小さな小さな教理の窓№8「正統、異端、カルト」①
原二ケア信条によって、教会は、父と子と聖霊を礼拝する三位一体の神を信じる群れであることを公にしました。これにより、正統と異端を分ける一つ目の公式の柵ができました。この教理に反する古代の異端については、あまりに縁遠いでしょうから名前を挙げませんが、現代で言えば、主イエスを最高の被造物であるが神ではないとするエホバの証人、反対に、我々も神々へと進化できると考える多神的なモルモン教は、どちらも二ケアの柵外にある信仰だと言わなければなりません。
けれども、私たちから見れば異端であっても、その団体に属する信者自身や、隣人を不本意な形で苦しめるような不法行為が疑われたりしていない限り、当然、信教の自由によってその活動は保障されています。もしも、その教えが教会の中に入り込んで来るならば、私たちは全力で抵抗し、真の福音のために戦いますが、教会の外で活動する限りは、この世界の中で共に生きる隣人が大事にしている思想、信条の一つの在り方として敬意をもって接するべきです。そして、主なる神さまが機会を与えてくださるならば、これこそ真の良い知らせと私たちが信じる福音を告げ知らせるべき主の命の重さを持ったかけがえのない隣人です。だから、我々の信仰に従えば、主の御体なる聖なる公同教会に属すると言えないので異端と呼びますが、即、それらを怖い宗教と決めつけ、危険視する必要はありません。信教の自由という近代の価値観が生まれたのも、合衆国で一時は異端のグループと見なされ迫害されたクエーカー教徒による信仰の自由のための戦いがあったからだと言われています。そのおかげで、日本の中では圧倒的少数派である、私たち基本信条の流れにあるキリスト教会も、自由に安心して、この道に生きることができるのです。異端=怖い宗教と考えるのは、ナイーブ過ぎるのです。
教理の直接の学びからは少し脱線していますが、実践的に教理が問われる場面での応用問題として、「正統、異端、カルト」というテーマを取り上げました。最近のある新興宗教を巡る問題を、皆さんが考える際の、材料にもなると思います。新しいから危険、基本信条から外れているから危険な信仰だとは必ずしも言えません。何が正統な教会で、何が異端であるかという教理上の線引きを越えて、ある信仰が破壊的なものであるかどうかを見極めるためには、さらに別の尺度が必要になります。いわゆるカルト宗教を見極めるための別の尺度です。異端はしばしばカルト化しますが、両者は、一応、分けて考える必要があります。これらの点については、時宜に適ったことであると思いますので、基本信条の解説の続きを一時停止して、さらに次回以降も考えてみたいと思います。
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