6月19日(日) ヨハネによる福音書第4章43節~54節
ヨハネによる福音書を読み進めています。
この福音書を読み進めて行く内に、この書の際立ったひとつの特徴に気付かされます。
それはこの福音書が、頻繁に二種類の信仰について意識して語っているということです。
別々の神に対する信仰というのではありません。
同じ神様、同じ主イエスに対する二つの信じ方があるのです。
どちらでも良いというのではありません。
一方は正しく、もう一方は、そのままでは、神に喜んで頂くことはできないものです。
主に喜んでいただけない信仰は、既に2:23以下にどういうものであるか、明らかにされていました。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた。」
主イエスに信用していただけに会信仰、それは、しるしを見て、信じる信仰です。
目に見える確かな証拠を得たからと、始まる信仰です。
同じように、今日、司式者に読んで頂いた箇所においても、しるしの上に、成り立つ信仰を悲しんでおられる主イエスの言葉に出会います。
48節の主の御言葉です。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」
なぜ、私たちは主イエスを信じているのでしょうか?なぜ、私たちは聖書の神を拝むのでしょうか?
主イエスを信じると、何もかも上手くいくからでしょうか?キリスト者の生活は不思議と守られ、神さまの特別な庇護の元に、生きられるからでしょうか?
金の切れ目が縁の切れ目という諺がありますが、御利益の切れ目が神との縁の切れ目だと、信仰生活の中に苦難が起こってくると、信仰を捨てたくなる心が、私たちの内にないでしょうか?
もしも、心当たりがあるならば、そこで揺らいでしまう信仰は、主イエスが決して信用されなかったとヨハネが語る私たちの欠け多き信仰です。
このような欠けた信仰は、表面的に信仰熱心であるか、ないかというところとは、あまり関係がないようです。なぜなら、今日の箇所で、主イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり仰っているからです。預言者が敬われないのは、無神論者の間ではありません。主イエスが受け入れられないのは、未信者の間ではありません。
そのお方は自分の故郷、ご自分のホームグラウンドでこそ、確かに私は敬われれないのだと、嘆いておられるのです。
しかも、これはどうも、単純なことではありません。
なぜならば、エルサレムに上京し、そこから、サマリアを通って、御自分の故郷ガリラヤに戻られた主イエスを、45節、人々は歓迎したとあるからです。「預言者は故郷では敬われないものだ」という主イエスの御言葉の直後に、その言葉が杞憂であったかのように、「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と記録されるのです。
つまり、ここには、2:23以下に記されていたことと、同じことが繰り返されているのです。
主イエスのお戻りを心より歓迎した人々の姿を目の当たりにしても、主の「預言者は自分の故郷では敬われないからである」という嘆きは、少しも消えることがないのです。
なぜならば、その人たちも、過越祭にエルサレムを訪れており、主イエスがなさったすべてのことを見て、その上で信じていたからです。
最近、教会の歴史について書いている本を、何冊か手に取って読む機会がありました。その内の一つに日本の教会の歴史について書いている本もあります。
私達金沢元町教会も、そうですけれど、明治以降の日本の教会の伝道は、アメリカ合衆国の宣教師の働きが中心となって進みました。
私たち日本の教会の直接の先祖は、アメリカ合衆国の教会です。
その書物は、このアメリカの教会の信仰というのは、少し特殊なところがある、独自の部分があると言います。
なぜなら、長いヨーロッパの教会の信仰の遺産からは、ちょっと切り離されているところで成り立った教会であり、信仰であるからだと言います。
そこには、良いところもありますが、ちょっと問題を含んでいるところもあると言います。
それは、神さまの祝福と現世的利益を、同一視して考える傾きがあるところです。
ピューリタンたちが信仰の自由を求めてアメリカ大陸に根付きました。
厳しい環境の中で、最初の冬には大きな犠牲を出した。それでも、耐えて、信仰を持って国造りをした。神の正義を実現するために生きてきた。信仰が試練を乗り越える力となったし、それだけ、その建国の歴史の中に、神の導きを感じました。
ゴッド・ブレス・アメリカ、神が信仰に生きるアメリカを祝福してくださった。そのおかげで、世界一の金持ちになり、世界一の強国になった。
神が、アメリカという国を、特別に祝福してくださっているからだという信仰の意識が基盤にあるのです。
しかし、これをある牧師は、アメリカでの信仰の土着化と言いますし、また、ある牧師は、アメリカの自己義認の信仰と言います。
金沢元町教会を生み出した宣教師たちと、その宣教師たちから福音を聴いた初代の教会員たちが、こういう信仰に生きたというのではありません。
それは、トマス・ウィンの説教を実際に読んでみれば、分かります。むしろ、ヨーロッパの教会の歴史から切り離されたゆえの率直さと、素朴な伝道への熱意というアメリカの信仰の良心を感じさせるものです。
けれども、確かに、私たちが、現代でも触れることができるアメリカ経由のキリスト教は、今でも、自己義認の信仰理解のように、感じられるものが時折、見受けられます。
たとえば、セレニティー・プレイヤー「神よ、変えることのできないものを受け入れる平静な心を/変えなければならないものを変える勇気を/この二つのものを見分ける知恵を/このわたしに与えてください」という祈りで有名なラインホールド・ニーバーという牧師、神学者がいます。
この人が、ある説教の中で、自分たちアメリカ人の心の中にあるこういう信仰を痛烈に自己批判するエピソードを語りました。
二ーバーがまだ若い時、自分のお父さんが牧師をしている教会に、78歳の高齢の八百屋さんがいた。信仰深い善人であった。
当時、その町では、鉱山のストライキがあった。八百屋のおじいさんは、鉱夫たちに同情して、自分の品物を掛け売りにして生活を支えたのだけれども、ツケを回収できず、とうとう破産してしまった。それが、彼の信仰の躓きとなりました。
なぜこんなに、神のため、人のために、愛を尽くした自分が、こんなひどい目に合わなければならないのか?
二―バーは、これは個人の問題ではなく、アメリカの信仰の全体に食い込んでいる問題だと言います。
いつの間にか神さえ信じていれば、自分は神の守りの内に、その人生は上手く行くと思い込んでしまっている。自分のために特別な神の配慮が働くと信じている。
自分が特別だと思える間、省みられていると思える間は、熱心に信じて、神に尽くそうと燃えている。けれども、それが裏切られると、神への信仰が揺れる。
ここまで聴きながら、これは少しもアメリカの問題ではないことに、お気づきになると思います。私たちの心の動きとも、重なるところがあるのです。
神さま信じているのに、ちっとも良いことがない。イエスさまを信じているのに、不運が重なる。そこで信仰がいちいち揺らいでしまう。自分の神への奉仕が報いられないと、失望して、信仰していることがつまらなくなってしまう。
私たちの教会が生み出した若草教会の初代専任牧師、加藤常昭牧師は、このような信仰を「瀬踏みの信仰」と呼びます。瀬踏みとは、川を渡るとき、水面に出ている岩にちょっと足を乗せて、ぐらつくかどうか、確かめながら、歩く歩き方のことです。
そのように、この神を信じて大丈夫かと、一歩一歩踏んで確かめている。ぐらっと来ると、信仰を持っていても、意味がないとということになる。
いつでも神を値踏みしているのです。キリストを品定めしているのです。
その基準は自分にあります。自分が望む祝福を与えてくれるのか?自分の幸せに貢献してくれるのか?自己肯定感を満足させてくれるのか?
自分の価値観、自分の思い、自己中心、だから、そのような信仰は自己義認の信仰と呼ばれるのです。
それは、神のお喜びになる信仰ではないのです。
しかし、それは、神に私たち人間の浅はかかもしれない祈りや願いを申し上げることをしてはならない、それは、我々のわがままに神を従わせようとする不敬だというわけではありません。
なぜならば、神は我々の弱さをよくご存知であるからです。
今日司式者に読んで頂きました聖書に描かれる主イエスのお姿は、主イエスの思いは本当にマニュアル化できるような、単純なものではありません。
というのは、一方においては、明らかに、しるしを求める信仰、主イエスを値踏みする故郷の人々、神の民達の信仰を嘆き、裁く主イエスのお姿があります。
「あなたがたは、しるしや不思議を見なければ、決して信じない。」という言葉は、主イエス一行が、ガリラヤのカナを再び訪れた時、死にかかっている息子をお救いくださいと願ったヘロデ王に仕える役人の言葉を受けたものです。
主イエスは明らかに、病気が癒やされるかどうかということを基準にして、主を主と信じるかどうかを判断しようとする信仰を批判されるのです。
コメント