小さな小さな教理の窓No.14

小さな小さな教理の窓№14「アタナシオス信条」

 

古代信条(基本信条)の最後に取り上げるのは、アタナシオス信条です。この信条の名を、初めて聞く人も多いのではないでしょうか?たとえ、牧師であっても、この信条に通暁している人は、ほんの僅かであると思います。かくいう私も、神学生時代に教会史の授業で触れられていたなあと、うっすら思い出す程度の親しみしかありません。

一つには、この信条が、「三位一体」を告白するニケア・コンスタンティノポリス信条の心と、「真の神であり、真の人間である一人のキリスト」というカルケドン信条の心を、念入りに語ろうとするものであり、その内容の柱は、それまでに言い尽くされていると考えられるので、あえて取り上げられるということが少ないのかもしれません。

また、それ以上に、親しみが薄くなってしまうのは、文章が長いという実際的な理由のせいかもしれません。40項目以上に渡るこの信条を、限られた礼拝時間の中で、告白するというのはハードルが高いことです。枠からはみ出してしまうので、今までのように次回、全文をご紹介するわけにもいきません。

けれども、今回、皆さんにご紹介するために、改めてこの信条を少し学び直しながら、大いなる思い違いをしていたところがあったと気付かされました。これまでの私の印象では、短い40以上の命題に分けて、正統信仰を告白するこの信条は、骨と皮ばかりの理屈っぽさが際立った文章だと思い込んでいました。しかし、どうやら、この短い項目分けは、歌うためだったようなのです。

たとえば、第8~10の命題はこうです。

「8.父は造られず、子も造られず、聖霊も造られたものではない。

  9.父は測り知られず、子も測り知られず、聖霊も測り知られない。

 10.父は永遠、子も永遠、聖霊も永遠である。」(聖公会訳)

何度も何度も声に出して繰り返してみてください。日本語で繰り返すだけで、もう、音楽的なリズムが感じられてくるのではないでしょうか?

実際、古代信条が確立していく時代、それらの信条の内容が広い地域にまたがる教会に受け入れられて行ったのは、歌を通してであったと学んだことがあります。つまり、信条の告白する信仰は、讃美歌として、各地に広まり、受け入れられたのです。

教理を重んじる信仰と、賛美歌を喜ぶ信仰は、真逆にあるものと考えてしまうことが、私たちにはあります。しかし、どうもそれは勘違いなのです。教理の言葉は歌えるもの、賛美のためのもの、噛めば噛むほど、胸が熱くなってくるものなのです。「ドグマ(教理)こそドラマ」と言った人がありました。本当に味わわれた教理は、心を揺さぶるのです。キリスト者として生きる中で、その味まで辿り着かなければ、もったいないと思いませんか?そう思い巡らせてくれる、形からして魅力的なアタナシオス信条なのです。

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