2023年1月15日 主日礼拝説教
今日読んだ聖書箇所、ここには、イエス・キリストに結ばれた者の典型的な姿があります。
つまり、今、この礼拝に集まる私たちの姿があります。
それはどのような姿であるのでしょうか?
一言で言えば、ストレンジャーです。
多数派に対する、よそ者、外れ者、異質な者として、世にある者の姿です。
主イエスによって生まれながらに見えなかった目を開かれた人が、「あの方は神から来られた方だ」と、主イエスへの信仰を公に表明したとき、多数派の人々は、34節、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようと言うのか」と言い返し、その人を外に追い出したと言います。
このような排除は、たまたまこの人の身に起きたことではなかったようです。
22節の後半を見ると、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」とあります。
主イエスを最初に信じたユダヤ人たちは、この人と同様に、同族のユダヤ人コミュニティーから追い出されたのです。
けれども、そうして、追い出されても、公然と主イエスを信じ、神にお従いする人々が、ユダヤ人の会堂とは異なる、キリスト教会という異質な群れ、我々の先達となったのです。
福音書記者ヨハネが属しているのは、明らかにそのように追い出され、異質な者となった人々の群れでありました。
主イエスの弟子となることは、それだけの価値がありました。というよりも、もっと正確に言えば、どうしても、そうせざるを得なかった。村八分にされても、イエスというお方を、この私の主、私たちの主と告白せずにはおれなくなる情熱に燃やされたのです。
最近、内灘にあるCLCこひつじ書店に必要な本があったので、求めに行きましたが、もう一冊思わず購入してしまいました。『21世紀のキリスト教入門』という本です。
プエルトリコの有名なフスト・ゴンサレスという神学者の著作ですが、私の卒業した神学大学の恩師が翻訳したもので、とても信頼している先生ですから、思わず、手に入れました。
読み始めた最初の方には、信仰論、信仰とは何かということから語り始められていました。
それは、一読して、情熱の信仰論と名付けたいようなものでした。
こういう趣旨のことが書いてありました。
信じるという言葉の中には、実は、丁寧に考えると、二つの側面がある。
一つ目は、その実在を信じる、存在を信じるというように、目には見えない神さまが確かに存在することを信じるという側面。
けれども、洗礼を受け、クリスチャンとして生きるようになった私たちがイエスさまを信じる、主なる神さまを私たちの父なる神様と信じるということは、それ以上の意味を持っているとゴンサレスは言います。
私たちがイエス様を信じる、父なる神様を信じるという時には、それは、単に、神の実在を信じるというのではなくて、その方を信頼するということ。それどころか、自分の命、人生をその方に、委ねるという意味まで含まれているのだと言います。
当たり前と言えば、当たり前のことです。けれども、改めて、これが私たち自身の信仰だと心に留めたいと思います。
私たちの胸の内には、神の実在を信じるということを越えて、そのお方を信頼すること、そうせずにはおられないような信頼がこの方に対して湧き上がってしまっていること、たとえ、多数派から追い出され、ストレンジャーになってしまっても、それでも、この方を主と告白せざるを得ないほどの、主イエスと、その御父との人間関係に生き始めるということなのです。
ゴンサレスはとても分かりやすい表現をしますが、このような信頼としての信仰を、恋に落ちることにたとえます。
私たち自身のことを振り返ってみても、色々な宗教を並べて、比べてみて、これが一番だと、理屈で納得して、クリスチャンになったわけではありません。
理屈じゃありませんでした。ビビっとインスピレーションが与えられた。まさに、風のように自由に吹く聖霊なる神によって、インスパイアされた。
その時、何が起きたかというと、このイエス・キリストというお方と、そのお方の一挙手一投足が他ならぬ私を探し求める神の、この私を目指した行為であることを受け止めざるを得ないように、この胸にひしひしと迫って来たのです。
そして、聖書が描いていることは、私のこと、私の身に起こったことだと、ほんの少しづづですが、分かるようになっていったのです。
このようなことが、この身に起こるためには、主イエスのもとに決して歩み寄ることのできない一人の生まれつき目の見えない男の人のもとに、主イエスが目を留めて、歩みよって下さったように、主イエスの言葉を携えてくる、主の霊の訪れを待つ他ないものです。
けれども、それは起きます。まさに、このヨハネによる福音書の語る出来事で目を開かれた人は、このようなキリストとの出会いを与えられたのです。
24節「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの(イエスという)者が罪ある人間だと知っているのだ」。
25節、目の開かれた人は答えます。
「あの方が罪人かどうか、わたしにはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
この人は、主イエスと、「あの方」と「わたし」という繋がりの中に、主イエスの歩み寄りによって、もう、足を踏み入れたのです。
つまり、自分のもとを訪れてくださった主イエスを、自分の言葉で、自分のこととして、主イエスと自分の関係、繋がりについて、語り始める者と去れたのです。そこには、生きた出会いがあったのです。
天地万物の造り主なる神が、その御子が、世に来られ、私たちと出会ってくださること、それは本来の意味で奇跡であり、特別なことですが、稀なことではありません。今日の聖書箇所に登場する一人の生まれつき目の見えない人の身に起きたことであり、また私たちの身にも起きたこと、これからも起きることです。
たとえ、この中で、幼い時から、教会に繋がってきた者であっても、長じてなお、教会に繋がり続けているのは、親に言われたからでもなく、誰に言われたからでもありません。主イエスの訪れをその身に受けたのです。
そして、自分の言葉で、主イエスと自分の繋がりを語る言葉を持つようにされたのです。
今日の聖書箇所において、このことは、奇しくも、生まれつき目が見えなかったこの人の両親が、「本人にお聞きください。もう大人ですから」と言ったように、それは、臆したゆえでありましたが、しかし、真実に、本当に成熟した人間が、ここにはいるのです。
主イエスによって、取り上げられ、目を開かれ、自分の言葉で語れるようになった一人前の人間、独立したひとりの人格である人間です。
たとえ、ストレンジャーになってしまったとしても、いいえ、人格になるということは、そもそも他の誰とも異なる、独立した自分となることですから、誰に流されることもなく、遠慮することもなく、その開いて頂いた目で見た、主イエスのことを、この自分の言葉で、明確に述べるのです。
これが、キリスト者の典型的な姿です。
森有正という人が書いた有名な内村鑑三論があります。
講談社学術文庫から出ている薄い本です。
今は絶版となっているようですが、キリスト教会のみならず、日本の思想界において記念碑的著作でだと言われるものです。
そこで森は、日本の初代のプロテスタント信仰の伝道者の一人である内村鑑三を評して、この人を通して、初めて日本人は、個人、「個」となった。本当に意味で、人格となったと言います。
個人、個、人格とは、もう少し、分かりやすい言葉で言うと、責任を負う「わたし」、この身を晒して、真剣に、人と、世界と本当に向き合う「わたし」のことです。
環境や、状況、場の雰囲気、空気に流されるままの自分を持たない「わたし」ではなく、時に、輪を乱すことになっても、言うべきことを言い、為すべきこと為す、独立した一個の人格である成熟した「わたし」です。
このような確固とした人格である「わたし」が日本人で初めて、内村鑑三という人物において成立したと言うのです。
森は、『余は如何にして基督信徒になりしか』という内村の有名な著作の中で語られる、「全能の神の前に責任を負う霊魂」という言葉を取り上げ、これこそが、人格概念そのものであり、人間の意識の最高のものだと言いました。
私たちが神の御前に立つ時、いいえ、神がそのように、私たちを御前に立たせてくださる時、私たちは、輪郭の濃い人間となるのです。
神は、神のもとに昇って行くことのできない人間、神の御前に立つことのできないに人間のために、御子をお遣わしになられました。
いつも人の後ろに隠れていたい私、責任を取りたくない私、多数派の中にいて安心したい私を、御子において、訪ね、そのまなざしの内に捉えてくださいました。
後ろに隠れていたい私は、自信のない私です。自分なんてと思っているから、多数派の中にいたいのです。
そのような私が神の御前に立たされるならば、恥ずかしくて消えてしまいそうです。神の御前に蒸発してしまいそうな小さな私です。
けれども、神はそのわたしを、へりくだった御子を通して、御前に立たせ、私の名を呼んでくださったのです。
この世の立派な人、能力の高い人、有名な人には、歯牙にも掛けられず、有象無象の、モブキャラと自他共に思われていたこの私が、はっきりと確実に、御子のまなざしにおいて、捉えてくださったのです。
そこで、全知全能の父なる神様が、はっきりとこの私と目を合わそうとなさり、事実、神様の視線と私の視線が交わるのです。
この神にとって、わたしは有象無象のモブキャラではなく、御自分が姿勢を正して面と向かう、相対する相手として、扱われたのです。
どれほど、神が私たちを重んじられるか?世に降られた御子を見ればよいのです。しかも、十字架の御子イエス・キリストの姿を見ればよいのです。
神はキリストの命によって、私たちを滅びから救ってくださったという聖書の使信は、つまり、私たちは、御子イエス・キリストの命の重みを持つ存在として、神に取り扱って頂いているということなのです。
このことを受け止める時、初めて私たちは人格となるのです。全知全能の神の御前で責任を負う独立した「わたし」となるのです。
それは、多数派の中でこそ、安心安全を感じている社会の中にあっては、異質な者、よそ者と名rざるを得ませんが、しかし、目が開いた人間、成熟した人間となることなのです。
同調圧力の強い社会にあって、それに屈しない人間、ストレンジャーになることを辞さない人間が、このようにして、この国にも生まれたのだと、森は、内村鑑三を指して言いました。
そしてそれは、内村鑑三という歴史に名を残す特別な伝道者、特別な個人にだけ生まれた意識ではありませんでした。
私たちの教会が良く知っているのは、長尾巻一家をはじめとするこの教会の初代のキリスト者たちも、同じように、神の御前に立つ人格となって生きたのです。
その人たちも、今よりもずっと同調圧力の強かった昔の金沢において、神の御前に立つ輪郭線のはっきりとした人間として生きたのです。時には石を投げつけられたり、川に突き飛ばされたりしながら、なお、キリスト者として生きたのです。
もちろん、それは、この教会だけではありません。
私は、かつて、この金沢で伝道したある人から、昔金沢で流行った一つの囃子歌、子どもたちの囃子歌について聴いたことがあります。こういうものです。
「耶蘇教徒の弱虫は、磔拝んで涙を流す」
十字架に磔されたキリストを拝んで涙を流す、おかしな奴らだ。弱虫だ。
教会に集う子どもたち、学生たち、大人たちが、そうやって馬鹿にされた。
けれども、その人たちは、信仰を捨てませんでした。主イエス・キリストへの信頼に生き続けました。
その十字架を拝んで涙を流すその人は、弱虫と嘲られようとも、弱虫ではなかったのです。
むしろ、そのように嘲る者のために祈り続け、教会で、家庭で、学校で、職場で主イエスの恵みを自分の言葉で語り続けたのです。
もちろん、今日の聖書箇所で目を開かれた男のように、直接、公然と、自分の言葉で、世に対して、キリストの福音を語ったというのではないかもしれません。
ただただ、たんたんと、礼拝に出席し続けたというだけだと、本人たちは思っていたかもしれません。
けれども、日曜毎の礼拝に淡々と出席し、そこで語られる主イエス・キリストの出来事に聞き耳を立てて座っていること、そのことが既に、この世にあって、自分の存在をあげて、福音を指し示す信仰告白の行為であり続けたのです。
時代によっては、礼拝に出席することも叶わなかった日々があったかもしれません。けれども、それでも、主イエスに対する愛を、父なる神に対する信仰の火を胸に秘め、耐え続け、教会は命脈を保ったのです。もちろん、神が支えてくださったのです。どこまでも、この私を追いかけ、御前に立つ者としてくださったからです。
だから今、ここに、教会があります。あちらにも、こちらにも、教会があるのです。
今日の説教のタイトルを「信仰のおとなとなる」と付けながら、私は、これは正しい言葉ではないと少し後悔しています。
正確には、キリスト信仰は、私たちをおとなとするのです。
キリスト信仰は私たちを親離れさせる。子離れさせる。地縁血縁から解き放ち、一人の人格として立たせる。
ありとあらゆる依存や恐れから私たちを解放し、一人のおとなとして、責任を持って生きるよう、私たちを立たせる力となるのです。
ふさわしくない者、小さな者、罪人を、その持てるものによらず、ただ憐みによって、子と見なし、友と見なし、宝と見なしてくださるイエス・キリストに現わされた神の愛が、私たちを立たせてくださるのです。
今、ここには、神によって招かれ、神の御前に立たされ、キリストに目と目を合わせて頂いたお一人お一人がいます。
そのような自分であること、隣人であること信じて良いのです。
神自らが私たちを、かけがえのない一人の人格として、姿勢を正して向き合うべき存在として、扱ってくださいます。誰にも相手にされない、覚えられることのない、つまらない者などではありません。
このような輪郭線の濃い自分を生きることが、自分のためだけでなく、共に生きる隣人のため、日本のため、世界のためにもなることを、私達教会は感謝を持って信じ、自分のこととして受け止め、そしてまた、そのような自分を知らない隣人に、「これはあなたのことですよ」と、伝える使命を与えられているのです。
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