12月4日 主日礼拝説教 ヨハネによる福音書8章21節~30節
12月になりました。12月は、私たちキリスト教会にとって、何と言っても伝道です。
町はもうクリスマスカラー一色です。
この季節を積極的な伝道の好機と捉え、各教会が、様々なイベントを催しています。
私たちの教会の今月18日のCSクリスマス礼拝、24日の夜のクリスマスイブ賛美礼拝、25日のクリスマス礼拝にも、きっと普段、教会の礼拝に訪れていない方が、何人も参加してくださると思います。そこで共にイエス・キリストの福音の言葉を聴くことができますように、神さまが招かれようとしている人を私たちもきちんと誘うことができますように、祈りつつ、備えたいと願います。
元町教会の古い資料を読む機会がありましたが、教会は自己目的のために集まる集団ではない。「世のための教会」だという三輪牧師の言葉を読みました。教会は自分たちのためにあるのではなくて、世のためにある。「世のためにある」ということがどういうことであるかというと、教会は世に奉仕する群れだということです。
けれども、教会が世にする奉仕とは、社会活動を第一にすることではありません。教会は教会にしかできない世のための奉仕をいたします。教会がなくなってしまえば、もう、誰もする者がいなくなってしまう、かけがえのない世のための奉仕をいたします。
それは伝道です。預言者として、世に向かってイエス・キリストの福音を語ることです。
礼拝することです。祭司として、世に代わって、世のために、祈ることです。
私たちは王の系統を引く祭司として、主イエス・キリストにあって、神の王子、王女とされた者として、礼拝し、伝道することによって、世のための奉仕をいたします。これは私たち教会にしかできない務めです。
私たちが命を懸けて重んじている務め、このコロナ禍の三年間も、手紙や、電話やオンラインを通じて、金沢元町教会として一回も欠かすことなく、続けてきた最重要の務めです。
この務めは、たいへん光栄な務めです。天地万物の造り主なる主なる神さまのお言葉、その思い、その御心を取り次ぐ務めだからです。
大切な人から贈られたプレゼントに添えられたメッセージカードのように、そのプレゼントが、やがて使い古され、使い切ってしまうことがあったとしても、いつまでもいつまでも、宝箱に入れて取っておきたい、心の贈り物、言葉の贈り物です。
その言葉を届ける配達人が教会です。いいえ、パウロという人は、教会のことをキリストがお書きになった手紙、キリストの手紙だとさえ言いました。私たちの礼拝、私たちの伝道、そこで語られ、聴かれる神の言葉を、神は世に向かって語りたいと、語っておられるのです。
神はそのためにこの教会を建てられ、支えていてくださるのです。世のための教会です。その言葉は世のための光の言葉です。世の命の言葉です。
自信を持って良いのです。世のために、あれもこれも、教会が人々の役に立つようにあれもこれもと、目移りする必要はありません。
祈りと、伝道に集中して良いのです。
そしてそれは何よりも、日曜日毎の礼拝に集中することです。
ある説教学者は言います。信徒である皆さんも、神の言葉を語る伝道者であり、説教者である。既に、毎週の礼拝において、皆さんが、神の言葉の説教の聴き手であると同時に、語り手でもある。
どういうことか?
使徒言行録2:14にこうあります。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」教会の誕生日、神の霊、聖霊が、主イエスの御約束通り、降って来た日の出来事です。激しい風が吹いてくるような音と共に、世に降った聖霊によって生まれたばかりの教会です。その周りに、何事かと集まって来た人々に向かって、教会が最初の説教をしました。
その教会の最初の説教において、ただ使徒ペトロだけが、立ち上がり、語りだしたのではありませんでした。ペトロは、共に立ち上がった十一人を代表して語ったのです。
だから、ある説教学者は言います。
毎週毎週礼拝に来ること、そして礼拝の中で語られる説教の言葉に聴き耳を立てることは、この使徒言行録の記述のように、共に立ち上がることなんだ。そしてたいへんわかりやすく具体的にこのように言います。
「教会員は、礼拝に出席するか、欠席することによって、説教の声を広く告げる拡声器になるのか、それを弱めてしまう消音機の役割を果たすのか、どちらかです。『あの説教は、当然聞かなければならない説教です』と証言するか、『あんな説教は聴いても役に立たない』と証言するか、というわけなのです。」
わたしは、この金沢元町教会の説教者として、このような言葉を、耳の痛い言葉としてではなく、感謝を持ってご紹介いたします。何人もの方が、ホームページにアップされる毎週の礼拝音声や、説教原稿を、三度四度と繰り返し聴き、読んでくださっていることを知っています。家族に聞かせようというわけではなく、自分のために、ご家庭の中で、掃除中、運転中、洗濯物をたたみながら、平日の生活の中で、繰り返し、繰り返し聴いていてくださることを知っています。
何度も聞かなければ分からない難しい説教であるかもしれないからということを反省しますが、それでも、そこから神の言葉を聴きとろうと情熱をかけてくださることを、本当にありがたく思います。
そしてそれは、牧師の話の上手さでもなく、信徒の熱心さによることでもなく、根本的に言えば、神の奇跡、神の賜物、神の霊が与えてくださる情熱であると信じます。神の生ける霊が、この群れに生きて働いておられるのです。そのことを信じて良いのです。
そして、そのような神の言葉への熱心な姿は、説教の言葉を広く告げる拡声器のような尊い働きなのです。
第8章まで読み進めてきたヨハネによる福音書ですが、この福音書を読み進める中で、神の言葉を慕い、キリストを拝む教会がこの世に存在するということがどんなに奇跡的なことであるかということは、いくら重くとらえても重すぎることはないということを考えさせられています。
この福音書を読みながら、私たちは本当にもどかしい思いになります。
神の言葉そのものであられる主イエスは、御自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかったと言われています(1:11)。このお方は、何が人間の心の中にあるかをよくご存じであり、だから、人間の心を見つめるとき、彼らを信用することはできなかったと言われています(2:24)。
この地に属する者に対しては、いくら天のことを話しても、信じることはできないと嘆かれています(3:12)。主イエスがお語りになればなるほど、弟子たちの多くが離れ去り、もはや共に歩まなくなったと記されていました(6:66)。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』でという誰もが知る物語があります。地獄に落ちた悪人カンダタが、生前、蜘蛛一匹を助けたことがあったという、小さな善行によって、お釈迦様に憐まれ、天まで上ってくることができるように、一本の蜘蛛の糸を垂らされます。しかし、その自己中心の無慈悲のために、上り切ることができませんでした。
主イエスの前の、人間の姿は、これに似ています。主なる神さまの憐みは、一本の蜘蛛の糸どころではありません。御自分の民、世にある人間の失われることに我慢ならず、人となって世に来られた御子であられました。にもかかわらず、このお方を、本当の意味で信じる者はいなかったのです。
今日お読みしました8:30の「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」というその信仰は、本当の信仰ではないのです。
この福音書が、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用なさらなかった」と、2:24でまとめたその繰り返し、再現であると、学者は言います。
まさに、多くの者が信じたと言われているその人々に向かって、今日読んでいる8章の21節、24節の前半と、後半の三ヵ所では、「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」という主イエスの厳しい言葉が語られなければならなかったのです。三度語るというのは、とっても強調されているということでしょう。口を酸っぱくして言っているということでしょう。
「あなたたちはわたしを捜すだろう。わたしを求めるだろう。けれども、見つけることはできない。わたしについて来ることはできない。あなたたちは自分の罪のうちに死ぬんだ。」
罪の内に死ぬことになるというのはどういうことでしょうか?
単純に言ってしまえば、死んでも仕方がないということだと思います。あなたたちが死ぬのは自業自得だ。あなたたちが滅びるのは、自分のやったことの報いを受けることなんだ。憐れみを与えられても、無慈悲を突き通せば、蜘蛛の糸は切れるのです。
蜘蛛の糸どころではありません。神の独り子御自らが、前のめりに世に来られても、その手を払いのけるならば、人は自分の罪の内に死ぬことになるのです。それは自分で選び取ったものです。
「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない。」「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」それだから、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである」と、主は仰いました。
三度語られたということは、口を酸っぱくして語られた警告の言葉、脅してでも、神の言葉を聴かせようとされる迫りの言葉だと受け取ることができます。
しかしまた、その言葉を受け入れる可能性が、主イエスがこれまでのところで語って来られたように、たとえば、第3章のニコデモという人との対話の中で語られたように、人間の可能性の内にではなく、生まれ変わらせてくださる神の霊の可能性の内にあるものならば、これは、もどかしいもどかしい、主イエスの御心を表す言葉でもあると思います。
ああ、あなたたちは、自分の罪の内に死ぬことしかできないんだね。わたしを受け入れることが本当にできないんだね。どうしても、どうしても、その不信仰の中から立ち直ることはできないんだね。
ここで、主イエスと対話しているのは、2000年前のユダヤ人です。
私たちよりもよっぽどよく聖書を学んでいる人たちです。その聖書の言葉通りに生きようと、生きているファリサイ派と呼ばれる真面目な信仰者たちです。
けれども22節、その彼らが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか』と話し合っている」と、主イエスのことを全く理解できないでいるのです。「多くの人々がイエスを信じた」と言われながら、やがて、主を捨てる人々なのです。それゆえ、主イエスの嘆きは深いのです。もしも、この人たちが、神の霊によって生まれ変わるということがなければ、神の奇跡が起こるのでなければ、この人たちは、自分の罪の内に、死んでいく他ない人たちなんだ。
しかし、主イエスは、このような者たちのために、世に来られたのであり、また、今、この時、お語りになったように、このような者たちのために、去って行こうとされているのです。
「わたしはあなたたちの元から去って行く。あなたたちの内の誰もついて来ることができないところに去って行く。人の子は上げられる。」
どうして、このお方が去って行く所に、この言葉を聴いている者たちは着いていくことができないのでしょうか?
23節の、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」という言葉から、誰も着いていくことができない、人の子、主イエスが挙げられるのは、「天」だと読むかもしれません。しかし、おそらく、ここで主が仰る、主イエスの他、誰も行くことのできないところ、主が挙げられるところは、まず何よりも、十字架の上のことでしょう。
自分の罪の内に死んで行く者たちが決して行けないところ、それは罪なきお方が、上げられるあの十字架の死のことです。
誰も着いていくことができないとは、誰も、この主イエスのように、死ぬことはできないということでしょう。
なぜなら、このお方の十字架の死は、自分の罪のうちに死ぬことではなく、自分の罪のうちに死んでいく私たちに代わって死なれた死だからです。
ある人は主イエスの十字架の死のことを死の中の死であると言いました。
主イエスが上げられたのは十字架でした。聖書には、木にかけられた者は神に呪われた者(申命記21:23)と書いてありますから、主イエスの十字架の死というのは、神の呪いを受けた者の死でした。
マルコによる福音書によれば、事実、主イエスは、「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、神に捨てられたと、絶望の叫びを叫ばれました。主イエスというお方は、御自分の民に棄てられ、そればかりか、神に捨てられ、呪われて、死んでくださったのです。
改革者カルヴァンは、この主イエスの叫びの内に、陰府、すなわち、神の御顔の光の届かない地獄の情景を見ています。主イエスはあの十字架で死の中の死を死なれたというのは、誰も主イエスほどは、深く、暗く死ぬことはできないということです。
しかし、この主イエスの深く、暗い死の中に、私たちの光、私たちの命があります。
このユダヤ人との対話の後に、やがて、このような道を選び取り、死の中の死を死のうとされているお方が、今日の所でも、このように仰っています。
「わたしはある」、「わたしはある」。
旧約聖書において、モーセに現れた主なる神さまの顕現の言葉です。
「わたしはあった」でもなく、「わたしはあるだろう」でもなく、「わたしはある。」今ここに、あなたたたちと共に「ある」。
このお方は、神の御心を理解しようとしない、理解できない、自分の罪のうちに死んでいく私ども罪人のために、今ここに、「わたしはある、あなたたちと共にある」と、宣言してくださっています。
裁くべきところのたくさんある私たちを裁くためではなく、私たちのために、十字架に上げられるために、来てくださったお方、そして、私たちに代わって裁かれてくださった方、そのおかげで、私たちはもう、自分の罪のうちに、神に捨てられた死を死ぬことはできなくなったのです。
これが神の御心、私たちに向けて宣言される神の言葉です。
このイエス・キリストの十字架の出来事が、罪のうちに死んでいたあなたがたを生まれ変わらせる、よみがえらせるんだと。
そして、まことに、まことに、今、ここに、自分の罪のうちに死んでいくより他なかった者、あのユダヤ人と少しも変わらない私たちが、主イエス・キリストを拝んでいるのです。今日の28節で、主イエスが臨み見ておられたことが、その主イエスの御言葉が出来事となった私たちなのであります。
「あなたたちは、人の子を上げたときに始めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と仰った、御言葉が、今日ここで出来事となっている私たちなのです。
そして私たちの身に起きたこの出来事によって、私たちが教会として集められたことは、私たちのためではありません。世のための教会です。キリストの手紙とされた私たち教会を見て、世の人々が、この神の言葉が、自分自身に語られている神の言葉であると、聴くのです。
ただいまより聖餐を祝います。この食卓に与るとき、改めて、私たちは、主イエス・キリストと一体となり、この方が私たちと取り換えてくださった命に与ります。そしてまた、同時に、この食卓は、私たちが神の言葉に声を合わせる言葉にならない言葉であります。
これに与れなければ生きてはいけない。どうしても、これに与らなければならない。小さな杯とパンくずに飢え渇いている不思議な私たちの姿もまた、神の言葉を証しする、世に向けた私たちの伝道の言葉であります。
「わたしはある」、「あなたのためにわたしはある」という主イエスの御言葉が、このわたしのためであり、また、この教会の姿を不思議に見つけるあなたのためであると、教会は、この聖餐において、公に語っているのです。
この食卓には、お一人お一人の席があります。人間ではなく、主イエスがご用意くださった席です。罪深すぎて、この食卓にふさわしくない、汚れすぎていて、ここには座れないという者はいません。ここにいる誰もが、外にではなく内におります。この場所で、この礼拝で、主イエスに洗われ、それから、食卓に着くのです。
「わたしはある」、「わたしはあなたのためにある」というお方が、この喜びの食卓に着かせるために、私たちの罪汚れを洗い流す水、洗礼の水をも、既に、一人一人のためにご用意くださっているのです。
御子イエス・キリストは、この言葉を耳にしたお一人お一人のために、世に来られたのです。
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