小さな小さな教理の窓№1「公式旅行ガイドブックとしての教理」
新年度は、コロナ明けに備えて、教理の学びを始めようと教会総会で決議しましたが、なかなか機会を得ることができません。しかも、なるべく多くの方に学んで頂きたいのですが、平日の集会では難しいかもしれません。そこで、限られたスペースですが、週報を使って、小さな小さな教理の学びを始めてみたいと思います。不足なくお伝えすることができるか不安ですが、小さな窓からそっと覗くように、教理の世界に触れてみることにも意味があるだろうと信じ、細々ながら始めます。あまり欲張りな目標は立てられません。教理の言葉に対する食わず嫌いをなくすこと、教理の言葉を何となく聴いたことがあるとか、それに反することを聴いた時には、何となくもやもやを覚えるようになれば、目標達成です。
さて、「教理」という言葉だけで、ハードルの高さを感じる方がいらっしゃるかもしれません。物理、数理、病理、「~理」と付くものは、専門分野の中でも、研究室に閉じこもる人嫌いの理屈っぽい人がする学問であるかのようにイメージされるかもしれません(全くの偏見ですが)。「教理」もまた、説教の前提として牧師が知っていれば良いもの、それを教会員に向かって教えようとする牧師は、理屈っぽい牧師というイメージがあるかもしれません。けれども、簡単に言えば、教理とは「教会の公式な聖書解釈」のことです。そう聴くと、信仰の養いとして聖書を読もうとする全ての人に関係があることが直ぐに想像されるのではないでしょうか?私達の教会は、聖書を読むことを大切にしてきた教会です。そのような私たちにとってこそ、教理は興味深いものです。それは、個人が書いたどんな注解書や、解説書、信仰書よりも、聖書を読む時に参考になる教会の公式な聖書解釈だからです。一人で読む時、祈祷会で皆で読む時も、困惑することがあります。そんな時、2000年の信仰仲間の意見、しかも教会の公式な読み方を知ることができるのです。何と心強いことでしょう。すると、「~理」というものの内、教理の学びは、数理や物理よりも、地理の学びに近いかもしれません。教理、それは、広い広い聖書の世界を、教会が長い年月をかけて探検し、描いた地図、公式旅行ガイドなのです。聖書は豊かな世界です。風薫る穏やかな草原、整備された街路もあれば、空気の薄い高地、白波立つ海路もあります。豊かだけれども、危険な旅路があります。聖霊が導く教会の記した堅実な教理という地図を手に、聖霊が導く教会として、広大な聖書世界を、今度は私たちが歩み、冒険するのです。
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