5月8日 ヨハネによる福音書第3章16節~21節
ゴールデンテキストと言われるヨハネによる福音書第3章16節を含む一塊りの聖書の言葉を読みました。
これは私たちの新共同訳聖書では、イエス様がニコデモにお語りになった言葉の続きとして記されていますが、イエス様の言葉としてではなく、福音書記者のナレーションの部分と読むこともできます。
当時のギリシア語には鍵括弧みたいなものはありませんので、実際に、そう訳している翻訳もあります。
この第3章16節から21節というのは、いわば、主イエス・キリストの出来事について証言する福音書記者の短い説教だという言い方ができるのではないかと思います。
福音書記者ヨハネが独特な仕方で記録し、証言していく御子イエス・キリストの出来事の歴史は、この世、つまり、私たち人間から拒否され続ける歴史です。
主なる神様の被造物であるはずのこの世、私たち人間は、造り主を忘れ、その独り子を拒否し続けるのです。ヨハネによる福音書を読み進めるうちにどんどんそのことが明らかになってしまいます。
むしろ、御子が世に遣わされることによって、神とこの世の対立は、いっそうはっきりとしたものになってしまい、神と人間の断絶が決定的なものにさえなってしまうのです。
20節にこうありました。
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」
まるで光が差し込むと、下水に逃げ込むドブネズミのように、ご自分の民は、御子の光を嫌がって、闇に逃げ込むのです。救いの光がやってきたとしても、光の方に来ようとしないで、暗い方へと引きこもってしまうので、どうしようもない。それが、主イエスの到来によって明らかになる人間の姿です。
しかし、17節です。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
光よりも闇を好む人間、自分たちの真の主人を受け入れることができず拒否するこの世、この救いがたいものを救うために、神は、御子を世に遣わされたのだと、ヨハネは宣言いたします。
今日の聖書箇所は大変大切なところだと思います。改革者ルターによって、福音のミニチュアと呼ばれる3:16の言葉が含まれる箇所ですし、また、ヨハネによる福音書独特の裁きの理解が語られているからです。
私たち現代の教会はあまり口にしないかもしれませんが、信じる者の救いの裏側にある、信じない者の裁きについて、語られている個所です。
けれども、ヨハネによる福音書の語る信じない者への裁きは、死後、地獄が待っているということではありません。あるいは、世の終わりに裁きがあるというのではありません。
18節後半に、「信じない者は既に裁かれている」と語ります。信じない者は、この世で、この現実で、既に、裁きを受けていると言います。
しかし、それは、信仰のない者には、この世で、不運や不幸が訪れるというのでは決してありません。
裁きの内容は、19節が、はっきり語っています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」と言います。
好き好んで闇に逃げ込むこと自体が、この世に対する裁きだと語られるのです。
キリスト者であっても、このようなヨハネの教会の語る裁きの理解は、それほど馴染みがないかもしれません。
けれども、少し落ち着いて考えてみれば、よくわかるのではないかと思います。
イエス・キリストへの信仰に生きないということは、たとえば、この世に神の仏もあるものかと言いながら、生きて行くことではないかと思います。
前回のニコデモとの対話の中での言葉を併せて考えると、ヨハネの語る神の裁きとは、神の国が見えない、神の支配が見えない中で、生きて行くことではないかと思います。
信仰を前提としているわけではない現代社会においても、私たち人間が、「まるで、この世は地獄だ」と思わず言ってしまう時、それは、暴力と不条理が支配する世界の有り様、神も仏もあるもんかとしか言いようのないこの世の悲惨な有り様が目の前に突き付けられた時ではないかと思います。
その意味で、地獄は、死後の世界にではなく、この世で、神の支配が見えない、神も仏もあるもんかと言いたくなる時に、現に経験されるものではないかと思います。
たとえば、それが、ヨハネによる福音書が語っている、今ここで現に経験する裁きのことではないかと私は思います。
そう考えますと、実は、私たちはキリスト者であったとしても、いかに、頻繁に裁きの中に陥ってしまうかとも思い至ります。
いいえ、むしろ、信仰の深い者であればあるほど、このような裁きの経験を深くしなければならないとさえ言えるのではないかと思います。
なぜならば、もしも、神も仏も信じていなければ、自分の身や、世界に起こるどのような不幸も悲しみも、それは、世界がただそうあるだけであって、神の支配が見えないなどと、無駄に悩む必要はないからです。
神の支配を見ることができない、信じることができないというのが、既に、裁きなのだと語るヨハネによる福音書3:19の言葉を聴いても、だからどうした?
確かに、死後に待ち受ける地獄の説教よりも、現実的で、納得のできる裁きの理解だとしても、だから、どうだって言うんだ?そこに、世の無常を思っても、それ以上ではないというのが、ニコデモのように神の慈しみ深い支配を信じているわけではない、現代に生きる我々の内の多くの者のごく普通の反応だと思います。
話が飛ぶようですが、私は日本伝道のためには、まず、ここを明らかにしておかなければならないと思います。
死後に待っている天国と地獄なんて、リアリティが無さすぎるし、また、神の支配を信じられないことが既に地獄だと言われても、別に、どうってことはないのです。実際、信仰を与えられる前の私自身がそうだったと振り返って思います。
まだ洗礼を受けていない方にとっては、少し、イライラさせられるような言葉遣いかもしれませんが、19節の「光が世に来たのに、人々は行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。」と言うのは、別に、信じてない人たちが、洗礼を受けたキリスト者たちと違って、悪い行いに取り付かれていると言うのではありません。決してそうではありません。
ここで言われる悪い行いとは、単純なことです。キリストのもとに行かないと言うことです。キリストを信じないと言うことです。
「光よりも闇の方を好んだ。」とは、悪いことばっかり考えたり、行ったりしている人間だと言うのではありません。光よりも闇を好んでいるとは、キリストが来られたのに、この方を受け入れようとしないということです。
なるべく人様に迷惑かけないように生きているのに、まぁそれなりに、真面目に正直に生きようとしているのに、イエス・キリストを受け入れないということが基準となって、あなたは暗闇を好む邪悪な人間だと言われたら、たまったものではありません。
けれども、今日与えられました聖書箇所は、そう言っていると言わざるを得ません。
もしも、腹立たしいとお感じになる方があったとしても、ご勘弁下さい。そういう聖書箇所です。
しかしまた、だからこそ、洗礼を受けた者たちは、自分たちのことを他の人とは違う上等な人間だと思っているわけではないということも明らかです。
自分たちは悪い行いをしている世の人たちとは違いへ、良い行いをしている聖人君子だとは思っておりません。ただ、イエス・キリストを信じているだけです。
この方の内に、しかも、十字架におかかりになった御子の内に、この世に対する神の慈しみ深いご支配を見ているのです。
それだけが、私たち教会の良さです。キリスト者と、それ以外の人たちを分ける決定的な違いは、ただ一つ、キリストを信じているか、信じていないかだけです。
そして、その結果、キリストの内に、神の支配を見るか、否か、見ていないことが裁きなのです。
信じる者の立場、すなわち、教会の立場から言えば、それは、裁きであり、悪いことかもしれないけれども、それはまた、信仰を持たない者の基準に立てば、全然、不足を感じたり、困ったことではありません。
それが、悪いことだとか、恐ろしい裁きだと感じるのは、信仰を前提とする時だけです。
福音書記者がその言葉を使ったように、ある意味では、好みの問題、教会が光と呼ぶキリストを好むか、好まないかの違いであるし、キリストを好まなかったことが、闇を好んだという言い方をされると、言われた方は、気分は悪いでしょうが、正直、どうってことはないと言えます。
キリストの内に、それもその十字架の出来事の内に、神の支配を見ようとしない。だから、この世は神も仏もない世界に見えてしまう。それは、キリストへの信仰を与えられた私達にとっては、恐ろしいことですが、そうでなければ、この世に対する普通の見方の一つです。
世の中にはキリストを信じる者と、信じない者がいる。キリストの十字架の出来事の内に神の御支配を見て、この世に対する神の支配を決して疑わないよう励まされる者と、そうでない者がいる。
しかも、二種の人間がいると言っても、五割づついるというのではなく、福音書記者自身が、そう言う他ないとうめきながら書いていると思いますが、どうやら、イエス・キリストを信じない、受け入れないという方が、この世の普通のあり方、私たち人間の圧倒的に普通のあり方として描かれているようです。信じる者、主イエスにお従いする者は、ごく少数なのです。
いいえ、実は、それどころか、キリスト自身が自分の民と見定めている者たちも、ご自分を拒否する。ニコデモのようにその名を信じたと言えるような少数者でさえ、その心の内を覗けば、信用に値しないのです。
つまり、今日の個所にまで至るヨハネによる福音書の冒頭からの言葉を丁寧に追い、この福音書記者が人間という者をどういう存在として見ているかと整理していきますと、二種類の人間なんていないのです。結局のところ、信仰のない人間しかいないのです。
私たち人間の内の信仰、不信仰などというものは、主イエスにとっては、不信仰の濃淡、不信仰のグラデーションでしかないのです。
弟子たちもそうです。誰の信仰も、信頼に値しないのです。主イエスの光に照らされると、私たちこの世、その人間の暗さが明らかになってしまうのです。
ところが、福音書記者が語る人間ではなく、福音書記者が語る神に注目すると、この暗さを吹き飛ばす明るさが立ち現れるのです。
光よりも闇を好む人間、神の独り子を決して、神がお望みになるような仕方では、受け入れることのできない不信仰な私たちを、神はお見捨てになることができない。
私たち、この世の方は、キリストを捨ててしまうのだけれども、キリストは、私たちを捨ててしまうことができない。
しかも、神の深い慈しみのゆえに、旧約時代から今に至るまで、神はこの不信仰な世との関係を清算できず、ずるずると、なお続けておられるというのではありません。
神はイエス・キリストにおいて、決定的なことをなさったのです。
すなわち、3:16です。
「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これは、14節の言い換えです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」という主イエスの言葉の言い換えです。
この不信仰な人間、神の支配が見えなくたって、それがどうした?この世はそんなものだ、生まれて、しばらく存在して、やがて跡形もなく消えるだけだと開き直っている私たち人間に対して、それはダメだ、お前たちが良くても、私は良くない、決して見過ごしに出来ないと、私たちの造り主なる神は、キリストにあって、我々に、介入して来られるのです。
これは、闇を好む人間、キリストを受け入れることができない、その必要性も本当には感じていない、私たちこの世である人間にとっては、ちょっかい、お節介、余計なお世話と思えるようなことなのかもしれません。
けれども、イエス・キリストの父なる神様は、私たちがどんなに闇の方を好んだとしても、絶対に見捨てない。
この世が、自分の神をすっかり忘れてしまって、無関係、無関心、苛立ちを持って臨んでいるとしても、絶対に手放すことがないのです。
あなたに信仰がないことなんて、百も承知している。あなたが知っている以上に、知っている。信仰がないならば、あなたの心に信仰を生み出すと言うのです。
私の言葉によって、無から有を生み出す、私の言葉によって、我が聖なる霊によって、信仰を造り出すと約束されるのです。キリストの出来事の内に、神の支配を見る真の信仰です。
まさにその独り子の十字架の出来事によってこそ、人間には不可能な、イエス・キリストの父なる神を信じ、お従いするという奇跡が、この世の、つまり、この私たち人間の現実となるのです。
21節に、こう約束されています。
「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
ある説教者は、この3:16のなりふり構わない神の愛を、「神の一所懸命な愛」と呼びました。
一生懸命ではなく、一所懸命です。
一所懸命とは、昔、武士が殿様から領土をもらう。その所領に全力を注ぐ。ただ武力で領地を守るだけでなく、領民のために心を遣い、土地から良い実りが得られるように良い政治を行う。命を懸けて、全存在を傾けて、自分の領地とそこに生きる者を守るということから、一所懸命と言う言葉が生まれた。やがて、最近になって一生懸命とも使われるようになったけれども、自分は、是非、この一所懸命という言葉を大事にしたい。その言葉を聴いた時、このヨハネによる福音書3:16を思い出したからだと言います。
神にとっての命懸けで守り抜きたい一所、それは、世であり、世にある私たちなんだと思った。そのことを改めて思わされ、感謝したと。
私たちの側には自覚はないかもしれません。いいえ、ないかもしれないではなく、自覚はないのです。完全に忘れてしまっているのです。
けれども、神がお忘れになったことはないのです。
信仰とは、そのことを思い出せば救ってやる、思い出さなくても、受け入れれば救ってやるなんてことであるはずがありません。
たとえ、私たちが闇の中に安住の他を見出したと決め込んでいても、神が一所懸命に私たちを追い求められるのです。
お節介にも、探し回られるのです。何年でも、何十年でも、何百年でも、何千年でも、私たち世にある者たちを追いかけ、連れ戻しに来られる。
私たちが、神にとっての一所です。
そのことを告げるヨハネによる福音書3:16です。
この神のたぎる思い、熱い思いが、私たちの内に信仰を造り出されるのです。
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