牧師室便りNo.67  2022.10.16

牧師室便りナンバー67

 塔の上の十字架を撤去いたしました。危険な作業を見守っていましたが、横木は、作業員の方が力を入れて持ち上げた瞬間、手で外れてしまいました。台風でも直撃すれば、落下するのは、時間の問題であったと思います。事故無く撤去できたことに安堵しています。しかし、何か込み上げてくるものがあります。献堂に携わった方々の記憶通り、木材の十字架でした。玄関に実物を置いていますので、ご確認ください。金属の十字架ではなく、木材にしようと思ったのは、やはり主イエスの十字架そのものを思ってのことではなかったかと想像します。私たちの罪のために、主はこのような木に事実、打ち付けられたのだ。ただの装飾でも、目じるしでもなく、金沢元町教会の信仰告白のように思えました。ほとんど剥げていますが、黒の塗料も残っています。教会写真集で確認できますが、黒い十字架の時期がありました。珍しいことです。けれども、典拠がないわけではありません。ルターの紋章の中心にある十字架は、黒です。デザインにそぐわないと感じますが、わざわざ黒です。私たちの罪を表していると言われています。

 会堂から47年間、風雪に耐え、よく持ち堪えてくれました。新幹線からも、一瞬ですが見ることができました。車窓からいつも探していました。新しい十字架を付ける必要がありますが、いつどこにどのような十字架を付けるか、まだまとまっていません。メンテナンスしやすいように、手の届く壁面に付ければという意見もあります。木材でさえ47年間耐えたならば、金属ならば、それ以上に、耐久性があるのだから、塔の上に付ければ良いという意見もあります。やがて、ふさわしい所に落ち着くと思います。

 今、会堂には十字架が付いていません。玄関まで来なければ初めての人は、決して教会だとは気付かないでしょう。何となく、必要なものを欠いている納まりの悪さを感じます。けれども、この時こそ、教会が教会であるのは何によるのか、私たちはこの地で何を指し示そうとしてきたのか、根本的な問いをもう一度、考える良い機会だとも思わされています。もちろん、それは、十字架に付けられたキリスト以外ではないのです。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」

(Ⅰコリント2:2)

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