が、ずっと危険なことに気付けないまま、最悪の判断を下すのです。

けれども、神は、この人間の最悪の一手、しかも、その罪ゆえの必然的な一手、主イエスの死を、一民族を越えて、散らされている世界中の神の子たちを一つに集めるための死、十字架の死、神の救いの力が、爆発し、この世を包み込んでしまう力として、お用いになったのです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ129)。

主イエス・キリスト、このお方は、この直後マリアより葬りの準備を受けた後、過越祭を祝おうとしているエルサレムに向かわれます。

御父と御子は、一つの心で、エルサレムに向かわれます。それは十字架への道です。苦しみへの道です。人間の罪が頂点に達する道です。

人の罪の計画を主は取り上げ、引き受け、ご自分の御心のために用いられます。

ラザロが生きるために、私たちが生きるために、この世界が生きるために、神が選び取られるのです。

本当に驚くべきことは、私たちのどうしようもない罪ではなく、この方のどうしようもない愛です。

どうしようもなく深い愛、どうしようもなく激しい愛。

この愛が、皆さんを探しています。皆さんを連れ帰ろうとしています。

散らされている者たちが一つに集められるために、羊飼いと羊の麗しい関係に至るために、すなわち、永遠の命に至るために、主が全ての者の全てとなるために、主イエスの十字架が立ちました。

私たちを今、ここに集めているのは、このような神の愛、十字架に至る愛です。

 

 

 

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